対岸のブッシュの中にいたゴイサギです、餌捕り場をコサギと争っていました。ゴイサギの方がこの場所を気に入っていて数日おきに来るようです。
「友人中道敏彦氏の投稿です。」
平成27年6月4日、正午前に山形駅に到着し、レンタカーに乗り込んだ。山形はやや肌寒い。今回も男3人連れ、2泊3日の旅である。
芭蕉と曽良は中山越出羽道で、仙台藩尿前の関を越え、出羽の国に入り、山刀伐(なたぎり)峠から尾花沢に入り、立石寺を訪問しているわけだが、われわれはこの箇所は逆コースをたどり、酒田を目指すことになる。
(1)立石寺・尾花沢
宝珠山立石寺まではすぐである。1時頃到着した。時折、霧雨が降りてきて風があり寒い。気温は14度。山寺という通り名で知られるこの地は、是非訪問したらよいと土地の人に勧められ、芭蕉も尾花沢から山寺、大石田と往復している。創建は貞観2年(860年)、開山は延暦寺第3代座主、慈覚大師円仁とされる天台宗の古刹である。駐車場から見上げると遥か上方の岩山の上に、寄りかかるように堂塔が建っているのが見える。そこに至る階段は1015段あるそうだ。
芭蕉は山寺で、有名な次の句を作っている。
閑さや岩にしみ入蝉の声
ところで今日は風が強く、雨模様である。蝉の時期にも早い。そんなわけで、開山堂、五大堂、奥の院などのある山頂へ行くのはやめて、根本中堂などを見物した。本尊は薬師如来である。僕は10年ばかり前にこの地に来たことがある。8月のくらくらするほど日差しの強い日で、山頂まで行く階段は蝉しぐれに包まれていた。
山寺から北上して、1時間ほどで尾花沢に着いた。かつては交通の要衝だったというが、散閑とした街である。2時30分、表に芭蕉の像がある鈴木清風歴史資料館に入る。鈴木清風は尾花沢で金融業、紅花などの取引をする豪商で、芭蕉とは江戸で面識があった。芭蕉は清風のことを「彼は富める者なれども、志いやしからず」と述べている。資料館は江戸末期の商家をここに移築したものであり、中には芭蕉との交流を示す資料の他、江戸時代の生活を示す資料が展示されている。芭蕉作とされる竹の花立、4千余両の貸し出しの証文などが僕には興味深かった。
芭蕉が尾花沢に着いたのは、元禄2年(1689年)5月17日(新暦7月3日)のことである。不自由な堺田での3泊、そして危険な山刀伐峠を越え、ほっとした芭蕉は、清風とも再会し、くつろいで次の句を作っている。
涼しさを我宿にしてねまる也
這出でよかいやが下のひきの声
まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
「ねまる」は、「くつろぐ」の方言で、風の通る部屋でくつろいでいると、自分の庵にいるような気がする、というものである。芭蕉は尾花沢に10泊している。
薬師池公園は町田市のほぼ中央に位置し、鎌倉街道に面していて、野津田町にある谷戸である。1982年に新東京百景に、1998年に東京都指定名勝に、2007年日本の歴史公園100選に選定されている。
町田市立の公園であるが、比較的こじんまりした人工池(農業用のため池を利用したといわれている)を中心として、近隣に、牡丹園、エビネ苑、リス園等を持ち、この時期はアヤメやハナ菖蒲が咲き誇っていて、見事である。写真家や、カメラを持った多くの来園者がいる。駐車場も格安で、入園料金については、薬師池は無料である。フォトサロンを有し、時期毎にイベントが行われている。
感心するのは、薬師池の農作物販売所、フォトサロン等で働いている作業者は知的障害者である。リス園でも同様で、町田市がこのように知的障害者を雇用の場として利用していることは高く評価したい。池の周りには四季を通じて草花や、樹木があり、季節の変化を感じることが出来る。幼稚園の遠足や、介護施設等に入所している高齢者等が来園している。車いすでも利用できるため、気分転換や運動のために来ているのであろう。
薬師池はもう少し暑くなると大賀蓮の開花を見ることが出来る。5キロメートルぐらい離れた小山田神社付近に古くから蓮田があり、そこから株を移して育成している。時期には写真撮影でどちらも行くことがあり、株の多さからすると小山田神社の蓮に軍配が上がる。
