刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

「邪馬台国はどこか?」へコメント(その2)

2024-11-25 00:00:03 | 古代史

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#つづいて以下のコメントも刮目天説への反論となる重要な意見ですので、それに対して下のようなコメントをしました。2019-07-30 00:09:14に公開しましたが(その1)の改定に伴い、こちらも改訂しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)


日向人 | 2019年6月2日 at 9:34 AM REPLY
ニギハヤヒとは大物主ノ神のことです。出雲出身の神様です。



刮目天 | 2019年7月29日 at 12:46 AM REPLY ↓ Your comment is awaiting moderation.
「日本書紀」によれば神武東征の前にすでに大和と河内の境の生駒山に降臨していた天孫族ニギハヤヒですが、三輪山の大物主大神(出雲の大国主命)とは全く別人ですよ。親戚ですが( ^)o(^ )

謡曲「三輪」にある
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや! 」

本当の伊勢の神「天照皇太神」はニギハヤヒではなく、初代ヤマトの祭祀王応神天皇の本当の父大国主命なのです。下の図「日本建国に関わる人々の系譜」に示した日本建国の主役なのです(「
能楽が建国の真相を伝える?」参照)(2024.11.25 赤字改訂)

ニギハヤヒは「王年代紀」(『宋史』に記載)の第19代(奴国)王天照大神尊で、107年に後漢に朝貢した帥升(正しくは師升)らのクーデターで殺害された先代の素戔嗚尊の弟と推理しました。

ニギハヤヒは吉備を平定して旧奴国(狗奴国)を再興した始祖王として楯築王墓に葬られていることを発見しました。実は楯築神社の御神体の亀石はニギハヤヒの顔でした。亀石は人面蛇体となっており、これは中国の神話の天皇「伏義」と同一だということから分かります。つまりヤマトの大王が天皇と呼称される理由が発見されたわけです(詳細は「【刮目天の古代史】天皇の称号の起源?」参照)

「魏略」にある「倭人は太伯の後」という記述を裏付けるものです。つまり太伯は周の先王の長男で、周は殷(商)によって滅ぼされた中国最初の夏王朝の流れの姫氏です。夏王朝の始祖王「禹」は伝説の天皇「伏義」の末裔です。脳科学者中田力さんによれば原始夏人のY染色体ハプロタイプO1aだそうです(「日本古代史を科学する」PHP新書)。もしもこの伝承が正しければ天皇陛下も同じハプロタイプということになります。しかし、四千年という気の遠くなるような長い年月の間に不遇の時代も何度かあったはずですので、例えば別の有力者の家系から養子に迎えるなどで別のハプロタイプ(例えば倭人系O-47zあるいは縄文人系D-M55など)に変わった可能性があります。しかし、重要なことは日本国民の統合の象徴となる天皇の伝統・文化を継承していることなのです。(2024.11.23 赤字改訂)

紀元前473年春秋の呉が滅んで、江南から逃亡した呉王族である初代奴国王の天御中主が半島南部を経由して福岡の早良平野にたどり着きましたが、もしも別のハプロタイプに変わっていても今の天皇陛下は第17代王伊弉諾尊の王子ニギハヤヒ(第19代天照大神尊)の末裔であると考えられます。大物主大神(大国主高野御子)は同じく伊弉諾尊の子スサノヲの直系の子孫で「魏志倭人伝」に登場する狗古智卑狗(久々遅彦)のことですよ。(2024.11.23 赤字改訂)

アマテラス女神は「日本書紀」が創作した偽の皇祖神であって、持統天皇が天武天皇の優秀な皇子たちを排除して皇位を奪って孫の文武天皇を即位させたことの正統性を主張するために、天照大神尊ニギハヤヒを女神にすり替えたのです。「日本書紀」編纂時の権力者藤原不比等は物部氏による日本建国の真相を隠ぺいするためにニギハヤヒを祖とする物部氏が吉備から河内・大和に遷ってきたことも隠しました。

「日本書紀」に沿った内容の神社伝承などは藤原氏におもねったもので、同一神の名前をいくつも変えて粉飾していますので、ほとんど信ぴょう性はないと思います。しかし平安時代くらいまで多くの人は真相を知っていた模様です。最初の謡曲「三輪」がいつ頃成立したか不明ですが、もしも基になるものが平安時代にあったのであれば、藤原氏におもねったふりして真相を暴露しようとする内容とも取れますよ(^_-)-☆

