か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ファンを減らすいけない日々の告白

2013年03月14日 | あそび

西鉄福岡駅にそばに、今はソラリアとかいう醜悪なホテルかデパートか映画館か何かそんなもんが建つ。僕が高校の頃、そこは相撲の九州場所の会場でありスケートリンクでありもした。

その正面に照和という喫茶店がありフォークソング好きが集まった。井上陽水はなぜか反発し一挙に東京をめざした。だがその他大勢はまずこの照和で認められることが一定のステイタスであり、プロかアマかはその後に自分で決めることにしていた。

財津和夫(大阪芸大音楽家教授)とか武田鉄也とか甲斐バンド(僕の弟がギターを習った)、陣内孝則、長渕剛、そして鉄也の海援隊だ。

今のサッカー人気と似ているところがある。どんなに下手でもサッカーしているといえばモテる。当時もどんなに下手でもギターやってるというとモテた。僕は友達と一計を案じかってにフォークグループということにして、女子短大や女子大を回った。

早く免許をとった僕はいかに彼女らを連れ出すかばかり考えていたが、今のように未成年だ通報だとヒステリーはいなかったのでおおらかに楽しむことができた。

偽フォークグループとはいえ僕の相棒は井上陽水よりも上手だ。彼は田舎の大百姓の一人息子でほしいものは何でも手に入れてきた。甘やかすと人間がダメになるというのは、貧乏人が自分が納得するためについた嘘だ。彼は誠実で優しい人間だ。ただし酒が入らないと。

当時は缶ビールはあまりなかったので瓶のビールをクルマに積み込み、能天気女子大生を積みこみ、ついでにギターを積みこみ、僕か彼のクルマで筑後川の堤防を飛ばした。クーラーはあまり効かず三角窓の方が心地よい。

飲んだビールは窓から堤防の下に投げた。今でも堤防の下には僕が投げたビール瓶があるに違いない。

そのころは学校に何に乗って行ってもよかった。死ねばそいつがバカなだけで学校は知らんぞというスタンスだ。鉄也の筑紫中央や僕の筑紫ヶ丘もまさに自由そのものだった。誰も大学に行って自由を感じたものはいない。すでに高校で存分に自由だった。途中で先生を見つけると乗せてきてあげたこともある。

いじめはない。そんなことしたら自分が大学に落ちるだけだ。厳しい勉強の規律こそあれ、それ以外についてはきわめて自由で、規則で縛ろうとする低能な発想は一切なかった。

補習や課外のない僕らは勉強時間は少なかっただろう。だが東大への合格者は今の3倍あったぞ。

Posted at 2013/03/13

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