北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

建築家は、

2014-10-11 17:31:02 | 日記
頑固そうで偏屈な顔をした人がよろしい。これは僕の経験則。


南米ウルグアイの建築家、エラディオ・ディエステ、、、






設計した教会 (首都モンテビデオから50kmくらい東の、アトランティダと言う街のトラム?の

停留所?の前に建っている。実は、会社を作って施工もしちゃってる、誰も施工出来ない?)











床も壁も天井も全部レンガ、、、。(排煙計算なんて関係ないみたいだ。どうせ燃えるも

のなんて、ありゃしない。)









Cristo Obrero Parish という名前になっています。









南仏トロネの修道院












やっぱり、床も天井も壁も、全部、石、石、石。


中世の修道士と同じくらい、頑固、、、。


「アルメニア建築」も、床、壁、天井、全部、石、石、石。

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また、いつかどこかで

2014-10-11 15:47:24 | 日記
って、書きましたけど、もう、我慢できない!紹介しちゃいます。

神谷武夫さんと言う方の「神谷武夫とインドの建築」。


http://www.kamit.jp/index.htm#kami


を、コピーして、貼り付けて、クリック!!

特に、その中のリンクの アルメニアの建築 は圧巻!!

(一番、下の方です。)

この方の写真は、絶対に無断では転載出来ません。全部、ご自身で現地に行って、撮られ

たものだからです。(他所の本からコピーしたものではありません。皆さん、是非、直接

ご覧になってください。そして、多くの方に紹介してあげて下さい。)

写真も、非常に上手です。


載せる写真がないので、アルメニア人ですけど、オーストラリア在住のボクサー、

ビック・ダルチニアン(Vic Darchinyan)選手を紹介します。日本の山中慎介選手

とも死闘を演じ、ノニト・ドネア(Nonito Donaire)選手との試合は近年の名勝負。










いやー、凄い試合でしたねぇー。

(赤のトランクスが、ノニト・ドネア選手、黒のトランクスが、ビック・ダルチニアン選

手です。ノニト・ドネア選手は、フィリピン出身の方。アメリカ西海岸在住。)


追記

ところが最近、この二人が二人とも、ジャマイカのニコラス・ウォータースと言う選手に

立て続けにKO負けしてしまいました。ドネアでさえ「支払いを始めて」しまったのです。

上には上がいるものです。


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小冊子

2014-10-11 14:32:18 | 日記
私の手元に、ある小冊子がある。天野太郎の建築展 -あるべきようは- 。その中の、ある

方から寄せていただいた文章を読んで驚いた。その文章、、、


一方、レーモンドはチェコの改革派のユダヤ教徒の家に生まれ育ち、土浦に宗教性は薄か

った。なお、チェコで近年行われたレーモンド展の副題は「あるユダヤ人一家の生涯」で

あった。     (注 「土浦」とあるのは、土浦亀城さん。ライトの弟子、建築家。)


びっくりした、、、。三沢浩さん訳の「アントニー・レーモンド自伝」にも、こんなこと

書かれていなかった。(本人の書いた自伝だからか、、、)

アントニー・レーモンドは旧帝国ホテル建設の時、フランク・ロイド・ライトと一緒に

日本に来た人。吉村先生のお師匠さん。でも、奥さんのノエミさんはフランス人で、もち

ろんカトリックだろうから、レーモンドがユダヤ人? そんな事って、あるの、、、、?

でも、考えてみたら、ここでは名前は書かないが(違っていたら失礼だし、、、)ライトの

弟子で、後年、世に名前の残った人にユダヤ系の人は、もの凄く多い、、、はず。

その人達はいかにも頑固そうな風貌の人達で、「炉辺談話」だか「炉辺講話」だかで、

週末、ライトの話を聞きに集まっていた普通のアメリカのアングロサクソンだかヤンキー

だかの青年達とは、ずいぶん違う感じ、、、、。(レーモンドの顔も頑固そう、、、。)

ライト自身にも、僕は、少数民族のケルト人の「ケルト文化」を感じてしまう、、、。

コルビジェの生まれたラ・ショー・ド・フォンも、確かストラスブールの近くか何かで、

フランスでも少数派の文化・宗教の地域のはず、、、。コルビジェの描く不思議な「牛

の絵」も、その少数派の宗教と関係がある、とどこかで読んだ記憶があるような、、、。

なにを言いたいかと言うと、建築の設計の才能って、もしかしたら、少数派の民族の、

「異端」「異教」の人たちの方があるんではないのか知らん?と言う事。(じゃ、日本人は

どうなんでしょうかね、、、、? 「アルメニア建築」については、また、いつかどこか

で、、、。凄いですよー、、、。)

ライト自身は、自分の弟子達のことを、どう考えて、思っていたんでしょうかね?もちろ

ん、「来るものは拒まず」だったんでしょうけど、、、。




写真は、アントニー・レーモンド、、、(なんて呼んだらいいんだろう、、、。)






レーモンドの描いた旧帝国ホテルの鳥瞰パースと、永橋爲成さんの描いた、吉村先生の

皇居新宮殿の鳥瞰パースは、鳥瞰パースの双璧。






訂正  ラ・ショー・ド・フォンは、スイスのレマン湖畔のローザンヌの街の、

    北100kmくらいの国境の街で、フランス語圏ですがスイスの都市でした。

ですから、コルビジェはスイス人ということになると思います、、、。










    
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旧帝国ホテルのエスカレーターの謎

2014-10-11 12:13:46 | 日記
旧帝国ホテルの項の部屋名をチェックしていて、「大食堂」を「孔雀の間」に書き換える

のに、プロムナードの写真を見ていたら、チラッと見えるエスカレーターの上がりきった

辺りの、例のゴムの手摺り(何て名前なのか知らん?)を発見!「あれっ?」ライトの帝国

ホテルにエスカレーターなんて、あったっけ? それも、こんな、ど真ん中に、、、、?