町田駅や鶴川駅からバスで、自家用車の場合は、駐車場もあるが、土日は来園者で混雑するので、早めに出かけられることをお進めしたい。開園は午前7時からである。
今回は野鳥の鳴き声はするが姿を見ることが出来なかった。川蝉も留鳥としてよく見かける。多くの野鳥も生息しているので、望遠レンズを持参された方がよい。冬場には多くのカモ類が飛来する。残念ではあるが、山から流れ落ちる水が濁っているせいか、池は常に濁っている。湧き水ではないのは確かである。
町田市は交通の要衝で、小田急線と横浜線が交わっている。居住人口も多いが、都会の喧噪から離れて、自然を楽しむ場所として、人気があることは間違いない。
英語でdrone、ミツバチの雄蜂の意味である。蜂などが出すぶんぶんとうなる音や低くうなる音で使われている。無線操縦無人飛行機(船)の意味もあるので、そう新しい言葉ではないが、機体自体が話題になってきているのは、今まで規制が無く、カメラを搭載して上空から撮影するといった使用法が、模型飛行機やエンジン付き無線操縦飛行機とは異なる用途が可能になったことに他ならない。比較的安い価格で販売されていて、1万円前後であるが、多くの機能を持つ機種は価格が高くなっている。
期待されるドローンの用途としては、インフラや工場設備の点検、測量、農産物の育成調査、災害現場の捜索、荷物の運搬、映画などの空撮等である。単に遊びで使う以外の用途はこれまで同様の成果を得るために装置や、人力が必要であった作業等であり、ドローンがその役目を引き受け、費用をかけずに得られるというメリットが高いからである。
規制の動きは、重要施設など上空からの無断撮影が首相官邸等で行われたことがきっかけとなり、規制を設け、違反者に対して刑を科し、罰金をかけるという。現在では模型飛行機では操縦者の目視の範囲内とされているが、小形の無人飛行機ドローンは、原則、高度250メートル未満の空域を遠方まで飛行可能である。因みに有人の飛行機については、原則、300メートル以上の空域である。
観測、空爆等にも無人飛行機が使われていて、取り扱いに制限を設け無いと大変なことになる。遠隔操作が可能なのは、エンジン付き模型飛行機も同様であり、幾つかの周波数帯を使っていて、同地域で数台無線操縦がおこなわれると受送信に混乱を来し、予知できない行動や、操縦不可能となって墜落する。
無人飛行機に必要なのが周囲の状況に合わせて、機体に積んであるコンピュータが、機体を制御する自立飛行の技術である。ドローン等では飛行安定性・姿勢制御を得るためのジャイロスコープである。ジャイロスコープは不動であるため(常に水平の状況に置かれる)、船などの走行に欠かすことが出来ない。飛行体においても傾きを検出出来ればプロペラの回転数等を調整できる。ドローンでは無線機操縦者が機体から送られてくるデータを基に方向を決めるだけで安定走行が可能となる。
さらに、飛行機や船舶等の自動走行に重要なのは全地球測位システム(GPS)で、人工衛星との交信によって可能となる。階層構造体等の位置測定は難しいなどの弱点もあるが、センサーの機能を使えば使用範囲も拡がる。新たな機能付与と用途拡大で世界が変わることは事実の様である。
風力発電・波力発電・海洋温度差発電
オランダでの風車は子供の頃に習った風力を利用して、揚水や脱穀を行うエネルギーの変換器であった。オランダの地形が関係している。田園地帯で優雅に回る風車は絵になり、ドンキホーテの話を思い出す。産業革命以降の動力の主体は蒸気機関、内燃機関、電動機であり、風量の利用はごく一部に限られていた。その理由は、風の流れに間欠性があり、単位時間当たりの単位面積を通過するエネルギー量が小さいことである。
日本列島を1年間に通過する高さ10メートルの大気層までの運動エネルギーの総量は、水力発電による全発電量に匹敵するといわれているが、風力発電の効率(40~50%)からすると利用できる発電量は限られる。風車には、プロペラ、オランダ風車、曲がった羽の両端を垂直軸にして何枚か取り付けたダリウスタイプ等があるが、低速回転するものは回転力が大きいため、ポンプに、高速で回るプロペラは風力発電に使われる。最近は大型化の傾向にあり、耐久性や景観の問題も発生している。