最近の研究で万葉集の真の目的も「日本書紀」のウソを暴露するためであったことを、研究家の渡辺康則さんが精密に論証しています(「
万葉集があばく 捏造された天皇・天智〈上〉・〈下〉」・「聖徳太子は天皇だった」大空出版)。古代史人気作家の関裕二さんが最初に「日本書紀」のトリックを暴いていますので、彼の多数の著書からヒントを沢山いただきました(たとえば「万葉集に隠された古代史の真実」 PHP文庫、「古代史の正体」新潮新書など)。

ですからむしろ記紀に矛盾する内容の伝承などに真実が隠されている可能性があります。詳しくは刮目天の古代史をご参照ください。

【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




隠された倭王と創作された継体天皇?


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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「邪馬台国はどこか?」へコメント(その1)

2024-11-24 00:42:16 | 古代史

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#2019-07-29 01:23:03に記事にしましたが、少し見直して改訂しました。よろしければお付き合いください。

 続倭人伝 邪馬台国はどこか?
この記事の目次

魏志倭人伝の里数と日程
近畿説「大宮殿が発見された纒向遺跡」
九州説で主張される主な7つの根拠
女王がいた「伊都国」最大の銅鏡が出土
九州王朝説「倭の五王は九州にあり」
熊本は狗奴国か?それとも、、、
出雲説「オオクニヌシの国こそが邪馬台国」
吉備王国こそが邪馬台国
邪馬台国発見のカギは?
邪馬台国関連記事
読者からのコメント

刮目天 一(はじめ) | 2019年2月6日 at 7:12 PM REPLY ↓
多くの有用な情報をありがとうございます。
邪馬台国の位置問題を「魏志倭人伝」だけで解決するのは無理だという証明が皆さんによってなされたと思います。何故なら、「魏志倭人伝」はこてこての政治文書ですから、邪馬台国への行程記事は置きたい場所に置くためのつじつま合わせです。倭国の政治の実権を握っていた伊都国男王の策略だったのですが、魏の実力者司馬懿や部下の帯方郡太守らの事情や陳寿の作成目的を考えずに、いくら自説に都合の良い解釈しても真実から離れるばかりでしょう(^_-)-☆
実は、女王国に対する政治的思惑のない范曄が「後漢書 東夷列伝倭人の条」に残した「自女王国東度海千餘里至狗奴國」(女王国から東に海を渡ると千里余り=約450kmで狗奴国に至る)という記述を信じると、後は考古学などによって狗奴国を特定すれば、全ての謎が氷解しますよ(*^▽^*)
「正史」は「かくあるべし」の理念で書かれた編纂当時の権力者にとって都合の良い歴史でしかなく、不都合な事実は隠ぺいされて真相は抹殺されているという真理に気付けば、何が事実でどこがウソかを科学的に推理して全て解決ですよ(*^▽^*)
詳しくは刮目天の古代史にどうぞ!

匿名 | 2019年3月6日 at 9:56 AM REPLY ↓
次第に謀略史観じみた説が開陳されてカオスな感じに…

漢書で「百余国」とあり、それを受けて三国志東夷伝で「旧百余国。今使訳通ずる処三十国」とあるわけで
混乱期の短命王朝であった魏が、同じく「大いに乱れ」た倭の全ての国と通商関係を結べていなかったというのが自然な読み方だと思われます。
では残り70国はどこにあるのか、が問題になるかと思うのですが、これは「使訳通ずる処」の更に向こうであるのがわかります。
つまり魏から見た場合一大国から近場の辺り、女王国に服属しているらしい範囲が外交圏で、そこから外についてはせいぜい、当時の女王国の主敵である「狗奴国」が出てくるくらいで全く不明。
これは変な気もしますが、陳寿さんの立場とすれば前王朝の残した数十年前の外交資料をひっくり返して、そこに書いてあることを要約しているわけですから、仕方がないのかもしれません。
なお、例えば女王国の首府が畿内にあり、一大国=壱岐から畿内までを丸々版図としていたとすれば、前漢の時代に確認されていた70余ヵ国はその更に外側、関東や北陸、九州南部ということになります。
女王国は九州にあり、版図自体も九州の一部から大部分だったとした方が、単純な数量的には妥当な気がしますが、断定はできないですね。


刮目天 | 2019年7月28日 at 11:00 PM REPLY ↓ Your comment is awaiting moderation.
>次第に謀略史観じみた説が開陳されてカオスな感じに…

