もし、私たちが罪でいっぱいなら、
神は私たちを満たすことはできません。
たとえ神でも、
すでにいっぱいのものを満たすことは
おできにならないからです。
ですから私たちは空っぽになるために
ゆるしが必要なのです。
そうすれば、神が私たちを
御自身で満たしてくださるでしょう。
マザー・テレサ 日々のことばより
もし、私たちが罪でいっぱいなら、
神は私たちを満たすことはできません。
たとえ神でも、
すでにいっぱいのものを満たすことは
おできにならないからです。
ですから私たちは空っぽになるために
ゆるしが必要なのです。
そうすれば、神が私たちを
御自身で満たしてくださるでしょう。
マザー・テレサ 日々のことばより
小さな花よ 雨降りです。
雨を喜びなさい
日が照りすぎるとあなたはしぼんでしまうから
でもまた日は輝きます
まっくろな雲がおおうていても
その向こうには青空が輝いています
やさしい心よあなたは疲れています
苦しみを忍びなさい
雨の中で花が育つように
悲しみの中にこそ美しい徳は育ちます
神様は見ておられ太陽もあるのだし
雲にもその役割をはたさせなさい
ルーシー・ラルコム
荒野の泉 カウマン夫人著より
今日は、孫の校内マラソンの応援に赤碕小学校へ。
二人の孫とも元気に走っていた。
息子が小学生の時に応援に来たことを思い出す。
15年前のこと。
息子から孫へと時は流れる。
『神を愛する者のためには、すべてのことが、
共に働いて善となることを、わたしたちは知っている。』
ロマ八ノ二十八「私訳」
一千の試みの中、五百だけが信者の益となるだけではなく
九百九十九、そのもう一つも益となるのである。
ジョージ・ミュラー
荒野の泉 カウマン夫人著より
今日は、夕食に招待され、家内と一緒にご馳走になる。
由良育英(現鳥取中央育英)の同級生が近所に越してきて、招待される。
うまい日本酒を久しぶりに飲む。
・・・・父なる神よ。わが主キリストが朝早くに起き出て、
あなたと親しくお交わりをなさったことを思い起こします。
どうか、私たちが祈りをもって毎日を始めるように覚えさせて下さい。
キリストと毎日十分間お交わりをして過ごすならば、----たとえそれが二分間であっても-----
その日一日を全く違ったものにするのです。
ヘンリー・ドラモント
日の出に向かって カウマン夫人著より
「私の手を取って、あなたのものとしてください。
この手を、あなたの愛のみ力で動く器として用いてください。」
フランシス・R・ハバガル
荒野の泉 カウマン夫人著より
幸せの帽子 坂村真民
すべての人が幸せを求めている
しかし幸せというものは
そうやすやすとやってくるものではない
時には不幸という帽子をかぶって
やってくる
だからみんな逃げてしまうが
実はそれが幸せの
正体だったりするのだ
私は小さいときから
不幸の帽子を
いくつもかぶせられたが
今から思えばそれがみんな
ありがたい幸せの帽子であった
それゆえ神仏のなさることは
決して怨んだりしてはならない
(坂村真民詩集 『地球に額をつけて』より)
不平を言ったり、つぶやくことは少しの益も与えません。
不平不満、つぶやきを楽しんでも三文の値打にもなりません。
神が天候を定め、雨を降らせられてたら、
あなたはなぜと言いますか。その理由は、雨が必要だからです。
緑の草原に夕立が必要であるように、神は私たちに苦痛の雨を降らせなさいます。
作者不明
荒野の泉 カウマン夫人著より
まず自分の家庭を、
安らぎと幸福と愛に包まれた場所に
することから始めましょう。
あなたの家族のひとりひとり、
そしてあなたの周りにいる人たちへの
あなたの愛を通して。
マザー・テレサ 日々のことばより
自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。Ⅰペテロ五7
自分の思いわずらいをいっさい神に投げつけなさい。(ギリシャ語)
思いわずらいを経験したことのない人がどこにいるでしょうか?
しかし、聖書ははっきりと思いわずらいを禁じており、
それに対する確実な治療法をも提示しています。
「主に信頼するものはさいわいである。彼は水路に根を伸ばした木のようだ。
暑さが来ても恐れず、その葉は青々としている。日照りの年にも不安を感じない」。
スパーレル
谷間の泉 カウマン夫人著より
しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない。マタイ一四27
全てつきまとう夜の影が、私を瞬く間に飲みつくそうと私の周りに押し寄せる時、
目に見えない恐れが私にささやき、その語りかけが耳に響く時、私は信仰と希望と祈りで自分自身を支えます。
唇の血の気を失わせるような疑いが
光は妄想で
暗やみの中では私の信仰は小さいと思わせる時
過ぎてゆく年は痛みと困難をもって
きわめて当然の報いを刈り取っていると思わせるような時
大水が私を取り囲み
主の甘い幻が目の見えない暗黒の中で
消えていき、主の言われた言葉が
失われてしまったように見える時
私はもう一度主の手が伸ばされるのを感じます
もう一度主は言われます。"私だ。恐れるな
信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか"
ルーシー・ギネス・クム
疑いは反逆者である。得ようと戦ったものを失わせてしまう。
日の出に向かって カウマン夫人著より