波力発電は海の波のエネルギーによって発電機を回転させ、電力を得る。海面の上下運動を利用して、空気や海水の流れを作る方式、海水の前後運動や回転運動をカムや浮体の動揺運動に変える方式などがある。波から得られるエネルギー密度が小さいため、経済性が悪く、常濡遠藤する上に、変動の周期が一定でないため、総ての変動に対応することが難しい。波の満ち引きの原因は、地球の自転速度と月の公転速度の差に由来する。長年の観測態勢によって、潮汐力は把握できているが、大気の移動や気圧や温度による影響もあり、継続的な電力供給源とは成り得ていない。
海洋温度差発電は太陽熱によって海水の表面は温められ、深海は温度が低い。この温度差を利用して発電する方法である。海水面の温度は28℃ぐらいで、深海500メートル以下では7℃である。28℃での温度は、水蒸気圧力が弱いため、この熱を熱交換機に通し、低沸点の媒体であるアンモニアやフロンなどを使って蒸発させる。これをタービンの駆動源にするのである。排熱は深海から汲み上げた海水で冷却する。低沸点の媒体は冷却されると液体に変わるため、循環が可能となる。
電力を出力10万kwていどにすれば大きな構造体に成らざるを得ず、耐久性の問題や、設置に係わる多くの問題点もあり、実用化には道半ばといったところか。水素エネルギー、バイオマス発電については別稿に譲ることにする。
山形旅情
新幹線が延長したお陰で、時間的な距離感は薄れつつあり、所用での移動が便利になった事は好ましいことではあるが、蓄積された多くの風俗習慣が薄れ、どこへ旅をしても都会と変わらない生活環境は、生活感が淡泊となったのか、都会へ同化したのか一律的で、情緒を感じることが少なくなったようである。列車内で飛び交わされる言葉の端々に方言が聞こえるのがこれも現代風に変わっている。
毎年春になると東北は非日常的な雰囲気が醸し出され、長い冬場を過ごした木々や草花が一斉に開花する。関東では咲き終わったハナミズキや卯の花が咲き乱れ、標高が高い山には山桜が咲き誇っていた。既に多くの田畑は稲の作付けが終わり、一段落の時期であった。鳥海山や月山には残雪が残り、雪形を作っている。山から吹き下ろす風はさわやかではあるがどこか冷え冷えとしていた。湯殿山の本宮に参ったときには水芭蕉が開花していて、標高が高い地域はまだ冬の様相であった。
今回の旅ではレンタカーでの移動であったので、宿泊地は温泉を利用しなかった。しかし山形県も温泉天国である。総ての市町村に温泉があるといわれていて、多くの場所で温泉の看板を見た。結構レトロな雰囲気があり、情緒が感じられる。嘗ては奥州三高湯に数えられ、今でも人気のある白布温泉、蔵王温泉、上山(かみのやま)温泉、赤湯温泉等名湯がある。これらの温泉は日帰りの入浴施設を備えている。それだけ火山が多いということであろうか。
松尾芭蕉の足跡を訪ねる旅の山形版を短時間につまみ食いをしたのであるが、当時の旅情には時間をかけて旅をする俳人のご苦労が感じられる。殆ど無いに等しい荷物、地図もなく、頼る人もどこに住んでいるのか、健在なのか、情報は殆ど無いのによくぞ旅を続けることが出来たのか不思議でならない。宿泊地ではどのようにして活動したのか、同行した門下の曾良が総てを手配したとは思えない。行く先々で句会を開いて某かの生活費を確保したらしいが、定かではない。
山形はサクランボ畑が多くあり、梅、梨、白桃、ぶどう等の果樹栽培も行われている。サクランボはソメイヨシノではなく、佐藤錦が有名であり、多くはビニールハウスの中で栽培されている。果樹には日中と朝夕の気温差が大きいとよく育つといわれている。厳しい冬は半年近くに及ぶが、自然のめぐみの享受は、気候の厳しさに品質の良さが同居しているのであろう。何時までも変わらないのではなく時代と共に変わる旅情を感じたのである。
昨日は鶴岡で藤沢周平記念館の見学の後、酒田へ行く道すがら、加茂の水族館に立ち寄った。加茂水族館を一躍有名にしたのはクラゲの展示である。先だってテレビ放映も行われ、現在に至るまでのご苦労の一端が語られていた。パンフレットには、クラゲ水族館誕生の内幕として、掲載されていたので一部紹介しよう。