カオスになっているのは本当ですが、その理由は簡単ですよ(^_-)-☆
魏の実力者司馬懿は自分の功績を曹魏第一等のものにして実権を握るために、卑弥呼を東夷の大国の倭国女王ということにして、女王の都とする邪馬台国が呉を圧迫する会稽郡東冶県の東の海上に在ったことにしたかったのです。倭大夫難升米、実は本当の倭国王と司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏が談合して、邪馬台国へのデタラメな行程記事が作られ、その後倭に送った魏使梯儁の報告書に記録させたのです。その報告書をそのまま陳寿が魏志倭人伝に撰述したからです。多くの研究者が、それに気づかずに、自説の都合の良いように行程記事を解釈し、ほとんど自説に不都合な記述は説明抜きで無視したからなのです(;一_一)(2024.11.23 赤字修正)




匿名の方に反論するのもどうかと考えましたが、陰謀史観という一言で取るに足らない荒唐無稽な説のように誹謗したので一応反論しておきますね( ^)o(^ )

ご自分で陰謀史観と言っておきながら「陳寿さんの立場とすれば」と書き、それでいて陳寿の立場がどういうものか、編纂の真の目的も理解していないようなので簡単に説明しておきます(^◇^)

陳寿は当時の西晋の実力者である張華に引き立ててもらった人物で、張華の顔を立てるために「三国志」を編纂したのですが、一番書きたかったのが西晋の宣帝(魏の司馬懿)の功績を持ち上げるための「魏志倭人伝」だったのです。倭国は239年(景初三年が正しい)に大夫難升米らを使者として帯方郡に送りましたが、魏からの返礼が親魏倭王の金印紫綬などであり、当時皇帝の補佐役だった司馬懿が書かせた詔勅の全文が「魏志倭人伝」に書かれているから熱の入れ方が分かります。「三国志」を正史にしたのは張華の力だったと、このあたりの事情は東洋史家の岡田英弘さんの「日本史の誕生」(弓立舎)に詳しいですので、是非お読みください。(2024.11.24 赤字修正)

陳寿は倭国のことを二人の魏使の報告書に基づき書いているのですが、倭人の風俗は海南島あたりの越人のものと変わらないとしているのは、邪馬台国のあるべき位置を強調するためだと推理できます。さらに、実際の邪馬台国の位置と違う位置に置いた発案者は、魏を後ろ盾にして敵対勢力を抑えたい伊都国の男王だと推理しました。互いに敵対するどういう勢力が女王を共立して和解したのかも説得力のある説はいまだに出ていませんが、卑弥呼は権力を持った女王ではなく、巫女(シャーマン)であって、太陽神のお告げによって実権を持つ男王(=男弟)が政治を行う形態で、シナの目を引くために卑弥呼を女王だと記載したものと推理しています。その他、通説には誤解が幾つかありますが、「日本は古の倭の奴国」という「新唐書」・「宋史」の記述を仮説として、科学的に推論を重ねて日本建国の真相を明らかにしました。もちろん邪馬台国の真の場所も卑弥呼の墓も発見しました。詳しくは拙ブログでどうぞ。

繰り返しますが、科学文献ではない古代の正史に隠された真の編纂目的を考えずに、いくら文章を解釈しても正解にはたどり着けないですよ。これは「日本書紀」なども同様ですが、普通の権力者はその権力の正統性を主張し、将来に渡って子孫が権力を維持するために正史を編纂する訳ですから、不都合な真実は隠ぺいし、歴史を改ざんし、真実に基づいた内容も歪曲されるものと考えない方がどうかしてますね(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

編纂の真の目的を推理し、考古学や民俗学や正史に矛盾する伝承などを頼りに記述の真偽を判定する検証と推論によって、ようやく真相が解明されるのですよ(^_-)-☆

(その2)につづく(翌日に改訂したものを公開予定)

【関連記事】以下の記事にもう少し詳しく説明してありますので、よろしければどうぞ(#^.^#)

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ

卑弥呼は縄文海人の祝女(はふりめ)か?