もしかしたら、ホテル側が、「今の時代に、これじゃ不便だ。」って言うんで、ゼネコン

と相談して、例の「狭い階段」のところに無理くり付けちゃったのかな? (つけたとした

ら、1960年代の始めくらい?)でも、その「チラッと見える」ゴムの手摺りは一台分だけ。

(だって狭いんだから、一台しか付けられないはず、、。)普通エスカレーターは「上り」

と「下り」でワンセット、、、。旧帝国ホテルはご存知の通り、左右対称シンメトリーの

建物。「狭い階段」同士は、8~9mは離れているから、後から付けたであろうエスカレー

ターも、8~9m離れていて、どっちかは「上り」で、どっちかは「下り」。「んっ?」何か

不便そう、、。「下り」のエスカレーターの下まで来たお客さんは、「あらっ違ったわ」

って言うんで、反対側の「上り」のエスカレーターに行こうとする、、。だけど、そこは

厨房からバンケットホール?(つまり、一日3回ご飯を食べる「大食堂」。)との間で給仕

さんたちが、しょっちゅう行ったり来たりしてるはず。これじゃ、信号の無い交差点。

給仕さん達は、お客さんとぶつからないように、もの凄い気を使っただろうし、食事をし

ているお客さんは、行き交う他のお客さん達を見ながら(見られながら)食事をしていた

の?旧帝国ホテルは最後の何年間か、こんな風な光景の中で営業されていたのか知らん?



えいっ、これじゃさすがに判んないだろうから、写真載せちゃいます。






「チラッと見える」ゴムの手摺り、わかりますか? (本当は、この写真手前の左下に、

もう一つの「ゴムの手摺り」が見えるはずなんです、、、。はるか上の方に見えるのは

例の「半球状の不思議な飾り」です、、。これが僕には「心の珠玉(たま)」の、さらに

「珠玉」に見えてしまう、、、。この写真の、向かって左が日比谷公園、右は有楽町駅、

「孔雀の間」。)



写真は、本当に申し訳ありません。勝手に使ってしまっています。(松岡正剛さんなんか

は、どうしているのか知らん?全部、その都度、了解を頂いているのだろうか、、、?)

削除要請の場合は私のメールまで、ご連絡下さい。





追記  旧帝国ホテルの1階の平面図ありましたので載せておきます。23番の番号の

    両側の幅の狭い階段が、後からエスカレーターに変えられてしまっているように

    思うのですが、どうなんでしょうか、、、?



   
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だが、母は、

2014-10-09 15:52:33 | 日記
ありとあらゆる人と連絡を取り続ける。引揚げの経験からか、国家と言うものを信用して

いないのである。(たぶん、いちいち聞いて確かめたことはない。親子なんて、そんなも

の、、、。) 国家がなくなったとき、国家は何もしてくれない。(当たり前。軍隊は一番

先に逃げてしまう。)最後は個人しかない。「佐藤さん、あんた達は早く逃げなさい。」

と言って、母達を逃がしてくれたのは、昨日まで家で働いてくれていた、朝鮮の普通の

人達。(それでも祖父は、母達を先に返して、自分は朝鮮に残って、会社の人々の最後

まで見届けなければならない、、、。)博多に上陸しても、汽車の切符が手に入らない、

久留米の、それまで京城の家で、お手伝いさんをしてくれていた方の実家に、しばらく

転がりこまさせてもらう、、、。切符が手に入っても、今度は東京の戦災をのがれた家

は、すでに誰かが住み始めていて、住む家もない。しかたがなく、館山の、京城に来て

いた母の従姉妹の旦那さんの実家に、またしても転がり込ませてもらう、、、。

母の意識の中には、「人間いつどこで誰の世話になるかわからない。」という気持ちが

あるのだと思う。「情けは人のためならず。」どころではないのだ。生きるか死ぬかなの

である。

だから、母は連絡をとる。年賀状は欠かさない。(もちろん例の情報収集の意味もある。)

我が家は、昭和32~4年頃、函館に住んでいたのだが、その時お世話になった、お手伝い

の方が、今、函館のどこの老人ホームに入っているかまで知っている。函館に来ると40年

以上たっていても、会いに行く、、、。私は、運転手をさせられる、、、。

人に悪くするなどもってのほか、恨んでも恨まれてもいけない。日本人も朝鮮の人も同じ

、、、。いつ、どこで誰に助けてもらう事になるか、誰にもわからないのだから、、、。

早くに亡くなった祖母は、京城の家で、「この子は良い子で賢いから、、、」と、朝鮮の

お手伝いさんの女の子を、女学校まで上げてあげたという、、、。母は、その子と一緒に

女学校に通ったのである、、、。
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