うさぎとかえるの里

鳥獣戯画をこよなく愛する自分の日本文化や日常に関する想いをつづります。

南北朝考

2010-02-19 02:16:30 | 読書
最近読んだ本です。

「皇子たちの南北朝  後醍醐天皇の分身」

私にとってかゆい所に手が届く本でした。

太平記を読んでいて気になったのが、後醍醐天皇の皇子が次々に登場する点。

子沢山ということは知っていたけど、名前も似ているし、思わず表を書いちゃったくらいです(^^;)

護良親王(大塔宮)は、後醍醐天皇配流中に中心になって倒幕活動していた方なので
一番インパクトありますが、特に各地に派遣された皇子たちがね…

どんな表を書いたかというと、こんな。

義良→奥州(北畠)
成良→鎌倉(足利直義)
恒良・尊良→越前(新田)
懐良→九州(菊池)

みたいな簡単なの。

ちなみに、資料によって異なりますが、どうやら後醍醐天皇には、皇子皇女合わせて30人はいたようです。

もちろん、歴史上に登場するのはごく一部。

主立った者は、大塔宮護良、宗良(尊澄)のほか、各地に派遣された皇子達です。
しかもみんな十歳以下で…。

…このあたりが太平記を読んでいて、違和感だったところ。
…って子供ですよね、でもちゃんと令旨を出しているから、仕事もされていたようで。
まわりにしっかりした者がついていたからだと思うのですけど。

武家の力を頼るでなく、自らの皇子を使って、南朝の政権を回復・維持しようとした
ところが、後醍醐天皇の発想のすごいところだと思います。
網野善彦さんの本もかつて読んだけど、まさに「異形の王権」…。

そして、皇子たちが、本当によく戦ったということ。
それまでの、朝廷のみやび~…なイメージとは、とうてい結びつきませぬ。
ホラ、平安文学の、和歌とか、色恋に明け暮れる宮中の貴公子達を思い出してごらんなさいヨ(^^;)

それとの比較もあってか、南朝の皇子たち、こうして後からみると悲劇的な要素がとっても大きい…。
それはつまり道具として使われたと思われたからなのです。
(だって、主だった方々、みな短命で、幕府の手にかかって殺されたり、自害したり…)

でも、志半ばで吉野で亡くなった後醍醐の意志を継いで、その後も戦いつづけた
皇子たちに、この本を読み終わってからは、違った印象をもちました。

特に、この歌。

吉野が幕府に攻撃され、後村上帝(義良)が、吉野を捨て、賀名生に移ってから、
兄の宗良ととりかわした歌。

宗良 
たらちねの守りをそふるみ吉野の 山をばいづち立ちはなるらむ

後村上返し
ふる郷となりにし山は出でぬれど 親の守りは猶もあるらむ

…父、後醍醐帝の影響は大きかったのだろうなぁ…。

なんだか、この時代のスケールの大きさと、奥の深さに、ほとほと参ってしまった私です。
中世は、文学的にもあまり主だったものがなかったので、スルーしてきた分野ですが、
最近は古代から一貫して日本の歴史を改めて知らなくては…と思う次第です。
コメント
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