ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

カミングアウト・仏教徒(4)

2004-06-15 | なんとなく仏教?
だいたいが、
「ブッキョー」なんて言葉を口にすること事態、
恥ずかしいじゃないか。
そんなことを 平気で口に出すのは、
キリスト教や仏教の新興宗教に 凝り固まった人たちか、
ドラッグでもやって、すこ~し いかれた 人たちか、
ともかく 精神がちぴっとあちらに行っちゃってる人たちで、
胡散臭くて、へたすりゃ、犯罪のにおいがして、
悪けりゃ、オウムしんりきょー。

それが、私の感覚なんですが、フツーでしょうか。

仏教徒であることに、ハニカミを感じている。
でも、仏教が、からだの細胞のひとつひとつに、しみこんでいる。
体全体から、仏教のにおいがする。
日本人である。

日本人であることと、
仏教徒であること、
両方に、ハニカミを感じている。
そして、愛しさを、感じている。
すこうし、期待している。
これから、世界で、
しかし静かに、活躍してくれないかな。

カミングアウト・仏教徒(3)

2004-06-15 | なんとなく仏教?
私が持っている、普通の人の感覚。
お寺の人間は、それをカミング・アウトする時、
恥じらいをもってすべし。
お坊さんのカッコで 出歩く時は、
人にじろじろ見られても、
動じず、
気にせず、
堂々とせよ。お
坊さんのカッコで、病院にお見舞いに行くべからず。

それから・・・病気の人の前で、仏教を語るべからず。

乳がんの患者仲間には、悟られぬようにしていした。
べつに、お坊さんのカッコを するわけではないですが。
聞かれりゃ、言いますけどね。

私は自分が いくらか‘死’に近い、とは
まるっきり思ってはいませんが、
まるで、お友達のように、‘
死’を身近に感じるのも事実です。
でも、そんなこと、癌友には、言えません。
魂の重さ、なんて、口に出すと、
ずしんと来るひとだって、いるはずですよね。

身近に感じるようになってからは、
ひととの話題に上らせたい、と思うのですが、
上らせてはいけない、と抑えるので、
フラストレーションがたまります。
そのはけ口を、ここに作ったのだ、と、今、わかりました。

フツウノヒトの感覚で、仏教について、語りたい。
だれか、おしゃべりしに、こないかな~。

カミングアウト・仏教徒(2)

2004-06-15 | なんとなく仏教?
私は、人に、
「私は仏教徒です」
とは、言いにくいと感じています。
まあ、そんな質問をする人も、まずいないし、
わざわざ告げる必要性も、
ないと言えば、ないのですが。

子供の頃から、
「ウチ、お寺なんだよ。」とは、言いにくかった。
バチ当たりにも、親の職業を、誇りに思っていなかったらしい。
でも、中学生になって、
ウチがお寺だと知らない子が同級生にどっと増えたあと、
「ジョルジュ(とは、さすがに、当時は呼ばれなかったけど)さんちは、
お寺なんだって。」とか、
「お父さんが、お坊さんなんだって。」とかいうことになると、
その場に流れる、一種独特の、
なんとなくの雰囲気。
あれは、なんだったんだろう。

私がうすうす感じていたのは、
本来、尊敬されるべき職業の人に対する、逆差別意識だったのだ、と 
最近 判別できるようになった。

農村地帯。
「百姓のせがれにゃ、学問はいらねえ。
 それなのに、この がきゃあ、高校へ行きたいとぬかしやがる。」
「跡を継いでもらおうと思ってたのに、
 中学の先生がウチに来て、
 上の学校(高校)へ入れてやってくれとゆうんで、
 どうしたもんかと 思って・・・。」
私が小さい頃、近所の人が 両親に 相談してきた内容には、
こんなものが多い時代が、
確かにあった。

昭和ニ十年代の高度経済成長の波が、
まだ田舎の農村地帯には、届かなかった頃。
確かに私はおさなかったが、
そんな話を、いくつもいくつも、聞いた。
・・・だが、そんな悩み事は、四十年代に入ると、ぴたりとなくなった。
高校進学が、“当たり前”に代わってしまったのだ。

