小田原に籠城した北条氏を
数十万に膨れ上がった豊臣方が攻める。
北条方である忍城(現在の埼玉県行田市)を
成田氏は 1000人で治めている。
城主は 手勢500を率いて 小田原(の籠城の加勢)に向かい、
城に残った者、500。
(算数が簡単でいい!)
そこを 石田三成が攻める。
勝敗は明らかであるように見える。

田植えの際の田楽踊り(小学館『のぼうの城』p72)
三成が 地元の百姓に尋ねる。
「なにゆえ 百姓が 成田長親を見知っておる?」
「へえ、のぼう様は 野良仕事とあれば
必ず手伝いに来られますゆえ。」
「のぼう様?」
「いや、長親(ながちか)様のことにござりまする。」
「なぜ のぼう様じゃ?」
「いや、それは・・・・・・・・・、
でくの坊ゆえ、皆 のぼう様 のぼう様と
お呼びいたしてござりまする。」
「そう呼ばれておると知れば、
成田長親めは 激怒するであろうな。」
「いや、面と向かって呼びまするが、一向に。」 (下巻p71~73)
忍城の城代となった 成田長親は
「のぼう」とか「のぼう様」と呼ばれていたのだった。
p74
城主が 秀吉に内通しており、
三成に すんなりと城を明け渡す予定だったが
図らずも戦となり、籠城準備には 百姓も駆り出される。
家老たちが 百姓たちを 駆り出しにゆく。
百姓にだって 勝つ見込みはないことがわかっている。
その上、戦はないはず、と 百姓たちも 皆 知っていたので、
田植えまで初めていたのだった。
当然、怒り出す。
「ならば 何様が 戦をしようなどと 仰せになられた?」
「長親じゃ。」
そこで百姓たちは「わっ」と爆笑(爆)、
「しょうがねえなあ、あの仁も。」
「のぼう様が 戦するってえならよう、
我ら百姓が 助けてやんなきゃ どうしようもあんめえよ。
なあ皆。」

丹波:「皆、城代に誓え。」
靱負:「何をです?」
丹波:「これより 長親を城代と仰ぎ、我ら軍勢の総大将とすることじゃ。」
靱負:「いいですよ。」
丹波:「いいのか? もう少し 考えた方がいいんじゃないのか?」
和泉:「おめえが言ったんじゃねえか。 長親の下知なら 俺は聴くぜ。」
丹波:「似合わぬことを申す。 なぜだ?」
和泉:「下知しそうもねえからよ。」
p54
『忍城戦記』によると、
士分百姓らを合わせた忍城の籠城兵の総計は、
3740人だったという。
が、女・子供まで入城しており、
戦力となる16歳以上の男は2627人。(上巻p215)
対する三成方は 館林城の降兵を合わせて 23000だった。
同じく、p54
のぼう様こと 長親は みんなに謝る。
「ごめん。戦にしてしもうた。」(上巻p216)
p94
p92
荒川と利根川とにはさまれた 湿地に浮かぶ城。
その立地の為、珍しくも面白い? 闘いが繰り広げられる。
敗北を喫した三成方は
利根川と荒川とを結ぶ 長大な堤を築いて 水攻めに出る。
(この時の堤は、今も<石田堤>として 残っているという。)

坂東武者としての誇りを失わず、懸命に戦った、
その心意気や、良し。
それを発揮する場が 戦でしかなかったのは 残念だけれども。
そういう歴史的な背景を持っているから、
高度成長期の日本のビジネスマンは
過労死をもいとわず、闘いに明け暮れたのか?

義を重んじ、筋の通った 百姓をも含む成田家の家中の者たちに
心地よさ・小気味よさを感じる。
メタメタな内閣を見慣れているためか?
現代日本人が忘れてしまったものを
彼らが持っているからなのか?
爽快感を覚えるのは
歴然とした勢力にもかかわらず 実際に 太閤に一矢を報いた
唯一の攻防戦だったからなのか?
大軍を前にしても 彼らが怯まなかったからか?
彼らの時代の すべてが良かったわけではないし
軟弱、草食系、などと呼ばれる 現代の若者たちを
否定するつもりもないのだが
彼らに 嫉妬に似た感情を覚えたのは 確かだ。