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国宝金印は古代史を解く重要な物証なのだよ!( ^)o(^ )

2024-11-23 09:44:19 | 古代史

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#江戸時代に志賀島で発見された有名な国宝金印「漢委奴国王」印が偽物だという主張が中々消えません。今回も、そのような趣旨の動画を発見したので、本物の可能性が極めて高いことがひとことで分かる意見をコメントしました。多くの皆さんが不自然に思う、何故、志賀島に埋められていたのか?ですが、現存する最古の歴史書「古事記」が真相を暴露していました。これが分かると、この疑問が消えるはずです。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

【禁断の古代史】金印は「日本人の嘘」だった!歴史捏造の裏に隠された恐るべき計画古代日本の闇に迫る!【都市伝説 ミステリー】
都市伝説ふしぎ発見
@YouTube

@katumoku10
江戸時代に金印が発見された当時、印面のサイズは分かっていたようですが、金の純度が95%というのは分かっていなかったようです。20世紀になって他の漢代の金印が発見されて分かったのです。また蛇鈕は元はラクダだったのを変更したとの指摘があります。ですから、金印が偽造だというのであれば金印を偽造させるための発見当時の詳細な指示書が出てくれば贋作の可能性は捨てられませんが、それがない現状では本物だと認定せざる得ないと思いますが、いかがでしょうか?

 

@セカイK1
金印は糸島市の細石神社の宝物であったとの話もあるから志賀島出土は捏造の可能性はあるが
金印の金の成分が95%で漢代の他の出土した金印と一致してるから本物である事は確実
江戸時代には漢代の金印の成分を知る術は無かったですから
日本では文字が普及していなかったのだから1世紀や3世紀の出来が8世紀に創られた記紀に書かれていないのは当然

@katumoku10
本物である可能性が極めて高いと思います。弥生時代に倭人が漢字を使っていた証拠が最近いくつも出てきています。漢字が普及していなかったのはおっしゃるとおりですが、伊都国に来ていた華僑らと接触していた大夫らは漢字を使用していた模様です。125年に作られた室見川銘板は国内で作られた最初の金文です。金印やこの銘板が何故作られたのかも推理しています。詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」「【わかった!】室見川銘板のなぞ」をご参照ください(;^ω^)

 

范曄「後漢書」倭伝に107年倭国王帥升が160人の生口(奴隷)を後漢安帝に献上したとあります。帥升は原本ではイト国王師升とあった模様で、師姓は周代より前から宮廷祭祀を行う楽師の官位を表すと「風俗通義」に見られます。つまり、57年に後漢光武帝から金印を賜った奴国の宮廷楽師だったと推理できます。

宋史 王年代紀 第十八代王素戔嗚尊が奴国宮廷楽師師升らの反乱で、捕らえられて金印の在りかを白状させるために拷問された様子が古事記にありました(^_-)-☆

「於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐(その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)

金印は、すでにスサノヲの部下のアズミ族が持ち出して、逃げる途中、志賀島に立ち寄って土の中に隠したものが、江戸時代の百姓によって偶然、発見されたものと考えられます。師升らは金印が手に入らなかったので、倭国王と認められるために160名ものスサノヲの部下らを奴隷として献上したと推理できます。(^_-)-☆

師升王が伊都国に都を移し、125年に祭祀を整えたので記念に作らせた真鍮製文鎮「室見川銘板」が1948年に室見川河口近くで偶然発見されています。祭祀にこだわっている内容「高暘(神仙の住む扶桑国)が左(たす)くる王が永宮を作り、鬲(れき)を齊(ととの)ふ」(訳は、出野正『「室見川銘板」の意味するもの』より)から奴国宮廷楽師の師升が作らせたと推理できます。

その室見川銘板に「佐」が「左」、「作」が「乍」とあり、国宝金印の「倭」が「委」と同様に「ニンベン」を省略する減筆が当時の流儀であることが分かりますので、これらのことから国宝金印は本物であると考えられます。

また、師升ら奴国宮廷楽師の反乱の史実は、「日本書紀」仲哀天皇四年に博多付近を儺県(なのあがた)とあることから分かります。「儺」は「追儺」つまり、「神夜良比(神やらい)」「鬼やらい」の意味の文字です。

さらに、景初三年(239年)六月に魏への朝貢のために帯方郡に渡った倭国の大夫難升米という人物の「難」は「儺」であり、儺升は「神やらいの升」という意味になります。

つまり、難升米はスサノヲを殺した師升の子孫(年代的に孫か曾孫)の魏志倭人伝の伊都国男王と分かります。難升米に魏の正規軍の軍旗「黄憧」が直接与えられていますので、倭国の軍権を持つ、本当の倭国王だったと分かります。卑弥呼の政治を補佐する「男弟」とされた人物が伊都国男王難升米だったのです。

