か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

僕の机の脚を燃やしたF6F

2013年04月02日 | 東洋歴史

じっちゃんは熊本の建軍(けんぐん)というところに住んでいた。

ある日海軍技官としてそばの飛行場にテスト飛行を見に行った。昭和15年ぐらいはまだ帝国上空の制空権は我が方にある。太平洋の半分は日本だ。下層で低能な戦争気違いになるに従って帝国の勝利を疑うものはいない。

だが、理性ある者はどんなに情報が限られようと、冷徹に太陽の帝国の沈みゆく速さを実感していた。

将校になると、少なくとも海軍は、ケンカの矢面に立たされたわけだからとりわけ慎重冷静になる。その怯えは、ちょうど田舎の松華堂弁当のような飛行機を造らせた。あれもこれもと過大な要求の果てにできたのは襖と障子のふにゃふにゃの空に浮くだけの飛行機だ。

こんなものを世界に冠たるゼロ戦といってはいけない。コピーではなかったというバカがいる。コピーすらできなかったのだ。

じっちゃんが見ているとプロペラが外れてパイロットが殉職した。哀れな人生だ。そのパイロットですら数百倍の競争率を勝ち抜いた空の荒鷲だ。戦争気違いの出る幕ではないぞ。

19年になると日本の制空権は完全になくなった。艦載機が数機ずつの編隊で小さい目標を攻撃した。駅、陸橋、機帆船。学校、病院。個人の家。

ヤンキーはJAPを追いまわして遊んでいた。この時一機のF6Fがじっちゃんの家に銃口を向けた。2000?の急降下と12.7ミリ×6丁の音は天空からの地獄の音だ。じっちゃんは炊事場の石の流しの下に隠れたが、何発もその上を跳弾した。家は火を吹き出したので当番兵に命じて家具を庭に投げさせた。

その後艦載機はほぼ連日のように来た。戦争気違いよ。頭を使え。艦載機が来るということはごく近くに空母がいるということだ。空母は艦爆の餌食だ。日本にはその空母を沈める艦爆すらなかったのだ。

じっちゃんはその後福岡に転勤を命じられ「震電」をつくれと言われた。さすがにこのころになると誰の目にも無理だということは分かっていた。パイロットの養成は?機材は?工作機械は?電力は?輸送は?

B29撃墜に特化した自殺機が完成した。ジェット化計画があったという人がいるが嘘だ。じっちゃんは熱対策に死ぬほど努力をしている。あの機体では無理だ。

建軍の家の机は何度か焼け庭に投げ出された。今は僕の机になっている。

グラマン(F6F)が焼いた僕の机の脚。

Posted at 2013/04/01

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