マンガの視覚効果と合わせて 堪能した読書体験だった。
今さらながら、の 完。(どうも。)(汗)
数十万に膨れ上がった豊臣方が攻める。
北条方である忍城(現在の埼玉県行田市)を
成田氏は 1000人で治めている。
城主は 手勢500を率いて 小田原(の籠城の加勢)に向かい、
城に残った者、500。
(算数が簡単でいい!)
そこを 石田三成が攻める。
勝敗は明らかであるように見える。

田植えの際の田楽踊り(小学館『のぼうの城』p72)
三成が 地元の百姓に尋ねる。
「なにゆえ 百姓が 成田長親を見知っておる?」
「へえ、のぼう様は 野良仕事とあれば
必ず手伝いに来られますゆえ。」
「のぼう様?」
「いや、長親(ながちか)様のことにござりまする。」
「なぜ のぼう様じゃ?」
「いや、それは・・・・・・・・・、
でくの坊ゆえ、皆 のぼう様 のぼう様と
お呼びいたしてござりまする。」
「そう呼ばれておると知れば、
成田長親めは 激怒するであろうな。」
「いや、面と向かって呼びまするが、一向に。」 (下巻p71~73)
忍城の城代となった 成田長親は
「のぼう」とか「のぼう様」と呼ばれていたのだった。

城主が 秀吉に内通しており、
三成に すんなりと城を明け渡す予定だったが
図らずも戦となり、籠城準備には 百姓も駆り出される。
家老たちが 百姓たちを 駆り出しにゆく。
百姓にだって 勝つ見込みはないことがわかっている。
その上、戦はないはず、と 百姓たちも 皆 知っていたので、
田植えまで初めていたのだった。
当然、怒り出す。
「ならば 何様が 戦をしようなどと 仰せになられた?」
「長親じゃ。」
そこで百姓たちは「わっ」と爆笑(爆)、
「しょうがねえなあ、あの仁も。」
「のぼう様が 戦するってえならよう、
我ら百姓が 助けてやんなきゃ どうしようもあんめえよ。
なあ皆。」

丹波:「皆、城代に誓え。」
靱負:「何をです?」
丹波:「これより 長親を城代と仰ぎ、我ら軍勢の総大将とすることじゃ。」
靱負:「いいですよ。」
丹波:「いいのか? もう少し 考えた方がいいんじゃないのか?」
和泉:「おめえが言ったんじゃねえか。 長親の下知なら 俺は聴くぜ。」
丹波:「似合わぬことを申す。 なぜだ?」
和泉:「下知しそうもねえからよ。」

『忍城戦記』によると、
士分百姓らを合わせた忍城の籠城兵の総計は、
3740人だったという。
が、女・子供まで入城しており、
戦力となる16歳以上の男は2627人。(上巻p215)
対する三成方は 館林城の降兵を合わせて 23000だった。

のぼう様こと 長親は みんなに謝る。
「ごめん。戦にしてしもうた。」(上巻p216)


荒川と利根川とにはさまれた 湿地に浮かぶ城。
その立地の為、珍しくも面白い? 闘いが繰り広げられる。
敗北を喫した三成方は
利根川と荒川とを結ぶ 長大な堤を築いて 水攻めに出る。
(この時の堤は、今も<石田堤>として 残っているという。)

坂東武者としての誇りを失わず、懸命に戦った、
その心意気や、良し。
それを発揮する場が 戦でしかなかったのは 残念だけれども。
そういう歴史的な背景を持っているから、
高度成長期の日本のビジネスマンは
過労死をもいとわず、闘いに明け暮れたのか?

義を重んじ、筋の通った 百姓をも含む成田家の家中の者たちに
心地よさ・小気味よさを感じる。
メタメタな内閣を見慣れているためか?
現代日本人が忘れてしまったものを
彼らが持っているからなのか?
爽快感を覚えるのは
歴然とした勢力にもかかわらず 実際に 太閤に一矢を報いた
唯一の攻防戦だったからなのか?
大軍を前にしても 彼らが怯まなかったからか?
彼らの時代の すべてが良かったわけではないし
軟弱、草食系、などと呼ばれる 現代の若者たちを
否定するつもりもないのだが
彼らに 嫉妬に似た感情を覚えたのは 確かだ。

マンガの視覚効果と合わせて 堪能した読書体験だった。
今さらながら、の 完。(どうも。)(汗)