今日のうた

思いつくままに書いています

水爆実験 60年目の真実 1

2014-08-10 17:10:10 | ②一市民運動
NHKスペシャル「水爆実験60年目の真実~ ヒロシマが迫る `埋もれた被ばく´ ~」
(2014年8月6日放送)

東西冷戦が激しさを増していた1950年代に、米ソは競って水爆実験を行っていた。
1954年3月1日、アメリカは太平洋ビキニ環礁で水爆実験を行う。
これは広島に投下された原爆の1000倍もの威力があるものだ。
水爆実験は2か月半の間に6回行われた。

アメリカはソ連との核開発競争で優位に立とうと、不利になるものはことごとく排除した。
周辺には数多くの日本漁船が操業していたが、日本政府は被ばくを認めようとしなかった。
大量の死の灰(放射性降下物)を浴びたのは、「第五福竜丸」だけではなかったのだ。

なぜ60年もの間、その事実が封印されてきたのか。そしてそれがどのようにして
判明したのか。

1989年に高校教師だった山下正寿が、ビキニ周辺で操業していた船が
高知県土佐清水の港近くに捨てられているという話を耳にする。
生徒たちと放射線量を測ると、30年以上が経っているにも関わらず、
毎時1・5マイクロシーベルト(自然界の37倍)の値を示した。

ここから山下は、当時の漁船員と被ばくとの関係を調査し始める。
204人の実態調査を行うと、ガンや心臓病などを患い全体の3割にあたる
61人が亡くなっていた。中には40歳で突然亡くなった人もいた。
そして一般には1万3千人に1人の割合で発症する白血病で、
3人もの人が亡くなっていたのだ。

漁船員たちはビキニから帰ってすぐに放射線測定を受け、測定器が激しく
鳴ったのを覚えていた。
しかし国からは何も知らされず、何の対応もなかった。
山下は厚生省に情報公開を求めたが、肝心の人体への放射線量は記されていなかった。
再度説明を求めても、人体の記録は無いの一点張りだった。

水爆実験の翌年、国はアメリカから200万ドルの見舞金を受け取り、この問題を終わらせた。
そして「第五福竜丸」以外の被ばくは無いものとされた。

室戸の漁船員やその家族は放射能の恐怖は感じていたものの、漁業で生計を立てている
漁船員たちにとって、被ばくは長い間禁句とされ、被ばくの事実は60年にわたって
闇に葬られた。

これに風穴を明けたのは、山下と広島の科学者たちである。
2013年4月、広島でビキニ水爆実験の被ばくを明らかにするプロジェクトを立ち上げた。
集まったのは、被ばく者たちの体に残る影響を長年調べてきた専門家たちである。
科学者たちは、当時の被ばく量が国際基準の100ミリシーベルトを超えるかに注目した。
(100ミリシーンベルトを超えると、健康に影響を及ぼすとされている)

その中の一人である星正治は、歯に注目した。歯には被ばくの痕跡が残っているからだ。
これを測れば、当時の放射線をどれくらい浴びたかがわかる。
ところが60年という歳月が経ち、亡くなった人や歯を全部ぬいてしまった人もいた。
たまたま9日前に抜歯したという人の放射線量を測ったところ、驚くべき結果が出た。

この方は水爆実験現場から1300キロメートル離れた海域にいたのだが、歯を分析すると
414ミリシーベルトの放射線量が検出された。
そこから、これまでの自然放射線45ミリシーベルトと医療被ばく線量
50ミリシーベルトを引き319ミリシーベルトだったことがわかった。
これは国際基準の100ミリシーベルトを遥かに超えている。
(1ミリシーベルトは1000マイクロシーベルトなので、319000マイクロシーベルト)
国が60年間認めてこなかった漁船員の被ばくが、初めて明らかになった。

319ミリシーベルトは、広島の爆心地から1・6キロ離れた場所での放射線量と
ほぼ同じである。
広島では被曝手帳が交付され、医療費は無料だが、当時の漁船員たちは被ばくした事実を
知らされることなく、医療費や見舞金を支払われることなく、お詫びの言葉もお見舞いの言葉も
聞く事こともなく、病気や体調不良を抱えながら多くの方々が亡くなっていたのだ。

