馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

年末の買い物は100均の店¥330円。

2021-12-27 08:08:46 | 日記
12月26日(日)
16時トランス作業終えて、コンビニへ、喉飴を買いに出る。
100m程のケヤキ並木通路を通って表門へ向かう。
ケヤキ並木通路
道路は人流多し。
喉飴買ったが、凍傷の傷痕右耳右手が痺れる。
海岸までのウオーキングは止めて
ショッピングセンター内ぶらぶらしよう。
ショッピングセンター入口
館内入ると、ワンサカワンサカ レナウン状況。
年末の日曜日に気付く。
皆さん 金魚の回遊の如く、ゆっくりと互いをすれ違う。
マスクはしている。
ショッピングセンターストリート
若者が一人顎マスクだ。
コロナ感染率の減少は、様々な解説されているが
清潔な国民性であるからでしょう。
ショッピングセンターストリート
高齢者オジサン一人では、冷やかしで店内立ち寄る店は殆どない。
ショッピングストリート食品売り場
好日山荘という山用品専門店を覗く。
冬山衣類は、クオリティー上等、但し高い。
山靴は凍傷にはならない完璧な造り。

アイゼンを見てビックリカメラ!


これ刃物じゃん。
凶器になる。
50年前の鋳物のような鈍刃ではない。
かんじきも竹製から金属になった。

用具は良くなったからと言って
雪山を楽に登れることは出来ない。
心身の鍛錬と基礎訓練を養うことが第一義だ。
驕りは禁物。
身なりは立派な官僚は実践を積んでいないから
アベノマスクを作って国民の尊いお金を浪費した。
お年寄りが見て楽しいのは100均の店だ。
違和感なく入れる。
そうして買いました。
寝床の置いていたソーラー懐中電灯が紛失。
見つからない。
買った。





それから、簡単コンセント外し。


簡単コンセント外し。  

スマホ充電に良いぞ。
キッチンでも使えるぞ。
330円の買い物終えてセンターを出た。

夕闇に車列のライトが並ぶ。
徒歩3分で帰宅。
夜 再びトランス作業
年末までに500個完成させる。

ショッピングセンター前道路

八神 純子 Junko Yagami - 黄昏のBay City (Live 1984)

過不足なく生きるのは難しい。

2021-12-26 09:44:47 | 日記
12月25日(土)
明け方 雨と海風が舞う
10時 
陽射しが注ぎだす。
年内最後のハンダ付け開始。
トランスハンダ付け
午後 北向き監獄部屋で銅線巻き。
ボビン(糸巻)の銅線を見詰める。
残り僅かだ。
ディスプレイ表示を注視。
5299回巻きつけねばならない。
ぼやけて明瞭に表示されない。
わあわあ~⁉
5288巻で銅線切れ。
何てことだ”
トランス作業 銅線5299回 巻けない。
一巻き5cmが足りない。
0.7㎜銅線26.440cmが無駄
廃棄です。



過不足なく上手に作業は回らない。


学生時代、1円不足で電車に乗れず
横浜駅から自宅まで14駅深夜の道歩いたな。
既に死語になったキセルもしなかった。
世の中 庶民は真面目に生きるが
政治家 大手企業は助成金を詐欺して金儲け。
金 中抜きする。




話は変わって
私は幼い頃から鼻汁ダラダラ。
ティッシュ箱を二つにカット。
経済性節約もあるが
使い勝手良く
場所取らず
超便利。
各部屋に置き
使い方いかようにも






プロのソプラノ歌手が歌う「喝采」歌/野々村彩乃 ピアノ/乾将万


54年前 昭和42年クリスマスイブ 立山から槍ヶ岳縦走に出発。

2021-12-25 07:40:41 | 日記

毎年12月24日 クリスマスイヴの晩は想い出ずる。
そうして、、ブログに毎年、心に刻む。
1967年 昭和42年12月24日
その日、石川さゆり 津軽海峡冬景色の歌はまだなかった。
上野発 夜行列車20時35分発急行黒部に乗車した。
富山に向かった。
54年前のことだ。
現在74歳。
私は逆境を生き延びた。
多くの辛い体験をくぐり抜けた。
波乱万丈壮絶な幾年月。
幸運もあったが、
厳冬期 立山から槍ヶ岳縦走の完遂は
生き抜く精神的原点 拠りどころであった。


