なんで上野に行ったのかって?
それは、今日から始まった「没後400年特別展 長谷川等伯」を見るためです!
会期が一か月という短期開催なので、初日の今日行っておかないといけない感じだったので(^^;)
等伯といえば、智積院の障壁画くらいしかパッと思い浮かばないのですが…
すごいですね、能登時代は、絵仏師として活動していたそうで、その時の仏画の
細かいことと言ったら…。
人物も風景も動物も水墨もなんでもすごいですね。
そして、こうして一同に会してみると、画風の変化も分かるから、面白い。
展覧会ならではですね、個体でそれぞれのお寺とかで見ても、こうはいかない。
繊細なものから、ダイナミックなものになり、後半は別の意味で繊細(水墨画)になっていく…っていうのが私の感想でした。
今回特に印象が強かったのか2作品あるので、思ったところを書いてみます~。
でもこの2作品、やっぱり目玉作品なので、だれもが注目してると思うんですけどね。
というわけで、ミュージアムショップで、「長谷川等伯」の本を買いました。
…というのも、じっくり見たかった「仏涅槃図」が、今回の図録にちびっとしか出ていなくて…絵葉書とかにもなっていないし…(i_i)
「仏涅槃図」
1568年に描かれて石川にあるものと、1599年の京都本法寺にある巨大なものと、ふたつありますが、私は後期の大きさには圧倒されるものの、作品としては1568年のものの方が好きです。
涅槃図は、素材として珍しくはないかもしれない…けど、私にとってはちょっと思い入れが
あるものでして、それは、奈良の法隆寺五重塔初層の塑像群のなかの「涅槃図」があまりに
インパクトがあったからなのです。
あの、嘆き悲しむ人の表情が、ほんとうに切なくて、塑像ならではのリアリティーも
あって、好き…っていったらおかしいけど、気になる作品なのです。
…この、等伯のもすごいです。
入滅した釈迦の周りに集まった、弟子も菩薩も鬼畜も動物の、悲しんでいる様子!!
布で目元を押さえたり、袖で顔を覆ったり、倒れこんだり、菩薩は手を合わせているのもいます。
そして、1568年のものでは、バクと鵺みたいな幻獣も、身をよじって悲しんでいる。
他の動物たちも、悲しんでいるのが伝わってくるのがすごい。
動物を描いて、悲しんでいるのを表現させるのって、すごい技術だと思うんですよね…
あと、法隆寺の塑像でも、向かって右奥に阿修羅がいますが、今回も探しちゃいました。
1568年のものはちょっと分かりづらいですが、1599年のほうは、しっかり手も多臂だし、顔も三面あるし、分かりやすいです。
ワタシ、昔から「悲しみの表現」にこだわる性質がありまして、絵でも像でも
小説でも映画でも芝居でも、どれだけ「悲しみの表現(演出)」がリアルで心に迫ってきて、美しいか…がその作品を「素晴らしい」と判断する基準になってしまうのです。
…つまり、切なくなるような気持ちにさせてくれるものが、「心に訴える作品」…というか、勝手にコレを自分の「日本人の美意識」と思っております(^^;)
子供のころから歴史小説とか戦争ものを多く読んできたので、感化されてしまったのかもしれません。
その次は、この作品!
「松林図」
水墨画の技法を極め、霧にかすむ松の林を、墨の濃淡で、奥行き深く描いたものです。
近いものは、濃く、奥のものは、霧でかすんでいるので薄く…しかも木の重なり具合によって、その濃淡もまた微妙で…
…広い画面をダイナミックに使った(屏風だからね~)ため、その余白にまた味があるというか…
心ワシヅカミでした。
…と、コレにもやっぱり理由がありまして、
都会にいると農務はほぼ経験することはないのですが、山沿いで育ったために
霧(山ではガスといいますね…なんで?)は、しょっちゅう経験していて、
その状況が、リアルに頭に再現できて、懐かしかったから…なんですね。
霧の日ってなんか静寂で、松とか針葉樹は濃く、細い木は、薄く、手前の木は濃く、奥の木は薄く…って当たり前なんですが、まさに水墨画の世界でした。
たとえば…。
松林ではないけど、こんなイメージ。
コレは2007年の軽井沢で撮った写真(写真部のとき)(^ω^;)
…どんな駄作でも、消去しないワタシならではの蔵出しです~。
この、霧の世界は、まさに水墨画。
こういうのが私の潜在意識にあるので、等伯の「松林図」にひかれたのでしょうかね。
…涅槃図では、見ているワタシまでせつない顔になり、
松林図では、なんか心にグっとくるものがあり、またまた心に栄養をもらった展覧会でした。
ちなみに、客の入りはこみすぎず、でもそこそこ入っていて(初日なのに)
自分のペースで見ることはできたので、よかったです。
昨年春に、阿修羅像を見に来たときは、外で随分並びましたが、もちろん並ばずに
入れます~。
それは、今日から始まった「没後400年特別展 長谷川等伯」を見るためです!