田中公夫は、血液学の立場から被曝の実態に迫ろうとした。
亡くなった方々の無念さを晴らそうと、高知・愛媛・宮城などから18人の血液が集まり
染色体の異常率から被ばく線量を導き出そうとした。 

2014年2月、アメリカでも新たな事実が見つかった。
実験から数十年が経ち公開された極秘文書の中に、これまで存在しないとされてきた
漁船員たちの検査結果があったのだ。これは厚生省から外務省を通じて
アメリカ国防省に渡ったものだ。
被ばくした船のリスト、魚と船体が浴びた放射線量の他に、漁船員の血便や歯茎からの
出血の記載、そして人体の被ばく量が記されていた。
これは毎時2・5マイクロシーベルトになるという。

14隻の被ばくの事実を知りながらもアメリカは水爆実験を続けたことになる。
アメリカは、被ばくによる人体への影響に目を向けることはなかったのか。 

1953年、ソ連が水爆実験に成功したことで、アメリカはあせりを感じていた。
核兵器の開発に不可欠な核実験が中断されることを恐れ、実験の邪魔になるものは
全て極秘とし、日本の漁船員の被ばくも極秘とされた。 2につづく

                               (敬称略)

※長崎被爆者代表 城臺美彌子さんのスピーチを、ブックマークに入れました。
 私のブログの一番右下にありますので、是非、クリックして下さい。
 残念ながら削除されました。(2016年2月12日 記)
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水爆実験 60年目の真実 2

2014-08-10 10:03:59 | ②一市民運動
NHKが外務省に情報公開を求めると、山下があれほど求めても得られなかった
検査報告書が出てきた。亡くなった通信士の毛髪から、毎時1・1マイクロシーベルトの
放射線が検出されていた。アメリカの文書にあった14隻の他にも、
新たに14隻の漁船員に被ばくがあったことも分かった。

山下の言葉
「無い無いと言っていた資料があったんだから、なぜ早く明らかにして救済とか治療とかの方に
 出さなかったのか」

元厚生省審議官、蔵田直躬(91歳)の言葉
「第五福竜丸以外にも被ばくした漁船員がいたと感じていた。しかし検査は
 途中で打ち切られた。もっとしっかりせにゃいかんと自己反省しますね。
 あの当時、厚生省にいたんだから、しっかりせえと自分を責めたい。
 日本の国にとってこれは、おぞましいこと、消すべきこと。
 国民全部が被害者みたいな感情を持たれ、行動でも起こされると困る。問題は深い。
 そのために死んだり、病気になった人がどれだけいたかということ。
 調査も補償もろくにしていない」

1954年、ベトナムではホーチミン率いる共産党が勢力を拡大していた。
日本でも「第五福竜丸」事件をきっかけに、激しい反米・反核デモが繰り返されていた。
日本の放射能パニックが共産主義勢力に絶好のチャンスを与えてしまうと、アメリカは神経を
尖らせた。水爆実験で被害を受けた日本に対し、アイゼンハワー大統領は秘密工作を行うための
直属の組織、OCB(工作調整委員会)を設置した。
OCBは他国の世論を動かす心理作戦を担っていた。

事態をかわすために押し進めたのが、「原子力の平和利用」である。
「核分裂物質は、人類の平和のためにも使われるべきだ。原子力は兵器だけでなく、
夢のエネルギーにも使える」とすることで、水爆実験への批判をかわそうとした。

水爆実験の翌年、1955年~57年に、OCBの提案で「原子力平和利用博覧会」が
開催された。広島をはじめ11カ所に、300万人が押し寄せた。
水爆実験の2年後に、OCBがアイゼンハワー大統領に提出した報告書には
次のように記されている。
「一連の原子力のPRによって、日本人の反核感情はほとんど取り除かれた」

水爆実験への反発をかわそうとしたアメリカ。その思惑(おもわく)にのった日本。
こうして多くの漁船員の被ばくは顧みられなくなっていったのだ。

2014年6月、1年前に立ち上げたプロジェクトの調査結果が発表された。
染色体の異常率と推定被ばく量を割り出す作業で、18人中13人に高い値が現れた。
18人は、水爆実験を行った地点から1300km離れた場所で操業していた。