ですから、卑弥呼は政治的な理由で倭国の女王とされたと分かります。イト国を伊都国と書いたのは、「伊」は聖職者を意味し、さらに殷(商)王朝初期の有名な政治家伊尹(いいん)を連想する国名です。伊尹は「史記」や「孟子」にある放蕩者の王を追放したことで評価が議論される人物なのですから、奴国王を殺して倭国を奪った師升の事績と一致します。イト国を伊都国と書ける人物は師升王の子孫の難升米しか考えられません。邪馬台国問題もこの推論によって解決に導かれました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

国宝金印と室見川銘板はこの史実を証明する重要な物証なのです。

さらに日本書紀の編者らも古事記の作者多人長(おおのひとなが)も王年代紀を宋に献上した東大寺の僧奝然(ちょうねん)も「スサノヲと師升の史実」を知っていた証拠でもあります!

つまり、当時の人々は日本の歴史を狂わせたこの史実を分かっていたのでスサノヲを疫病神の元締めと見て、熊野信仰祇園祭などを行っていたのでしょう!(^_-)-☆

【関連記事】

熊野信仰の秘密?【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その24)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆

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卑弥呼は縄文海人の祝女(はふりめ)か?!(#^.^#)

2024-11-22 00:00:02 | 古代史

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#前回の記事「宇佐神宮の奥座敷に卑弥呼様が(^_-)-☆」にコメントいただいたYOさんへのお返事が長くなったので、記事にしました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

卑弥呼が居る場所が邪馬台国なのか? (YO)
ワイも、卑弥呼は九州にいると考えております。が、なかなか場所の選定がうまくいかないんですよね。
宇佐。これはなかなか強力な場所ですね。
皇室の宗廟として「宇佐神託事件」で神託を行ったってのは、アドバンテージがあると思います。
徇葬者奴婢百餘人」の部分をハルキーさんは「弥生式集団墓」だとしてましたね。宇佐周辺にあったと言ってましたね。
ワイは、魏志だと北九州に王都がありそうなので、北九州も捨てがたいです。

で、本題なのですが、
魏志韓伝に謎の「辰王」というのがいるのですが、「辰王治月支國」と書いてあるということは、この王は「馬韓」の「月支国」にいるんですよね。辰王なのに辰韓に居ないんです。
また「辰王不得自立為王」とあって「自立」してないので、たぶん「共立」です。
何が言いたいかと言えば、「倭」「卑弥呼」も同じなのでは?ということ。
「卑弥呼」が「治_邪馬台国」とは書いてない。卑弥呼がいるのは「女王国」であり「邪馬台国」ではない。
辰韓の辰王が「馬韓」にいるのならば、倭の女王がどこに居ようとかまわないのでは?と考える次第です。
刮目天さまが、畿内が狗邪韓国だと考えてるのは知っておりますが、ワイは「卑弥呼」は九州にいるけれど、「邪馬台国」は畿内または関東で構わないと思っております。当然「九州」の宇佐でも構わない。
辰王が馬韓にいるというのは、実は「統治王」ではなく「祭祀王」かもしれません。すると「倭王卑弥呼」も「祭祀王」かもしれないですね。
ならば余計「畿内」にいる意味はないでしょうね。
ただその場合、畿内にいる大勢力は「狗奴国」なのか「邪馬台国」なのかは意見がわかれるところです。

と、だいぶ脱線してしまいましたが、卑弥呼の居場所と邪馬台国はリンクしないのでは? と思う次第です。
YOさん、こんばんは!
いつもいい、コメント有難うございます。
>刮目天さまが、畿内が狗邪韓国だと考えてるのは知っておりますが、
W!するどいですね(^_-)-☆
本人もあまり意識していなかったのですが、言われてみたらそういうことにもなるな!(*´Д`)
狗邪韓国は伽耶(加羅)地方の任那ですから、その国名の意味はナーガ(那=龍蛇神)を任せた国、つまり天御中主が早良平野に降り立った元は狗邪韓国に居た!その末裔の奴(ナーガ=龍蛇神)国が帥升の反乱と卑弥呼の共立で吉備から纏向遺跡に遷都した旧奴国=狗奴国ということなのですから。

つづきはまだまだあって、長くなりましたのでこれから記事にします。また、お越しいただきコメントいただければ幸いです。

『三国志』「韓伝」に二か所「辰王」が出てきますネ。馬韓に出てくる辰王は馬韓の中のひとつ月支国を統治しているとありますが、馬韓全体を支配しているとは書かれていません。

これは漢書などにあった辰国の王ではなく、三品彰英先生の『史記』「真番旁衆国」を「真番辰国」と誤写したものが漢書などに伝わったという説がつじつまが合うと考えています。

そして次に辰韓・弁辰の後に辰韓十二国が辰王に服属すると出てきます。馬韓の人が代々辰王となるので、馬韓から独立していないとありますね。

何で辰王が辰韓の中に居ないで馬韓の月支国に居るのか?YOさんは辰王は統治王ではなく馬韓の人々によって共立された祭祀王ということでしょうか?祭祀王というのなら統治するわけでもないので遠隔地にいても問題ない?つまり、辰韓の祭祀の時だけ出張するのでしょうか?いや、辰韓の人々が神託を受けに月支国に来るのでしょうか?