会期が一か月という短期開催なので、初日の今日行っておかないといけない感じだったので(^^;)
等伯といえば、智積院の障壁画くらいしかパッと思い浮かばないのですが…
すごいですね、能登時代は、絵仏師として活動していたそうで、その時の仏画の
細かいことと言ったら…。
人物も風景も動物も水墨もなんでもすごいですね。
そして、こうして一同に会してみると、画風の変化も分かるから、面白い。
展覧会ならではですね、個体でそれぞれのお寺とかで見ても、こうはいかない。
繊細なものから、ダイナミックなものになり、後半は別の意味で繊細(水墨画)になっていく…っていうのが私の感想でした。
今回特に印象が強かったのか2作品あるので、思ったところを書いてみます~。
でもこの2作品、やっぱり目玉作品なので、だれもが注目してると思うんですけどね。
というわけで、ミュージアムショップで、「長谷川等伯」の本を買いました。
…というのも、じっくり見たかった「仏涅槃図」が、今回の図録にちびっとしか出ていなくて…絵葉書とかにもなっていないし…(i_i)
「仏涅槃図」
1568年に描かれて石川にあるものと、1599年の京都本法寺にある巨大なものと、ふたつありますが、私は後期の大きさには圧倒されるものの、作品としては1568年のものの方が好きです。
涅槃図は、素材として珍しくはないかもしれない…けど、私にとってはちょっと思い入れが
あるものでして、それは、奈良の法隆寺五重塔初層の塑像群のなかの「涅槃図」があまりに
インパクトがあったからなのです。
あの、嘆き悲しむ人の表情が、ほんとうに切なくて、塑像ならではのリアリティーも
あって、好き…っていったらおかしいけど、気になる作品なのです。
…この、等伯のもすごいです。
入滅した釈迦の周りに集まった、弟子も菩薩も鬼畜も動物の、悲しんでいる様子!!
布で目元を押さえたり、袖で顔を覆ったり、倒れこんだり、菩薩は手を合わせているのもいます。
そして、1568年のものでは、バクと鵺みたいな幻獣も、身をよじって悲しんでいる。
他の動物たちも、悲しんでいるのが伝わってくるのがすごい。
動物を描いて、悲しんでいるのを表現させるのって、すごい技術だと思うんですよね…
あと、法隆寺の塑像でも、向かって右奥に阿修羅がいますが、今回も探しちゃいました。
1568年のものはちょっと分かりづらいですが、1599年のほうは、しっかり手も多臂だし、顔も三面あるし、分かりやすいです。
ワタシ、昔から「悲しみの表現」にこだわる性質がありまして、絵でも像でも
小説でも映画でも芝居でも、どれだけ「悲しみの表現(演出)」がリアルで心に迫ってきて、美しいか…がその作品を「素晴らしい」と判断する基準になってしまうのです。
…つまり、切なくなるような気持ちにさせてくれるものが、「心に訴える作品」…というか、勝手にコレを自分の「日本人の美意識」と思っております(^^;)
子供のころから歴史小説とか戦争ものを多く読んできたので、感化されてしまったのかもしれません。
その次は、この作品!
「松林図」
水墨画の技法を極め、霧にかすむ松の林を、墨の濃淡で、奥行き深く描いたものです。
近いものは、濃く、奥のものは、霧でかすんでいるので薄く…しかも木の重なり具合によって、その濃淡もまた微妙で…
…広い画面をダイナミックに使った(屏風だからね~)ため、その余白にまた味があるというか…
心ワシヅカミでした。
…と、コレにもやっぱり理由がありまして、
都会にいると農務はほぼ経験することはないのですが、山沿いで育ったために
霧(山ではガスといいますね…なんで?)は、しょっちゅう経験していて、
その状況が、リアルに頭に再現できて、懐かしかったから…なんですね。
霧の日ってなんか静寂で、松とか針葉樹は濃く、細い木は、薄く、手前の木は濃く、奥の木は薄く…って当たり前なんですが、まさに水墨画の世界でした。
たとえば…。
松林ではないけど、こんなイメージ。
コレは2007年の軽井沢で撮った写真(写真部のとき)(^ω^;)
…どんな駄作でも、消去しないワタシならではの蔵出しです~。
この、霧の世界は、まさに水墨画。
こういうのが私の潜在意識にあるので、等伯の「松林図」にひかれたのでしょうかね。
…涅槃図では、見ているワタシまでせつない顔になり、
松林図では、なんか心にグっとくるものがあり、またまた心に栄養をもらった展覧会でした。
ちなみに、客の入りはこみすぎず、でもそこそこ入っていて(初日なのに)
自分のペースで見ることはできたので、よかったです。
昨年春に、阿修羅像を見に来たときは、外で随分並びましたが、もちろん並ばずに
入れます~。