今年初めての25㌢の積雪で、ランプ様の散歩も中止し、一週間ほど根を詰めて取り組んでいた「60~70年代のラジオで聞いていた口ずさめるヒット曲」の youtube ⇒ MP3 ⇒ WAV ⇒ CD 製作」が8枚の CD になったので、勇んで「史記列伝(司馬遷)」を読んでいたが、残念ながら第一巻後半で中止した。
同時並行して読んでいた「戦場体験者(保坂正康)」「喜劇の手法~笑いのしくみを探る(喜志哲雄)」「自発的隷従論(エティエンス・ド・ラ・ボエシ)」の方が興味を惹くからである。
特にド・ラ・ボエシが17歳前後で書いた事に興味を持ったのだが、いかんせん、「圧制は支配される側の自発的な隷従によって永続する」という支配・被支配構造の本質を見抜いたとされる16世紀中ごろの彼の早熟な時代性は、俺にはなかなかすっきりと理解できるわけではない。
(現在の日本の⇒古来からの日本人のともいえる)古墳時代以降の全歴史の中の日本人が、支配者にたいし民衆が組織的に抵抗して体制を覆すことが一度も無かった国民性が、安倍晋三一味の嘘で塗りこめられた独裁政治をも許しているのではないかと疑っている。
覚醒せよ!
富裕階層に虐げられた隷属国民たちよ!
面白かったのは、「戦国策」「呉子」には無く、史記列伝にある武将・政治家の呉起の「船上説法」の教訓的記述部分が、遡ると戦乱相次ぐBC5世紀の呉の重臣だった伍子胥(伍員)・孫武(「孫子」のモデル)、そして戦国七雄の秦の法家である紀元前4世紀中ごろの商鞅(商鞅の変法)などに行きつくことである。。
呉起による「船上説法」は、現在の暗愚総理大臣安倍晋三に云うべき説諭である。
どんなに国の軍備を強め、武器弾薬を準備し、国境線を精鋭兵で固めても、支配者の「徳」が国民を引き付けていなければ戦争には勝てない、というモノだ。
しかし、この呉起はやがて重臣の妬みにより、自死に追い込まれるのだが、司馬遷は冷めた批評をしている。
一か月の9割ほどは、ライヴや練習に時間を取られ、残り時間の読書はこんな寄り道ばかりしていて、網野先生や宮城谷作品にはいつたどり着くのだろう。
「船上説法」
1.
兵書『呉子』でも準主役を務める魏の武侯。あるとき陪臣の大夫一同と西黄河に船で遊び、大黄河と流域の山岳、守るに易く攻めるに難い天然の防御力を褒め称えた。「みなの者見たまえ、この地形の険しさ、まことに堅固なものよ」
またしてもおそば近くの大夫王鍾が武侯の大はしゃぎに調子を合わせて語った。「いやまことに、これこそそのむかし我が晋国を強大にした原動力でしょうな、うまく活かせば大いに覇業王業の役に立つことでございましょう」
一方、呉起は同調するどころか、苦り切った表情を王鍾へ向けた。「我れらが主君のお言葉は国を危険にさらす不見識だったというのに、あなたもそれに話を合わせてしまう、そんなことでは危険性がとても重大なものになります」
2.