染色体の異常の割合と被ばく線量の関係
               1・14%では、128ミリシーベルト被ばく 
               2・72%では、306ミリシーベルト被ばく 

18人中8人が、健康への影響があるとされる100ミリシーベルトを超えていた。

当時アメリカは、太平洋の20か所にモニタリングポストを設置し、
毎日データを収集していた。(1950年代に設置されていたというから驚く)
空気中の高い放射線量を示すものが赤く塗られ、形を変えながら拡がっていくのがよく分かる。

3月2日・・・狭い範囲だった。 3月14日・・操業海域を覆う。
その後も、3月27日(2回目の水爆実験)、4月26日(3回目の水爆実験)、5月5日
(4回目の水爆実験)・・・と、2か月半にわたって6回の水爆実験が行われた。

アメリカの放射性降下物の拡がりと、当時の103隻の漁船の航路を重ねあわせると、
少なくとも98隻の漁船員たちは、死の灰がただよう海で操業を続けていたことが分かる。
国は危険範囲を知りながら、漁船の操業を止めることは無かった。
国家の思惑の陰で、漁船員たちの被ばくは無かったものにされた。

2014年7月、山下と「第二幸成丸」の乗組員だった桑野浩が厚生労働省を訪れ、
存在しないとしてきた記録が見つかったこと、そして漁船員の被ばくが
科学的に裏付けられたことを伝え、早急な調査を求めた。

その時の桑野の言葉
「私事体が100ミリシーベルトという放射能の痕跡が、体に残っている。
 今までどんどん亡くなった方たちが、私以上の何百ミリシーベルトという核の放射能を
 かぶっている。だからこそ厚労省の力で公表してもらいたい」

山下の言葉
「厚労省として人権に関わる未解明の問題として位置づけ、因果関係の解明のために
 取り組まれたい」

「公文書がかくされて、被災の事実がかくされて、被災者は自分が被災したことを知らずに
 苦しんで亡くなった。早くから事実が明らかになっていたら、被災者に自覚することが
 できたら、医療補償の問題が確立されていて、こんなことにはならなかった」

 
高知室戸で、血液検査の結果を知らされた「第二幸成丸」の乗組員だった久保尚さんは、
40歳で亡くなった寺尾良一さんのお墓にお線香を手向け、ビキニでの被ばくの事実が
明らかになったことを報告した。

私が感じたこと
原子力の歴史は隠蔽の歴史である。
原子力は隠さねばならぬ程、人間にとって危険なものなのだ。

「平和」という言葉ほど、国民を騙しやすい言葉は無い。
日本の原子力政策に、OCBの戦略が使われている。

歯は生え替わらないので、何十年経っても被ばくの痕跡が残る。
少しでも被ばくの疑いがある方は、乳歯でも永久歯でも保存して欲しい。

アメリカは広島と長崎に原爆を投下したわずか9年後に、水爆実験を行っている。
現在のアメリカには、原爆を投下したことで戦争が早く終わったと考える人が多くいる。
そして原爆に関しては、きのこ雲の写真しか知らない人も多くいる。
まずは事実を知ることから、始まるのだと思う。

山下さんたちの早急な調査を求める訴えに、厚労省は、国は、これからどう応えていくのか、
しっかり見届けていこうと思う。                         
(敬称略)

追記1
山下正寿氏が、「特定秘密保護法」について高知新聞のインタビューに応えています。
               ↓
http://www.kochinews.co.jp/13himitsu/13himitsuinta06.html

(2015年8月21日 記)

追記2
動画で「水爆実験 60年目の真実」を観ることができます。
               ↓
https://www.youtube.com/watch?v=VO5oWU7qCmg

                           (2014年8月19日 記)

追記3
山下正寿氏は、ビキニ事件の公文書の情報公開を永年にわたり求めてきたが、
2014年9月19日にやっと記録が開示されることになった。
因果関係を解明し、その結果を世界に配信して欲しいです。
                           (2014年9月20日 記)
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