ある医師の言葉
人生の長い旅路を歩むうちに
人々は様々な困難に直面します。
ある人は過去の辛い経験を生かして乗り越えることが
できるかもしれません。
一方でこれまで順風満帆の人生を送ってきた人は
「克服できない」と諦めてしまいがちです。
しかしどんな場合でも人は
絶望の向こうに希望を見て
再び歩み始めるものです。
どんな苦しいときでも一度立ち止まって
自分に向き合い
「今やるべきこと、やりたいこと、やれること」を考えれば
やがて解決の糸口が見えてくるものです。
これが多くの癌患者から学んだことの一つです。


いつかはやって来る別離。
人生には満足する完結はない。
全てが道半ばだ。


鈍重、愚か、手際が悪く
何事も人より遅く馬鹿にされたが
我慢、耐える事、
屈辱は決して忘れず
必ず見返すこと。
執念で生きてきた。




辛く苦しく、ギリギリ追い詰められても
あの山行を思い浮かべて耐えた。
あの時代、十分な装備食料もなかった
縦走記録は 山岳雑誌
「岳人」に3度掲載された。
ヒマラヤより困難とされる。
人生を生き抜くということは
平地を青信号で横切るのとは違う。
目の前に、悪魔が絶えず機会を窺っている。



再掲

昭和42年クリスマスイブ 立山から槍ヶ岳縦走に出発。

 2015-12-24 20:29:31

12月24日(木)クリスマスイブ

この年齢になると、クリスマスイブとは縁がとんとありません。

20代の頃も女の子とクリスマスイブを過ごすこともなく

キリスト教系の学校だったが、敬虔なクリスチャンでもなく

キャンパスラウンジでクリスマスダンスパーティーも開かれたが

誘うべき彼女もいなかった。

 

書棚から

昭和45年1月発行の山岳月刊誌

岳人を引っ張りだした。

 

 

黄ばんだ表紙に 特集「積雪期縦走」の見出し。

 

大学体育会山岳部の記録が掲載された。

あの日の暗い思い出を見つめた

クリスマスイブの想い出に浸る。

 

今から48年前1967年 昭和42年12月24日

上野駅 20時35分発急行黒部に乗車した。

恐怖の厳冬積雪期 縦走の始まりだった。

サポート無しで立山から槍ヶ岳までの縦走。

4年生4名3年生2名2年生3名1年生2名。

11名の隊列。

過去にこのコースでの長距離縦走の記録は無かった。

私は1年部員

1年部員は8人に入部したが

この山行に恐れをなして退部する者、拒否する者がいて

1年生は二人だけとなった。

下山後、1年部員が二人だけだったのは

足手まといにならず遭難への危険が回避されたと思った。

富山駅から富山地鉄に乗り千寿ケ原からケーブルをアイゼンで登り

美女平に着いた。

ここから、白一色の世界を彷徨うことになった。

弥陀ヶ原の雪原を40キロのリュックを背負い

ラッセルして豪雪 猛吹雪、視界ゼロでの正しく雪中行軍で

6日間かけて室堂に到着。

12月31日 立山アタック。

見上げる急峻な氷の峰

アイゼンが食い込まない堅氷

氷を油で塗装したような40度の斜面を

ピッケルとアイゼンで3点確保しながら登攀。

立山下山中 私の眼の前で、2年生が烈風でよろけてスリップ

下で止めようとした二人も巻き込み滑落した。

私は恐怖の叫び声と泣き声を発した。

幸い岩に3人共激突して制止。

捻挫の状態のまま縦走を続行。

大晦日から 吹雪で動けず

寒さと恐怖で眠れずツエルトで紅白歌合戦を聞く。

 

 

一乗越し、五色小屋、スゴ乗越を走破して

翌年、1月6日薬師岳山頂に立つ。

当時4年前に薬師岳で愛知大学山岳部が

遭難して全部員13名が死亡した。

日本山岳登山史上最悪の遭難死だった。

 

幕営した時の温度はマイナス18度

 

烈風での体感温度はマイナス36度になる。

1月12日双六岳の小屋に入る。

その日から猛吹雪が続き、一歩小屋を出ると吹き飛ばされる状況。

 

