人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

疲れている人、試練にあっている人の休息所

2011年11月15日 | 聖書

 マタイによる福音書11:28-30

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 色々な試練にあわれて、疲れ、重荷を負ってられる方にぜひすすめたい。

イエスのもとに行こう。

イエスに学ぼう。

イエスの軛を負おう。そうすれば安らぎが与えられます。

 軛(くびき)とは、辞書では「牛馬の頸の後ろにかける横木で自由を束縛するもの」という意味ですがイエスのくびきは束縛するものではなく、軽くて負いやすく、自由なものです。


百倍の実を結んだ

2011年11月14日 | 畑仕事

 

 

我が畑で収穫したピーナツ。わずか一粒のピーナツからこれだけたくさん(一粒でひと束)のものができて感動。殻を割ると中からふっくらしたピーナツ。乾燥させて少しづつ食べている。ただし他にも種をまいたが収穫できたのはわずか。イエスのたとえ話を思い出す。実を結ぶ良い地でありたい。

  ルカによる福音書8:5-8 11-15

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。・・・・・・・「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちのことである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。


キリスト教を信ずるとは

2011年11月13日 | お気に入りの言葉
 キリスト教を信ずるとは、キリストによって神に帰ることである。そうして神に帰ることができて、われらが初めて自由に善をなすことができるようになるのである。神、キリスト、善行、これに達するものがキリスト教の目的である。その他はすべて余計である。洗礼!受けてもよし、受けずともよし。教会!入ってもよし、入らずともよし。法王、監督、牧師、執事…彼らもしキリスト教を説き、その栄光を現す者ならば、彼らに聞け。されども、もし、しからずんば、かれらに聞かざれ。彼らも同じ人である。彼らは罪をゆるすの力を持たない。彼らがその専有権として手に触れる儀式は、そのものそれ自身において何の効力をも持たないものである。われらは彼らに欺かれざるべし。わららはキリストに行きて、かれらにゆかじ。内村鑑三著 続一日一生
 
 教会!入ってもよし、入らずともよし。教会に行ってるから救われるわけではない。反対に教会に行かなく救われる人はあると思う。イエスを救い主と信ずるだけで救われる。

2011年11月12日 | 日記

 今日は、孫(6番目)の1歳の誕生日祝いに行ってきた。餅を背負い、そろばん、お金、米のどれを取るかのいつもながらの儀式である。孫には将来、どんな人になって貰いたいかは、両親の教育によるところが大きいと思う。その際に問題となるのは両親の価値観である。一流の大学、企業に価値があると思えば、それを目指した教育がなされる。両親には本当の価値観をもってもらいたい。私なら、とにかく健康で福音を持ってもらいたい。

しかし孫は可愛いものである。なぜ可愛いか、世の人は子と違って責任がないから等と言うが、その意味はよく分からない。私は、大事な子(可愛い子)の、そのまた大事な子であるから可愛くないわけがないと思う。また子供の時には感じなかったが孫には命のつながりをなぜか強く感じる(私がいなかったら孫もいなかったという当然のことだが)。いつも、最初に祈るのは孫のことである。


人を変える祈り

2011年11月11日 | お気に入りの言葉

 人を説得しようとすれば、あなたはまず彼らに物質的「利益」を示すか(これはよくない 手口である)、それとも彼らの心を惹きつけるかでなくてはならない。これをなしとげる 最上の道は、神に聞きいれられる祈りによることである。なぜなら、神はどんな人の心をも、その時どきに、以前とはまるで別物に変えることができるからだ。しかもこの心の変化は不思議なほど突然で、しかも決定的なことがある。いずれにせよ、あなたは ある人のため真剣に、くり返し祈ることもしないで、その人に絶望することがあっては ならない。 ヒルティ著 『眠られぬ夜のために』

 フィリピの信徒への手紙2:13

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、わざを行わせてくださるからです。

 人を変える或いは説得するのは困難である。人それぞれ、生まれ、性格、考え方、人生観等が違うからである。自分の説得力等に頼れば、絶望するより他はない。また下手に意見などしようものなら憎しみをかったりする場合もある(よく子供が親に暴力をふるい新聞ざたになったりするのはこのケースだと思う)祈りの力に頼るほかない。


水泳

2011年11月10日 | 趣味

 今日はプールで泳いできた。水泳は10年前から始めた。定年までは、仕事帰りに皆生の温水プールに4回/週程度通い、現在は倉吉市営温水プールに1回/週程度、通っている。クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライとメドレーで合計40分程度続けて泳ぐ。10年間、4回/週と相当泳いだことになるが、いっこうに上手にならない。教えてもらわずに自己流では上達しない。もっとも大会に出るわけでもないのでこれで良いと思っている。