卑弥呼は人前に出ないので、卑弥呼が祭祀王なら後者ですね(^_-)-☆

しかし、馬韓には戦国の韓の遺民やその後、衛満に追い出された箕子朝鮮の最後の王箕準が馬韓をほぼ支配していたようですが、何代か後に前漢の武帝に滅ぼされて真番郡とされた領域になったと考えています。

後に、馬韓で倭人が力を付け、辰韓もまだ統一されては居ませんが、魏志倭人伝にあるように韓人・濊人・倭人が製鉄を行い、倭人の王が鉄の取引を支配していたと考えています(詳細は「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」・「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。

その倭人の王が辰王で、呉の王族の天御中主の祖先ということではないでしょうか?ですから共立というのは民主的に王を決めたイメージのようですが、誰もが認める家柄の人物という意味だと思います。つまり辰王とは倭人の王ですから、倭人を古くから支配した呉王太伯の後裔だと考えています。実際は統治していたのではなく祭祀王だったという説ですね。まさに天皇のイメージですね!有難うございます、これは大発見です!。

YOさんは卑弥呼が倭国を統治する女王ではなく共立された祭祀王と考えておられるとのことですが、それに近いと思います。

しかし、卑弥呼は玄界灘を支配する縄文海人ムナカタ族の姫巫女と推理していますので、天皇のイメージとは異なりますよ。

日本列島で縄文時代中期ごろから活躍したのは縄文海人族だったようです。奄美・沖縄などからゴボウラ貝の腕輪と隠岐の島などの黒曜石の交易などを行っています(注2)。隠岐の黒曜石が西遼河や沿海州で出土していますので、それらの人々とも列島内に留まらず、かなり広域で交易していたようです。弥生後期の縄文海人族の集落と考えている唐古鍵遺跡で、鳥の羽を着けた祝(はふり)と祝女(はふりめ)の線刻画の土器片が出土しており、卑弥呼も同様の祝女だと考えています(詳細は「弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?」参照・弥生文化は、現在は半島で生まれたのかも知れないと考えています)。



なぜ卑弥呼が魏志倭人伝に登場するのかは、倭国大乱の長い話がありますが、かいつまんで申し上げると、二世紀末から始まった倭国大乱で、三世紀の初頭に、狗奴国の官狗古智卑狗(ムナカタ族を束ねるスサノヲの子孫の出雲・丹後国王、豊岡市久久比神社祭神久久遅彦)が菊池川流域の環濠集落で急襲を受けて戦死し、ナンバー・ツーだった卑弥呼の父赤坂比古が倭国王難升米(なしょめ)に懐柔されて狗奴国を裏切ったと推理しています。

赤坂比古が祝(はふり)だったのです。密室で卑弥呼から太陽神のお告げを聞いて、部下や民に、赤坂比古が解釈した神託を声に出して伝えるシャーマン王です。これが祭祀王ということで、卑弥呼は姫巫女あるいは日巫女でしょう。天理市和邇坐赤阪比古神社に宗像女神市杵島姫命が祀られていますので、市杵島姫命卑弥呼を祀るムナカタ海人族で、和邇氏の祖だと判明しました(注1)。

実は、倭国の行程記事などの情報は、景初三年(239年)六月に魏への朝貢のために帯方郡に渡った難升米が書いて教えたと分かりました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。そこで太守劉夏と談合して、魏の実力者の司馬懿の功績を曹魏第一等のものにするために都合の好いようにでっち上げたのです。卑弥呼を倭国を統治する女王ということも、卑弥呼の都とする邪馬台国も、政治的に創られた話だと推理しています。したがって、どことでも比定できる行程記事からは万人が納得する邪馬台国の場所にはたどり着けないのです。

