永田町に住み着いている「政治評論家」というわれるおっさんたちが、「決められない政治」を民主党だけのせいのようにいう。でもねじれてるんだから、共通点が見つかる場所では与野党が協力するのは当然、「わが党」の手柄にするために「ほかの党の政権下で画期的なことが行われるのは避けたい」という政局・選挙マインドの政治家にそれができなかったのは、野党のせいでもあると思うあたし。二院制は今の政治家たちが政治を目指す前から確立した制度である。
二院あればねじれることもある、ねじれ環境でも粛々と合意点を発見しやるべきことをやるのがプロじゃいのか。こどもだって決まったルールにのっとって遊ぶことを知っているってぇのに。なのに評論家たちは、ねじれを理由に何も決めなかった国会議員全員を批判するのならまだしも、民主党だけを批判する。仕事をするといって国民の代表となった人たちに、なぜ仕事をしない理由を与えてやるのか。少なくとも野党の政党によっぽど肩入れしていなければ、専門家としての良識が問われると思うのだけど。とはいえ、政権とって分裂する民主党もどうかと思うけどさ。。。
嘉田滋賀県知事の未来の党をいろいろと批判するのは簡単だけど、色々あるものの小沢一郎という政治家は裁判で無罪だったのであり、評論家がいうところの「吹き溜まり」であっても、「ここでは協力できる」という妥協点を発見して結集するってことは、我々有権者が「できるところからやろう」と、日常的に当たり前のこととして行っていることなので、それすらできない「それ以外の人たち」のほうが、国民の代表としての資質を欠いていると思うあたし。民主主義って時間のかかるプロセスなのだから、優先順位を決めて、上のほうにある課題が似通った人たちが共闘するのって、当然じゃないのか?なぜ野合でなぜ批判の対象となるのか不思議。ひょっとして玄人の評論家さんたちは、二大政党制しか民主主義じゃなくて過半数を取った政党が物事を決めていく政治しかイメージできていないのではないかと思えてしまう。
とはいえ、憲法改正に関して比較的リベラルだった人たちが、自分たちの地盤ではない地域でのブランドを取り込むために、方向転換するのは「野合」だと思うし、信用できないけど。で、どこまでなら信用可能・不可能かっていう線をどこで引くかは、みんな違う微妙な問題でもあり、その「変節」した部分が自分にとってどれだけ重要かによっても判断は異なるであろう。
「政治」評論家を名乗る人たちが、あたかも中立であるかのように「政局」評論をすることに、ものすごい違和感を感じるし、それをありがたがる報道機関もどうかと思う。あたしは政治という極めて個人的なことを「中立」を装って語ること自体が欺瞞で、それが「政局」を語るのであればなおさらではないかと確信している。さらに言えば評論家も報道機関も中立である必要はなく、「うちは○○党支持」という旗幟鮮明でやればいいと思う。そのほうがよっぽど透明性があってあるいみ中立(笑)。そのうえで「政局」ではなく「政治」を、「民主主義」を議論してほしい。政治評論家を騙る政局評論家の「玄人」評論が、永田町にどれだけ食い込んでインサイド情報を持っているかが彼らの評論家としての上下関係を決めるかのように、マニアックな枝葉末節針小棒大状態で語ってばかりいるので、政治家も国民も「永田町と国民は別物」と信じ込んでしまっているように思える。本当に「別物」にしておいていいのか?