 今も、一応健康でいられるのは、一つはこの水泳のお陰であると思っている。水泳の効用としては、色々あるがストレス解消が一番である。水泳をした後の気分は最高で、実際に泳いだ人にしか分からない。無心に体を動かすことにより頭脳にも良い効果があるようだ(頭と体は一体で体を動かすことにより頭にも良い効果があると言われている)、また夜もよく眠れる。他にも全身運動等、良いことがいっぱいある。死ぬまで続けていきたいと思う。

 しかし倉吉市営温水プールはリラクゼーションプール(ジェット気泡によるマツサージ効果のある設備)等がありすばらしい施設であるが、平日など、利用している人はわずかである。すばらしいイエスの福音と同じで利用?している人が少なく残念に思う。


雲ひとつない日が続いたら

2011年11月09日 | 聖書

ヘブル人への手紙12:11

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

「人生においては最も耐え難いことは、世の経験をつんだ多くの人々の言によると、
悪天候が続くことではなく、雲ひとつない日が続くことである」ヒルティ著幸福論

私のこれまでの人生を振り返ってみると、雲ひとつない日は長くは続かず、色々な日があった。なぜこんなに雨の日が度々あるのかと思ったりした。しかしそれがかえって良かったのではないかと今頃になって思う。悩みのない晴れの日ばかりだとバカになってしまう。色々な日があって人間的にも成長させられ、また人生も味わい深いものになっているのかも知れない。


目が開け裸であることを知る

2011年11月08日 | 聖書

    創世記3:4-7

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

 禁断の木(善悪の知識の木)の実を食べた途端に自分たちが裸であることが分かったとある。不思議な物語であると思う。これとは反対に、私にも5歳の女子の孫がいるが裸でいてもまったく恥ずかしくないようだ。私とこの孫とを比較すると孫の方が幸せそうに見える。このあたりにこの物語の答えがあるような気がする。


むなしい思いを憎む

2011年11月07日 | 聖書

詩篇119:13-英訳

わたしはむなしい思いを憎みます。しかしあなたのおきてを愛します。

「あなたは同時に二つの事を考えることはできません。・・・・・・・・・良い思いをあなたの内に入れなさい。そうすれば悪い思いは出ていかざるを得ないのです。この事を習慣として実行し続けなさい。そうすれば、神の助けにより、あなたは心を新たにされ、徐々に、しかし確実に、変えられることでしょう」L・B・カウマン著 山頂めざして

空しいこと、くだらないことをよく考えているので反省。


永遠の命に至る食べ物

2011年11月06日 | 聖書

ヨハネによる福音書6:27-28  17:3

朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである。そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。
 イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のみわざである」。
永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたにつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。

永遠の命とは、イエス・キリストとを知ること。
永遠の命に至る朽ちない食物のために働くということは、神のわざを行うということ。神のわざとは、イエス・キリストを信じること。あえてわざをする必要はない。信じればわざは与えられる。


秋の京都、大阪

2011年11月05日 | 旅行

 所用があり、ついでに京都、大阪を旅行してきました。11/2日は定期観光バスの半日コースで金閣寺、清水寺、銀閣寺を見学。連休前ではあったが清水寺は、修学旅行生等で満杯。駐車場の入口で30分程度渋滞した。清水の舞台の柱の太さに感動。金閣寺は金色であり、銀閣寺は銀色と思いきや渋い木の色。銀閣寺の方が人も少なく庭もワビがあり、見ごたえがあった、ユックリ見学したかったが時間がなかった。どこも時間が限られており見学は40分程度で忙しかった。観光バスでは文句も言えない。紅葉にはまだ早く、見ごろは11月下旬になるとのこと。11/4日は大阪の御堂筋をウォーキング、銀杏並木もまだ青々としていた。道頓堀、心斎橋などをブラブラ。よく歩いた、疲れた旅でした。


人と蛇

2011年11月01日 | 聖書

創世記2:16-17・・・・3:14-19

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる野の草を食べようとするお前に。 お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

私は蛇が大嫌いである。なぜこれほどまでに蛇嫌いなのか、この創世記の記事を思い出しては納得している。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く」神様が蛇と人との間に敵意を置かれたから?・・・・・・・   しかしたまに蛇が好きな人、なんとも思わない人がいるから不思議。

またどうしてこれほど草が生えるのか?「土は茨とあざみを生えいでさせる」、どうして額に汗して働かなければならぬか?お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまでエバが蛇にだまされなったらこれほど苦労もせずにすんだのにと、時々思う。