文字の読み書きに、不自由さを感じる者が、
各家庭に何人かずついた。
そんななかで、文字の読み書きが必須のお坊さんは、
村の人たちに、無条件で尊敬してもらっていた。
義務教育が定着して、
野良仕事の手伝いのために 学校を休ませなくてはならない農家(無着成恭著・
やまびこ学校を見よ)が 減って、
読み書きができて当たり前、の意識が広まった後の、
「俺ァ、頭が悪いから」、
「俺んちは、農家だから」、
という劣等感の裏返しの、
だから、なんなんだよ、の気分。
・・・あからさまな態度のものは、いなかった、
むしろ、ああ、お寺の娘だから、頭がいいんだな、という、
納得の表情の中には、敬意が見え隠れすることもあった。
もちろん、私のアタマは、普通でした。
教員の子供達にも、同じ悩みがあった時代です。

それから、高校に入ると、
(例の、田んぼの中の道の果てにあった高校。
 いや、私の家が果てにあったのか)
一応地域では、進学校として 面目を保持していた学校だったせいか、
そんな雰囲気は一掃されたようだった。
ただし、こういう質問付きで。
「え~~~っ、お坊さんって、お肉やお魚食べちゃ、いけないんでしょう。」
「えっ、お坊さんって、結婚しちゃいけないんでしょ?」 
・・・日本万国博覧会・EXPO・70 の、あとです、あと!

とにかく、お坊さんという職業は、特殊でしたし、
今も、あるていどは、特殊です。
特別扱いしてもらっていましたし、
今でも、してもらいたい場合が、あると思います。

そして、気恥ずかしさから、
カミング・アウトは しないどころか、
悟られぬように 気をつけていたような気がします。
仏教系の大学に入って、すごーく気が楽になりました。
そしてそして、
自分ちが お寺であることに、劣等感を抱いていない人も、存在していたんです!

そう、私のこの感情は、劣等感の一種です。
家が、お寺であることの。
もしかしたら、いまでも、「気恥ずかしさ」のほかに、
まだ、持ってるかも知れません。
劣等感を。
お寺の人って感じ、しないよね、なんて言われると、
嬉しいんです。

でも、私が、少しは持っている、と信じている、
一般在家のひとの感覚を、大切にしたいとは、
いつも願っています。

カミングアウト・仏教徒(1)

2004-06-15 | なんとなく仏教?
私は、仏教徒です。
日本人の大半は、こんなことをカミングアウトしなくても、
仏教徒なのではないか、とは思いますが、
そういう一般の人々より、
もう少し、仏教徒です。

まず、私は、茨城県にある、小さな寺の娘として生まれました。
父親は、お坊さんです。
私の祖母が寺の娘で、
農家の口減らしでお坊さんになった祖父と 結婚し、
茨城のお寺に住まいました。
父の兄弟にひとり、父のいとこにひとり、お坊さんがいまして、
“親戚がやってるお寺” というのがあります。
その前に、
なにしろ、自分の家が、お寺なんです。

それに、私は仏教学部の卒業生です。
その昔、頑張ることを知らない、ぐうたら娘だった私は
(あ、今でも、ぐうたらですが)、
大学入試に失敗し、
望む大学に入れませんでした。
前々から両親から提示されていた、仏教系の大学に入る、
ということを、甘んじて受け入れました。

二次募集で、仏教学部・仏教学科に 籍をおきました。
やけになっていたのか、あきらめちゃったのか、
英文科もある 大学だったんですけどね。
---でも、これで、あと四年間遊べる、と思いました。

今は、少子化の 影響を受けて、
人間学部とかの名称に変わってしまってますが、
そこで仏教の勉強をして、無事に四年で卒業しました。
なにしろ、根っからの ぐうたらなもので、
遊ぶ、ということも、それほどできませんでした。
(逆に、英語の教員免許を、人の倍は単位をとって、
 教育実習もして、取得しました。
 今になって思えば、エラカッタな~)

大学では、仏教の事をいろいろ勉強した、はず。
そのうえ、お経の読み方など、実践的なことを教えていただく時間があり、
私も参加しました。
ですから、今からでも、私は、お坊さんになるための修行をすれば、
専門の勉強をし、必要単位を取得している、ということで、
少しは偉いお坊さんに なれるんです。

ーーーなんで、修行しなかったか。
修行に、生理休暇がないから。
今なら、ホルモン療法によって、女性ホルモンの分泌を止めてるので、
アガっているのですが。

そんなこんなで、無宗教です、なんてことは、口にはできないのです。
プライド、と呼べるほどのものが 私にあるとは 思えませんが、
“仏教徒である”ということに、誇りを持ちたいと 
念じています。