娘一家が、近くに引っ越して来てから、
孫(一年生と5歳の二人の娘)を迎えに行っている。
迎えに行くと色々と、かってなことを言っている。
楽しく遊んでいるときは、迎えに来るのが早すぎるとか、
駐車場まで遠いとか。注文が多い。
最後はどちらが車の助手席に乗るかで喧嘩。
しかたなく、二人とも助手席に乗せて帰って来る。
荒野の泉 カウマン夫人著より
神は、天国へ旅をしている私たちに、徐々に深いところを経験させて下さるように思われます。
最初、試みの水の深さは、くるぶしまでです。
それから膝までになり、やがて腰までになり、泳げるようになるのです。
くるぶしまでの人には、試みを乗り越えて、泳ぐことはできません。
主が私たちの試みを加減して下さるとは、何と恵み深いことでしょう。
試みはどんなに厳しくても、すべては善をもたらすのです。
W・M・ワーズワース
昨年の暮れから長風呂(1時間)に浸かっている。
読書をしながら、汗をかきながら、サウナ感覚で。
体が芯からあたたまり、よく眠れる。
ゆっくりと風呂に浸かれ感謝。
最近は、囲碁等の趣味に夢中で、畑仕事をしてない。
気候が悪く、寒いせいでもある。
昨年暮れに植えたパセリ、レタスはさっぱり、白菜、ブロッコリーが少しずつ成長しているだけ。
生ゴミを畑に捨てに行ったついでに、そこに咲いていた、水仙とサザンカを取って帰る。
それを家内が水仙の匂いが良いからと花瓶に。
マザー・テレサ 日々のことばより
自分の家庭の外で人々にほほえむことは
たやすいことです。
あまりよく知らない人をお世話することは、
実はとても易しいことなのです。
あなたの家の中で毎日会っている家族を、
思いやりをもって、優しく、ほほえみを忘れずに
愛し続けることはとても難しいことです。
特に疲れていたり、イライラしていたり。
機嫌が悪かったりする時はなおさらです。
だれにでもそんな時があります。
そんな時こそ、苦しむ姿のうちに救い主が
私たちのところに来ておられるのです。
「苦難と病気と死は、私たちを神の絶対的な主権の前にひざまずかせるものである」
「苦しみは信仰の学校である」
P・トゥルニエ著 赤星進訳 『聖書と医学』より
私は、なぜ生まれるのか知らないで生まれた。
私は、どういうふうに生きていいのか知らないで生きてきた。
そして、なぜ死ぬのか、どういう風に死ねばいいのかも知らないで死んでいく。
ガッサンディ
今日は、琴浦町赤碕地区公民館祭に赤碕小学校へ行く。
今学期から孫が浦安小学校から転校して来た為。
息子が卒業して以来で14年ぶりとなる。
孫の作品を見て、うどんを食べる。
山頂めざして カウマン夫人著より
「なんという本だろう!
この世界のように広大であり、
創造の深淵に根ざし、天の紺碧の奥義の背後にまでそびえ立っている。
日の出と日の入り、約束と成就、生と死、
人間の全ドラマはことごとくこの書の中に収められている」
ハインリヒ・ハイネ
老人六歌仙
一、皺がよる。ほくろができる。腰屈(かが)む。頭ははげる。毛は白くなる。
二、手はふるい、足はよろつく、歯は抜ける、耳は聞こえず、目は疎くなる。
三、身に合うは、襟巻、杖、眼鏡、数珠と温石、尿瓶、孫の手。
四、くどくなる 気短になる 愚痴になる。思いつくこと、みな古うなる。
五、聴きたがる 死にともがなる(死にたくないと言う)、淋しがる、出しゃばりたがる、世話焼きたがる。
六、またしても、同じ話に、孫を誉める、達者自慢に、人を侮る。
仙和尚
身体的なものは、どうしょうもないが、精神的なものは、なんとかなる。