6日間停滞する。

18日が最終帰京日だったが、トランシーバーでの応答も出来ず

伝令も出せなかった。

1月19日 午前2時 星空だ。

風も止んでいた。

 

主将が「良し 行ぞう」

極度の緊張はマイナス18度の体感も感じなくなっていた。

紺青の空に槍ヶ岳の穂先は雪も寄せ付けず

凛として仁王立ちしていた。

 

青氷壁にアイゼンを食い込ませながら登攀するが

疲労でピッチはあがらない。

 

槍の肩に11時40分着く。

槍沢はデブリの海だ。

 

 

雪崩発生を防ぐため、2年生を先頭に、4メートル間隔で

声を出さず、静かに駆け下る。

 

疲労と栄養失調と凍傷で

顔面はただれ、目は飛び出していた。

先頭でのラッセル交代も5m程で交代。

17時半 横尾避難小屋着。

ここから2名の伝令を上高地に出すが

疲労のため途中でビバーク。

 

1月20日 吹雪のない雪道を

気力だけでラッセル。

誰もが無言。

釜トンネル手前で登山者が数名登って来る。

 

目の前に現れたのは、OBの捜索隊。

OBから「おい、お母さんが心配しているぞ」

私は、堪えきれずに声を出して泣いた。

 

1月21日 中の湯に宿泊。

頭上に焼岳の煙を眺めながら露天風呂に浸かった。

22日 帰京。

学長先生 顧問教授 OB関係者

新聞記者 TV局報道部が新宿駅で出迎えた。

 

大学と個人宅に報道関係の電話が入ったのを

後で聞いたのだ。

帰京日が私の誕生日だった。

30日間の行程は未だ破られていない。

 

現在のような冬山登山装備もなく

羽毛寝袋、羽毛服ではない

綿入れのジャンバー

テトロンの防風衣

 

間もなく 半世紀

セピア色になった写真を今宵

当時のクリスマスイブに想いを馳せる。

三途の川を渡った先輩達もいる。

1年部員で現在も在籍は私だけ。

転落死、病死、退学、退部で

一人になってしまった。

 

昭和43年 3月 4年生卒業写真 部室にて
当時の4年生 二人物故
同期の一年生 二人物故

粗雑なパソコンデスク上の
山で逝った
二人に
毎朝、毎晩 挨拶する。

山岳部長 物故
76年の歴史ある山岳部は部員がいなくなり廃部となった。


 

 


 いつかある日  

 

 

 

 

 


ディズニー舞浜駅で息子と正午待ち合わせ。

2021-12-24 09:01:07 | 日記
12月23日(木)
正午に京葉線舞浜駅で息子と待ち合わせ。
快速電車が直ぐに来たので乗る。
車内は空いている。
海側ドア窓に立つ。
都心での通勤電車では海を眺められる唯一の路線。
しかし雨風に弱く遅れで混乱が度々生じる。
だが満員電車にはならず明るい快適な風景を見れる。
スマホで動画を録る。
ぶれていますが
暫し 観海!
京葉線 海を臨む電車1

京葉線 海を臨む電車2

京葉線 海を臨む電車3

京葉線 海を臨む電車4

京葉線 海を臨む電車5

京葉線 海を臨む電車6
乗り合わせが良く
ドアツードアで舞浜駅に25分で到着。
待ち合わせ15分前に着く。
久しぶりのディズニーランド舞浜駅だ。
暫し、人間観察する。
オジサンが目付きキョロキョロさせるのは
怪しまれる。
クリスマス前日なので駅前広場は人は少ないが
短すぎる女子高生の制服は
冷たい海風をものともせず無敵だ。
制服に髪はネズミさんのヘアスタイル。
この場所では違和感がなく
少女がまもなく女性に脱皮する不思議な姿。
娘も高校時代、バイト禁止であったが
ディズニーランドでバイト。
大学生になると、昼間ディズニーシーでのバイトを
終えると夕方からはイクスピアリでファッション店でバイト

逞しき女である。
時折、小さなスーツケースを転がし
髪を馬の尻尾の如くなびかせ
パンツルックの女性が
足早にディズニーに向かう。
紛れもなくダンサーであろう。
娘もアイリッシュダンス公演の日は
同様の格好で足早に駅に向かう。


