午前の飛行機で奄美大島に行った。
ここは2回目。
ホテル「ネイティブシー奄美」の人が空港まで迎えに来ていた。
同じ飛行機に歌手の「元ちとせ」もいた。
ホテルは、○湾の突端にあり、ロケーションはバッチリ。
ホテルに着いた後、レンタカーで「奄美パーク」内にある「田中一村記念美術館」に行く。
なんとなく予想はしていましたが、ほぼお客さんはいません。
働いている人の方が多いです。
係りの人に、「ゴールデンウイークとかは混みましたか」と尋ねたら、
「数十人ほどが、お見えになりました」とのこと。
いつも、真っ赤ですね。
明治41年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。
若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。
「大正15年版全国美術家名鑑」には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。 同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。超之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。
23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後、1953年・1954年に第9回・第10回日展、1957年・1958年に第42回・第43回院展に出品するが落選、中央画壇への絶望を深める。
1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。墓所は栃木市の満福寺。
没後に南日本新聞やN○Kの「○曜美術館」の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。
田中一村氏の恵まれない生活環境を知り、ちょっと胸が痛くなる。
「奄美パーク」でも、お客さんがいないので、軽く羞恥プレイをしてみました。
夜:ホタル見物に行った。
所要時間 1時間30分ほど
キイロスジボタル
学名:Curtos costipennis
ホタル科
分布/奄美大島・先島諸島
6月ごろから9月頃まで長期間にわたってみられるホタル。全長7ミリと小型でメスはオスよりやや大きい、頭以外が黄色っぽいことが特徴。夜8時ごろから1時間ほどが最も多くよく飛び回る時間帯。幼虫は陸生で、カタツムリなどを食べる。
でっ、静まり返った山すそに行き、ほんとーに数えるほどのホタルさまを見せていただきました。
7月あたりがエロくなっていてよいようです。
今日は、有楽町フォーラムでやっている「東京ジャズフェスティバル」に行った。
午後1時00分~1時50分
ケニー・バロン トリオ featuring 北川潔 and ジョナサン・ブレイク
午後2時05分~2時55分
上原ひろみ × 熊谷和徳
午後3時10分~4時00分
セルジオ・メンデス
上原ひとみさんと熊谷なんとかさんのコラボがカッコよすぎて、次に出てきた「セルジオメン○ス」がドッチラケ。
本人達もお客もどうにかして盛りあがなければという雰囲気になっており、最後の2,3曲になってやっと努力が報われる。