まずは、この怪しい政治評論家たちの口から出てくる言葉に突っ込みを入れるところから、政治に入門する、これって意外に面白い「民主主義事始め」かもしれませぬ、ぷぷぷ。あいかわらずひねくれ者のあたし、ケバさんもあきれ顔で窓の外を見ている。
あ、そうそう、旗幟鮮明、これを英語でshow the flagという。別に戦場に日本の旗を立てよという意味でもなければ、自衛隊よ汗をかけという意味でもないのである。どういう経緯でそんな話になったのか知らないけど、そういう性癖を持ってる政治家は今でもうようよしている。威勢よくすぐにこぶしを振り上げたがる人にはご用心。なんせ、その振り上げたこぶしで痛い思いをさせられるのは、挙げたご本人というよりあたしたち国民だからね。
二院あればねじれることもある、ねじれ環境でも粛々と合意点を発見しやるべきことをやるのがプロじゃいのか。こどもだって決まったルールにのっとって遊ぶことを知っているってぇのに。なのに評論家たちは、ねじれを理由に何も決めなかった国会議員全員を批判するのならまだしも、民主党だけを批判する。仕事をするといって国民の代表となった人たちに、なぜ仕事をしない理由を与えてやるのか。少なくとも野党の政党によっぽど肩入れしていなければ、専門家としての良識が問われると思うのだけど。とはいえ、政権とって分裂する民主党もどうかと思うけどさ。。。
嘉田滋賀県知事の未来の党をいろいろと批判するのは簡単だけど、色々あるものの小沢一郎という政治家は裁判で無罪だったのであり、評論家がいうところの「吹き溜まり」であっても、「ここでは協力できる」という妥協点を発見して結集するってことは、我々有権者が「できるところからやろう」と、日常的に当たり前のこととして行っていることなので、それすらできない「それ以外の人たち」のほうが、国民の代表としての資質を欠いていると思うあたし。民主主義って時間のかかるプロセスなのだから、優先順位を決めて、上のほうにある課題が似通った人たちが共闘するのって、当然じゃないのか?なぜ野合でなぜ批判の対象となるのか不思議。ひょっとして玄人の評論家さんたちは、二大政党制しか民主主義じゃなくて過半数を取った政党が物事を決めていく政治しかイメージできていないのではないかと思えてしまう。
とはいえ、憲法改正に関して比較的リベラルだった人たちが、自分たちの地盤ではない地域でのブランドを取り込むために、方向転換するのは「野合」だと思うし、信用できないけど。で、どこまでなら信用可能・不可能かっていう線をどこで引くかは、みんな違う微妙な問題でもあり、その「変節」した部分が自分にとってどれだけ重要かによっても判断は異なるであろう。
「政治」評論家を名乗る人たちが、あたかも中立であるかのように「政局」評論をすることに、ものすごい違和感を感じるし、それをありがたがる報道機関もどうかと思う。あたしは政治という極めて個人的なことを「中立」を装って語ること自体が欺瞞で、それが「政局」を語るのであればなおさらではないかと確信している。さらに言えば評論家も報道機関も中立である必要はなく、「うちは○○党支持」という旗幟鮮明でやればいいと思う。そのほうがよっぽど透明性があってあるいみ中立(笑)。そのうえで「政局」ではなく「政治」を、「民主主義」を議論してほしい。政治評論家を騙る政局評論家の「玄人」評論が、永田町にどれだけ食い込んでインサイド情報を持っているかが彼らの評論家としての上下関係を決めるかのように、マニアックな枝葉末節針小棒大状態で語ってばかりいるので、政治家も国民も「永田町と国民は別物」と信じ込んでしまっているように思える。本当に「別物」にしておいていいのか?
まずは、この怪しい政治評論家たちの口から出てくる言葉に突っ込みを入れるところから、政治に入門する、これって意外に面白い「民主主義事始め」かもしれませぬ、ぷぷぷ。あいかわらずひねくれ者のあたし、ケバさんもあきれ顔で窓の外を見ている。
あ、そうそう、旗幟鮮明、これを英語でshow the flagという。別に戦場に日本の旗を立てよという意味でもなければ、自衛隊よ汗をかけという意味でもないのである。どういう経緯でそんな話になったのか知らないけど、そういう性癖を持ってる政治家は今でもうようよしている。威勢よくすぐにこぶしを振り上げたがる人にはご用心。なんせ、その振り上げたこぶしで痛い思いをさせられるのは、挙げたご本人というよりあたしたち国民だからね。
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