息子は正午ピッタリに駅前広場に現れた。
近くに住まいがある。
食事場所を選ぶ。
再び、新しきコロナが出現増加の気配。
イクスピアリに向かう。
10代の女の子には、高いであろう
焼肉店に入る。
昼間でも空いている。
焼肉店テーブルは大きく、換気扇が真ん中にあり
感染を防げる。
かなり前に娘のおごりで来たが
店内はリニューアル。
レッドでディスプレイ。





息子と緊急に会わなばならない訳は
会社に役員変更登記を法務省に届けなければならない。
数年に一度、義務があり
怠ると罰金で10万円以上が課せられる。
役所の金儲け利権である。
書類確認と実印等を預かる。


ネット通販の現況を訊ねる。

前年度12月売り上げの40%しかない」
「どうも、自粛ではなく、萎縮生活のようだ」
2年以上続く、コロナ禍は、人心に恐怖と
先が見えない不安で全ての面でためらい
積極的な行動判断が出来ない。
1時間程 話す。
昼間のビールとハイボール、焼肉は旨い。
息子はコップ一杯のビールを飲み
これからアマゾン倉庫に出荷準備をする。
引っ切り無しに楽天から出店要請があり
契約したが、経過とともに条件変更がある。
ようするに、出店者から、理屈をつけては
金を収奪する。
いっとき、楽天商品の二重価格販売が騒がれた。
日本人的経営思想がないようだ。


来年も好況とはなりそうにない。


午後3時帰宅、酔いでソファでごろ寝。




変圧器、トランスの製造、その他電子部品等



OEM商品・ノベルティ製作

アマゾンショップ





母 97歳 今年最後の面会。

2021-12-23 07:41:09 | 日記


10月9日に母の余命が尽きる連絡を受け
介護病院へ出かけた。
しかし、強い生命力が優り生き続けている。
介護病院での10分間の面会。(1)

12月22日(水)夕方、弟と桜上水事務所を車で
松濤の介護病院に向かった。
病院からは、延命措置はしないので
いつでも面会許可が下りた。
病院の駐車場には、一台の車も駐車無し。
受付にて念入りな身体検査と書類を記入。
人気のない3階の病室にが上がる。

ベッドに後ろ姿で横たわる。

ふくよかだったお袋は既に煮干しの如き。
口は開いたまま。
声をかけると目が微かに開く。
介護暮らし10年経過。
弟夫人が勤務した大学病院に2年
副院長兼看護部長であったので
特別に長くいられたのだが。
あくまでも病院であるので
横浜実家近くの温泉付き施設に移ったが
2カ月で退去
別の大学病院付設に移るが
交通不便なので、渋谷松濤の介護病院移る。
10年に及ぶ介護生活。
その間 胃瘻を施し
食事は全く無し。
人気の気配なく廊下を進む。

弟と私は、無言で10分以上
お袋の微かな息遣いと
ディスプレイ表示を見守る。

97歳 
身体に病はない。

20分程で立ち上がり
看護師さんにお礼の挨拶をする。

駐車場で弟は車で横浜へ。
私は、松濤の邸宅街の道は木枯らし舞う
冷たい道なので避けた。
道玄坂を下る。

右折して小さなホテルのカタカナネーミングが
煌く快楽坂を上がり
渋谷快楽の坂道
左折して
ネオン瞬く通りの坂道を渋谷駅に向かう。
道玄坂1
やはりコロナ禍で人流は少ない。
道玄坂2
徐々に人通りが増える。
道玄坂3
渋谷駅に上がるエスカレーターは順列。
渋谷駅階段
銀座線に向かう2階のガラス面から
スクランブル交差点を見下ろす。
いったい、何処から来て何処に向かうのだろう。
渋谷スクランブル交差点
小さな水槽にいっぱい放り込まれた金魚は
互いに衝突も喧嘩もせず行き交う。
今 ガラス面から眺める
色とりどりの装いは一人として同じではない。
平穏に通り過ぎて行く。
死ぬことに失敗はない。
だが死に方は選択できない。

IL DIVO - Amazing Grace (Live Video)