鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

地震災害の教訓1

2013年09月01日 00時00分01秒 | 紹介

 書棚を整理していると母の弟の自分記録が冊子として出てきた。既に叔父は他界して久しいが、退職する前の1年間は東北大学の事務局長をしていた。国学院大学を卒業し、昭和二十二年に文部省に入所して、一貫して文部行政に携わった文部官僚であった。今回は昭和53年に東北を襲った地震災害について、具体的に記述した記録があり、一昨年の3月におそった東北・北関東の震災との比較・対策の一助にするのにふさわしい資料と思い、ここに8回シリーズで掲載することにした。

1.災害は何時どこで起こるか分からない

昭和53年6月12日午後5時15分、宮城県地方は震度5(マグニチュード7.2、その5日後に7.4に訂正)の強震に見舞われた。本棚は倒れる、花瓶は落ちるなどで立って歩けない状況であった。理学部の化学棟4階及び7階から出火し、5研究室(延べ184平米)を焼いて2時間後に鎮火した。大きく報道されたのはこの火災であったが、その他の被害は調査が進むにつれ、大きくなり、まだ完全な集計は終わらないが、教育研究用重要機器を始め、建物など推定10億円は下らない損害額であろう。去る2月の二十日の地震の復旧も終わらないうちに、この損害は教育研究に大きな支障を招いている。天災とはいえ、かくも多額の国有財産を滅失したことは誠に申し訳ないと思う。各方面から早速お見舞いの電報電話などをいただき、ご厚志誠にありがたく、とりあえずお礼を申し上げる。前任地の千葉大学では大学構内が市から広域避難地域に指定され、大学として非常災害の際の対応策が定められていなかったので、とりあえず、「防災業務要領」を作成し、一応の準備だけは整えていた。東北大学に来て日も浅く、全学的な把握も不十分なときに、防災要領まではとても手に回る状況ではなかったが、突然地震に見舞われるとは皮肉なものである。

 地震発生は丁度、退庁時間と重なっていたが、未だ多数の職員が居残っていた。しかし、電話が不通のため、家族の安否も分からないので、後始末もそこそこに帰宅した職員が多かった。事務局人事課に大きな旧式ラジオがあり、NHKで災害状況を逐一報道していたので、とりあえず対策本部を人事課に置き、学長の下各部課長が集まり、必要な情報の収集に努め、文部省にも連絡のつく限り災害状況を逐一報告した。(次回へ続きます)