しかし姫巫女の卑弥呼は上述のとおり実在人物と考えていますので、卑弥呼の居た場所は考古学と民俗学の成果から探そうと考えました。倭国大乱の痕跡を、鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて発見し、上で述べた卑弥呼登場の経緯を推理をしました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。そして市杵島姫命卑弥呼は不弥国(ウミコク、宗像市田熊遺跡群が中心集落)で生まれたのですが、戦乱期は海に近いので物騒です。そこで、三女神降臨伝承のひとつである要害堅固な安心院町宮ノ原遺跡に疎開したと推理しました。宇佐市史によれば和名抄で宇佐郡野麻(ヤマ)郷に比定されています。「安心院」の地名の由来も女王(院)が疎開して安心したことに因むものです。

ですから、邪馬台国というのは「ヤマ国に住む女王(台)の居城があるところ」という意味になります。

また、魏志倭人伝には邪馬台国を見つけるための記事がいくつかありますので、以下のような6個の条件に合致する場所を探せばいいのです。金印や鏡や絹織物など、見つけた人が容易に運べるものは決定的な証拠にはなりませんよ。そして、前回の記事のとおり、これらすべての条件を満たす場所を発見したのです(詳細は「【邪馬台国問題】解決の糸口でした(^_-)-☆」参照)。

①卑弥呼の径百余歩の冢(直径約150mの円形墳墓、しかも前後の状況から急造の土を盛り上げただけの墓)です。
②さらに、その周辺に城柵で囲われて兵士で厳重に護られた王宮があること(弥生後期の集落)。
③また、その場所に、卑弥呼に纏わる伝承や地名などがあること。
④そして倭地温暖で冬でも生野菜を食べ、はだしで生活できる場所。
⑤卑弥呼は人前に出ないことから巨大集落から少し離れた場所が居城。
⑥女王国の東側が海で、渡海千余里でまた倭種の国がある。范曄後漢書では倭種の国を狗奴国としている。九州説なら周防灘に面した豊前地方が該当する。

ちなみに、邪馬台国がどこか分かったので、行程記事のトリックも推理できました(詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照)

YOさんは「邪馬台国」は畿内または関東で構わないとのご意見ですが、三世紀前半の卑弥呼が生きていた時代に纏向遺跡から九州の土器は全くと言っていいほど、出土していないのです。前方後円墳での重要な祭祀に北部九州の倭国の人々がほとんど参加していないのです。その他の地域の人々が参加しているのですから、纏向遺跡の勢力と卑弥呼の倭国は敵対関係だったと推理できます。ですから纏向遺跡は狗奴国(旧奴国)の人々の集落と推理しています。



ということで、ここが今のところ最も有力な候補と考えていますが、邪馬台国の条件に合致する他の場所があれば、いろいろと比較検討して、どちらが有力かを決めることができるはずですね(;^ω^)。

 

(注1)赤坂比古は正始四年(243年)正使として魏に朝貢した伊殸耆(いせぎ)と難升米は書いています。「伊」は聖職者を、「殸」は声を意味しますので、「イセ(伊勢)」は縄文系の祝(シャーマン王)という意味なのです。赤坂比古は縄文系海人族の間で「いせ」と呼ばれていたと分かります。そして「耆(ギ)」は老人の意味です。率善中郎将の印綬は副使掖邪狗等八人に与えられたとありますが、正使伊殸耆には与えられていないことから、途中で亡くなったと推理できます。墓は宮ノ原遺跡の奥城古墳(直径約120mの円墳、現在ブドウ園の展望台)に葬られたと考えています。

また、掖邪狗は「ややこ」つまり、稚児という意味だとすると、卑弥呼の弟赤坂比古(王の襲名、日本書紀の日触使主)のことをバカにして難升米が書いた名前だと分かります。「いせ」も「ややこ」も当時の人々の言葉「倭人語」だったようです(詳細は「倭人語解明のヒントだ!(^_-)-☆」参照)(^_-)-☆

(注2)琉球神道が十二世紀ころの古琉球や琉球王国で信仰されていますが、史料は知りませんが、古来から卑弥呼の鬼道が縄文海人によって伝えられていたと考えられます。YーDNA解析でも縄文人系(D-M55)が約60%とかなり頻度が高いのです。ですから逆によく知られた琉球神道から卑弥呼の鬼道を推測できます。琉球神道における太陽神は「ティダ」と呼ばれ、多神信仰の最高神として崇められており、アニミズムと祖霊信仰が基本だと言われていますので、神社神道との共通点も指摘されています。

