「アレモン」というのは、人の名前。
誰か、わかる人は? 挙手を!(笑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/0b/ef8e74897c15d271c5101cb09e193366.jpg)
初夏に咲いた三つ葉の花。
カルロス・アドリアーノ・デ・ジョス・ソアレス
(→ウィキペディアへ)
京都パープルサンガと 横浜FCにいて、
それぞれのJ1復帰に力を尽くしたサッカープレイヤーだ。
それほど長く 日本でプレーしていたわけではない。
なのに その名前が記憶に残っているのは、
しかも、「アレモ~ン!」という 絶叫で耳に残っているというのは、
かなり活躍した証。
このアレモン、もう亡くなっている。
新聞のスミに 小さな記事を見つけたときは
けっこうショックだった。
まだ23歳。
突然の、交通事故死。
2007年、7月7日のことだった。
あれから1年も経っているが
新聞の小さな切抜きを 私は棄てられないでいる。
何故こんなにショックだったのか?
たぶん それは 多少なりとも知った人の死が、
≪突然≫だったからだ。
亡くなったのが故郷のブラジルだったというのが
私にとっての せめてもの救いだった。
父の死が突然だったから
それ以降 突然の死に対して 感受性が強くなっている気がする。
だから 縁あった人や 大勢の人の突然の死などの知らせに接すると
考えないように、感じないように、
自ら 神経を鈍らせ、
感受性に膜を張っているようなところがある。
のんびりやの私。
死は ゆっくりと迎えたい。
だから がんという病気は
私にとって それほど嫌なものではない。
誰か、わかる人は? 挙手を!(笑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/0b/ef8e74897c15d271c5101cb09e193366.jpg)
初夏に咲いた三つ葉の花。
カルロス・アドリアーノ・デ・ジョス・ソアレス
(→ウィキペディアへ)
京都パープルサンガと 横浜FCにいて、
それぞれのJ1復帰に力を尽くしたサッカープレイヤーだ。
それほど長く 日本でプレーしていたわけではない。
なのに その名前が記憶に残っているのは、
しかも、「アレモ~ン!」という 絶叫で耳に残っているというのは、
かなり活躍した証。
このアレモン、もう亡くなっている。
新聞のスミに 小さな記事を見つけたときは
けっこうショックだった。
まだ23歳。
突然の、交通事故死。
2007年、7月7日のことだった。
あれから1年も経っているが
新聞の小さな切抜きを 私は棄てられないでいる。
何故こんなにショックだったのか?
たぶん それは 多少なりとも知った人の死が、
≪突然≫だったからだ。
亡くなったのが故郷のブラジルだったというのが
私にとっての せめてもの救いだった。
父の死が突然だったから
それ以降 突然の死に対して 感受性が強くなっている気がする。
だから 縁あった人や 大勢の人の突然の死などの知らせに接すると
考えないように、感じないように、
自ら 神経を鈍らせ、
感受性に膜を張っているようなところがある。
のんびりやの私。
死は ゆっくりと迎えたい。
だから がんという病気は
私にとって それほど嫌なものではない。
ジョルジュさんは大学生のころでしたっけお父様をなくされているんでしたよね。若い頃はそれほど話をしないというか、する時間もなくまだまだ別れなんて先だと言う思いがある中で逝かれてしまうと辛い思いが残りますよね。
私は結構遅くまで父がいてくれたので、晩年は父と良く話をしていましたが、それでも思わぬ突然の別れに辛く、暫くは思い出して涙が出ることが多かったけど、時間とは良くしたもので死を受け入れたくはないけど仕方ないと諦められるようになりました。
生まれた時から死へのカウントダウンは始まっていると言われています。やがてはだれにも来るものですが、慌てないでゆっくり逝きましょう。
短い滞日期間の中で けっこう活躍した選手なんですよ。。。おそらく(笑)。
受け入れというよりも あきらめ、ですね、おっしゃるように。
「しょうがないな」ということばが 何度も何度も 口にはでなくとも 頭の中でまわっていましたっけ。
父親となんて、電話口で相対しても 何も話すことがないです(笑)。
でも 亡くなってから、想い出がどんどん、どんどん あふれ出てくる。。
父が亡くなったのは娘が小学1年生の時でした。
子ども達が 父の事を ほとんど、あるいは全く 覚えてくれていない、というのも寂しいことです。
そして 突然の別れというのは とても なんというか あきらめるのに時間がかかるものです。
そうですね、ゆっくり参りましょう(笑)。
私も二十歳のときに父親を亡くしています。最初の頃はやはりジョルジュさんや風さんのような気持ちでしたけど、その後、祖父母をはじめ知人やその関係者をずいぶんと見送っているうちに、死を受け入れることに寛容になったような気がします。
それでも、最近の無差別殺人や災害での死には、その話題を無意識のうちに避けていると気が付くとことがあります。おっしゃるように、自ら神経を鈍らせないと堪りませんものね。
父は この夏17回忌でしたから
私も もう それほど辛い気持ちにはならずに済んでいますが
「突然の死」と言うものに対しては バリアーを張っておかないと 苦しいことが多いのです。
そして なんだかこのところ そのバリアーが 大活躍しているみたいなのです。
辛いニュースが多いのです。
小さな、小さな、アレモンの死を告げる新聞の片隅の記事に いろいろなことを考えてしまいました。
京都ではさほどでなかった、ということは、
特に 横浜時代に得点したのでしょうね。
朝元気に出かけていったのに・・・・・
なんていうのは、耐えられないと思います。
一生、そういう思いだけは、しないで過ごしたい。
残された妻子、あるいは夫子は 私のところと同じくらい。(当然です、同級生だもの。)
どちらも心筋梗塞だったそうです。
それよりも事故や事件はやりきれない。いや、同じか?
すくなくとも とほさんの奥さま・お子さまたちには そんな哀しみのないように。
それから、憩室、なくしましょう(笑)。
先月の末に祖母がなくなり、通夜にいってきました。
98才。強く明るく生きた祖母を誇りに思い、慕う人が多いのが嬉しかったです。
地元の親戚には、かえって迷惑かけそうになったけれど、私なりに気持ちをつくして行動できたので悔いはなしです。
しかし、その後、水の事故やら知人のお身内の訃報やら、、、何ともし難い事ながら,とにかく耳に鋭く届きました。
たとえ年齢がいくつであっても、
「もう、これで、いい。」
と本人や家族が思える人は少ないのではないかと思います。
どんな時でも、全部「残念だったな」と思えます。
「耳に鋭く」・・・そうですね。 耳にも辛い情報ですね。
何ともできない事柄なんですけどね。
その時がきたら、せめて普通に、と思わないではありませんが
思い通りになるものでもないので 「おまかせ」でいくしかないですね。