耳鳴りがするほどの子供の声も、シーンとした家に帰ってみるとなんだかとっても良い時間だったような気がする。父親が言っていた。家に子供の声がすることはいいことだ、と。子供が小さい時同居していたが彼はとても喜んでいた。
技術将校だった彼は理系特有の極端な口下手で、戦後は損ばかりしていた印象がある。子供の僕には確かなことは分からない。
今その気持ちはわかる。子供の声がしない家は死んだような静けさだ。
でも最近の子はゲームばかりするのかな。別に悪くないがせめて現物の木切れとかボールとか積み木があればなをよく、そうして現実世界で遊ぶのもいいことだというのをわからない子供はかわいそうだ。
天皇家のだれかが子どもに積み木を買ってやった。たかが積み木だが実によくできていて思考力が煉られる。僕も子供のころ遊んだ。5歳までとなっているが僕は小学3年まで遊んだ。僕はこれで頭がよくなったと言い切ることができる。レトリックですけど。
10万円の積み木が高いからと子供に無関心で、カネはビール代に消え愛されない子供は思考力を失う。そんなぐうたらの家庭では、積み木があってもなくてもどうせ子供はやがて親のような親になる。
ポイントは何かというと、丁寧に試行錯誤を繰り返しゆっくり深く物事の本質を考えようとする子供になってほしいという願いがこの積み木にはあるということ。そのためのものすごい工夫があるということだ。
文を読むということも同じことが言える。読みが浅い人とは議論が成立しない。また量が足りないと語彙が不足し一定以上の思考ができない。同じことばかり聞かされて苦痛だ。フラれた男にいつまでもすがる女のようにくどくしつこい。なぜ東大が日本史と世界史の両方を課すのか、物理と化学の両方を。
東大は国語力の重要性を自覚している。
近所のおばさんが先生をやめて自宅を改造し鶴〇文庫という名前の小さな図書館を作った。おばさんは控えめだが子供たちが本の世界の素晴らしさを知ってほしいと願っておられるようだ。
最近はだんだん子供が読みに来なくなりました、と言っていた。豊かな語彙力は自己表現の豊かさにつながる。頭が残念な水準の人は語彙が少ないので同じことを繰り返し言う。語彙力と読解力は自分の中に正しく正確な概念を形成するのに役立ち、間違った理解をして錯乱することもなくなる。
積み木にしろ本にしろ、抽象力のある人は今何の話なのかわかると思う。それこそがポイントだ。ゲームには絶対ないものだから。