しかし神社神道は八世紀に藤原不比等が日本書紀で創作した神話に合うように各地の神社の祭神を変更していることが分かっていますから、元の祭神は地元の方たちによって摂社や末社で祀られているようです。神社神道の前に行われていた磐座信仰や山岳信仰は琉球神道の「御嶽(うたき)」と共通です。

現在の神社で神に仕える巫女に対して、琉球神道では「沖縄本島には御嶽などにおいて部落や村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をおこなう祝女(ノロ)と呼ばれる女神官が存在する。」とあり、「ユタ」と呼ばれる、「もっぱら死霊の憑依を受けてトランスに入り、第一人称でその託宣を述べるものを一般に口寄せ巫女と称するが、南西諸島において口寄せ巫女としての巫儀を展開している呪術宗教職能者」がいます(wiki「琉球神道」)。

卑弥呼の場合人前に出ないので、ユタ(口寄せ巫女)に近い、太陽神が憑依して神託を告げる役割の日巫女(ひのみこ)と考えられますね(詳細は「誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)」参照)-☆

に通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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宇佐神宮の奥座敷に卑弥呼様が(^_-)-☆

2024-11-21 00:00:03 | 古代史

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宇佐神宮&大分県立歴史博物館&別府・大分・海部の博物館をめぐる旅(倭国33箇所めぐり)
燃え盛るように熱い日本古代史【ハルキー】@YouTube

@YO-high
今回は宇佐ですかぁ。あ、大分も。羨ましいです。
しかし、これは中々はしゃいでますなぁ。動画の隅々にまで嬉しさがにじみ出てますね。
宇佐神宮が「皇室の宗廟」であるならば、見逃せない地域なのは間違いありません。
今週の古庄さんのライブで、話してくれそうですかね>

@takedaharuki
ありがとうございます。旅行をめちゃめちゃ楽しんでいます。見知らぬ世界に我が身一つで出かけ、いろいろなものを見て、いろいろなことを学んで帰ってくる。旅している時にこそ生きている実感があります。(^^) 宇佐神宮の比売大神。気になる神様です。

@katumoku10
今週のライブですか!楽しみです。でも、折角ご忠告いただいたのに、年甲斐もなく、つい我を忘れますので、現在コメ禁されています。残念!
でも、宇佐説が本命ですよ(^_-)-☆

 @katumoku10  ありがとうございます。今週末はライブ出てきます。宇佐説は私の説とも近いので気になる説です。

@katumoku10
 @takedaharuki  さん 
そうです、そです、そうなんですよ!この神様が卑弥呼様ですよ(#^.^#)
宇佐神宮の奥座敷の安心院町下毛「宮ノ原(みやのはる)遺跡」に径百余歩の冢「三柱山古墳」がありますから。葦原中つ国の宇佐嶋が宗像三女神の降臨地です。

女王の宮室「三女神社」は地元では「さんみょうじんじゃ」と呼んでいますが、「三は妙だ!女は少ない」という謎かけでした。一の鳥居の神額が「二女神社」ですから本殿には「女王様おひとり」というのが答えでした(^_-)-☆

墓の遥拝所が河原にあって、見所満載ですよ(詳細は「卑弥呼の墓は見つかってるよ」「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)

 

また、安心院町佐田地区は卑弥呼様の死後の内戦に勝利した大国主(武内宿禰)が13歳の女王台与(神功皇后)を連れて弔問したあとに、祖霊に感謝の祈祷をするために日本一立派なストーンサークル佐田京石を造って、最初の国造りをした豊葦原の瑞穂の国ですよ。日本一の霊山「米神山(475m)」にも不思議な巨石群がいくつもあり、山頂にもストーンサークルがあります。今年の五月に山頂で、大国主に会ってきました(詳細は「米神山で大国主に会ってきた!」参照)( ^)o(^ )。

次回の旅行は、安心院家族旅行村に泊まられて是非見学してください!急登でちょっと厳しいですが米神山山頂の景色は最高ですよ。ワインと温泉もありますから。倭人伝にあるとおり、倭地温暖で冬でも生野菜を食べ、はだしで生活できますから( ^)o(^ )
詳しくは卑弥呼百科事典【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!をご参照ください(^_-)-☆

@takedaharuki
 @katumoku10  同じように、いや、それ以上に注目されている方がいて嬉しいです。佐田京石は一度その目で見てみたいです。あの風景はなかなか他にはないです。
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佐田地区探訪マップ(大国主ゆかりの神社・史跡が見られます)

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