クラゲ水族館が何故最も小さく、一番貧乏でしかも老朽化した水族館で実現したのか?これは永遠の謎とされる。30年以上にわたる長い我慢と困難の中にあって、倒産を覚悟していた年に偶然出会った小さな生き物、これが生まれたばかりのクラゲの赤ちゃんであった。誰も知識が無く、何者か分からなかったが、飼育員が餌を与えたらクラゲになった。それを展示したら見たお客様が大喜びしてくれた。ここに始めて希望の光が見えた。以下略。
結局のところ、長年の努力が結果を生んだのである。バスで全国から見学に来る客が絶え間なく来館していた。クラゲの遊泳する姿は将に現代の忙しい人間社会には癒しを与えてくれる清涼剤の様なものである。過去のユッタリとした時間の流れを再現してくれているかの様であった。単なる展示だけでなく、お客が望んでいた世界に見事マッチしたともいえよう。
酒田の夜は人影がまばらで、どこでも見られる光景であるが、友人が下調べで探してくれた店は予約で満席、暫く探した店は初孫を2合燗瓶で出してくれる魚料理専門の店であった。新鮮なカサゴの煮付けは冷酒にぴったりであった。
朝食は飛島までの間を往復するフェリーターミナルにある海鮮市場で、マグロ付け丼であった。朝食後酒田埠頭に隣接する芭蕉も訪れたことのある日和山公園を散策した。六角灯台、庄内米を運搬した和舟の1/2の模型を見て、酒田を後にした。月山道路を通り一路山形駅に戻る。レンタカーを返却し、昼食を駅構内で済ませたが、やはり日本蕎麦の食感を忘れられず、食事はざるそばを注文した。昨日の昼食も日本蕎麦であった。今回のみちのくの旅も予定通りに走破できた。事故もなく楽しい旅であった。家族のために土産はサクランボとのし梅にした。
次回は金沢当たりから敦賀を通り、芭蕉終焉の地、大垣までとなろう。来春となるが計画作りも旅を楽しむ事前モードへのスイッチであり、欠かせないことで、今から楽しみにしている。
昨夜は宿泊したビジネスホテルの道を挟んだ前にあった山葵屋という割烹での夕食兼反省会を行った。結構な人数で店は繁盛していたが、午後9時には新庄駅の近辺であったにもかかわらず、通行する人は殆ど無く、閑散としていた。地酒と創作料理に舌鼓を内ながらの宴会であった。今朝は朝食をホテルで取ったが、我々3人の他は宿泊者の姿を見ず、貸し切り状態であった。
二日目は、新庄からは最上川に沿って走り、芭蕉が舟下りの出発点とされる本合海を見学し、羽黒山、月山を周り、鶴岡を経て酒田で泊まる予定であった。羽黒山の五重塔がメインとしていた。最上川舟下りはこれからが時期ともいえるが、我が国の三大急流の一つである。芭蕉が詠んだ句に「五月雨をあつめて早し最上川」がある。最上川舟歌を聴く機会はなかったが、穏やかな流れの場所が本合海である。ナビの調子が悪かったのか船着き場へは誘導できず、仕方なく鳥居があり、川縁の休業している様な寂れたドライブインに車を止めて、見学した。
出羽三山はご存じの方も多いと思うが、古くから信仰の山として、鶴岡の南東に位置する月山、湯殿山、羽黒山の総称である。羽黒山合祭殿と五重塔を見学した。途中宿坊が各所にあり、玄関の上には独特の藁綱に草鞋を飾っていた。多分、講か何かの集団が決まった宿坊に泊まるのであろう。修験道が行われているせいか、抹香臭い様でもあり、不思議な雰囲気が感じられた。月山は出羽三山の主峰であり、高山植物の宝庫でもある。
出羽三山の信仰は二日目に訪ねた湯殿山で信者の行動を見た。先ずは説明書を引用することにした。「山は水の源であり、その水が麓平野の田畑のものが育つことを六感で感じ取っていた。中略、月山は月読尊を、羽黒山には稲倉魂命を湯殿山には大山祇命を祀った。しかし、山そのものを神とした時代は、仏教が入ると一変した。自己に目覚めた人々は生とか死の世界を考えるようになる。悩み多い人生を生き抜くために、自分自身が求めた修行の道に入り、山に足をかけて苦行したのである。出羽三山という一連の峰続きの山々を山駆けして、一つの安心立命の境地を開いたのである。以下略」
湯殿山神社本宮を見学した。仙台から来られた参拝者集団と同行し、お祓いを受ける場で素足となることとされていたが、ご遠慮申し上げ、我々は出立し、鶴岡に向かった。鶴岡では時間をかけて藤沢周平記念館及び、庄内藩校であった致道館を見学した。加茂水族館によって、約1時間弱で今晩の宿泊地である酒田に到着した。