武侯は怒りの気色あらわに呉起へまくしたてた。「ならばそういうそなたの見識をお聴かせ願おう」
呉起はニヤリと微笑した。「まことに天険は国を保つにさえ足りません、ですから覇業王業を呼び込まないことはなおさらなのです。
むかしの事例をいくつか見てみましょう。
三苗のともがらの根拠地は左に彭蠡(湖)の波があり右に洞庭(湖)の水があり、汶山が南にあって衡山が北にあるという守り易さ、その天険に期待すればこそ政治はでたらめだったので聖王禹が放逐してしまいます(そして夏を興こした)。
かの夏王朝の最後となった桀王の国は天門の山陰を左にして天谿の山陽を右に、廬(水?)睪(水?)が北にあり伊水洛水が南に発するという要害、そうした天険の助けこそあったものの政治はあの通りのていたらくだったので聖王湯が討伐してしまいます(そして殷を興こした)。
かの殷王朝の最後となった紂王の国は峻厳な太行山の孟門の隘路を左にして漳水滏水を右に、前には大黄河を横たえ後ろには山を背負うという要害、そうした天険の助けこそあったものの政治はあの通りのザマだったので聖武王が討伐してしまいます(そして周代になった)。
そしていづれの事例でも君主自身が先頭に立ち臣下を後ろに従えるという陣立ての真っ向武力突撃で勝ちきって城を攻め落としているのです。城壁が低すぎたわけでも城を守る人民が少なすぎたわけでもなしに、それでいて天険に富むそれらの国を呑み込んでしまえた要因は政治がダメだったに他なりません。
以上の実例のとおり険阻な形勢は国を保つにさえ用の足りないものなのです、ましてや覇業王業に用が足りるでしょうか」
3.
武侯は深くうなった。「うむ、その通りと思う。私はなんというか、そなたの話に聖王とあったが、今の世に聖人の言葉を聞いた思いだ。この西河地方の政治はすべてそなたに託すとしよう」
● 追記( 2019.9 ~年末までのライヴの足跡)
* 09.01 1100 勝平三角沼
* 09.05 1101 セリオンリスタ
* 09.14 1102 「日吉八幡神社宵宮・川反フェス」
* 09.15 1103 「自然を愛する皆さんの集い」横手市
煉瓦屋
* 09.19 1104 セリオンリスタ
* 09.22 1105 「ハートハーブ」田沢湖
* 09.27 1106 「土崎ロータリークラブ」大和ホテル
* 10.06 1107 「ベコアイランド」
* 10.10 1108 「なかいち地ビールまつり」
* 10.11 1109 「なかいち地ビールまつり」
* 10.18 1110 セリオンリスタ
* 10.20 1111 セリオンリスタ
* 10.21 1112 セリオンリスタ
* 10.26 1113 「新屋ブランシュ」
* 10.27 1114 「ハートハーブ」新宿のMINAMI
* 11.05 1115 セリオンリスタ
* 11.11 1116 セリオンリスタ
* 11.24 1117 セリオンリスタ
* 12.07 1118 セリオンリスタ
* 12.15 1119 「直さんのカホン講座」横手市 煉瓦屋
* 12.18 1120 「阿部十全忘年会」松ヶ崎広場
* 12.23 1121 セリオンリスタ
* 12.29 1122 「きよかん生誕祭」
新潟八番町:手塚幸
新宿:ミナミ
本荘:阿部十全
* 12.31 1123 セリオンリスタ
同時並行して読んでいた「戦場体験者(保坂正康)」「喜劇の手法~笑いのしくみを探る(喜志哲雄)」「自発的隷従論(エティエンス・ド・ラ・ボエシ)」の方が興味を惹くからである。
特にド・ラ・ボエシが17歳前後で書いた事に興味を持ったのだが、いかんせん、「圧制は支配される側の自発的な隷従によって永続する」という支配・被支配構造の本質を見抜いたとされる16世紀中ごろの彼の早熟な時代性は、俺にはなかなかすっきりと理解できるわけではない。
(現在の日本の⇒古来からの日本人のともいえる)古墳時代以降の全歴史の中の日本人が、支配者にたいし民衆が組織的に抵抗して体制を覆すことが一度も無かった国民性が、安倍晋三一味の嘘で塗りこめられた独裁政治をも許しているのではないかと疑っている。
覚醒せよ!
富裕階層に虐げられた隷属国民たちよ!
面白かったのは、「戦国策」「呉子」には無く、史記列伝にある武将・政治家の呉起の「船上説法」の教訓的記述部分が、遡ると戦乱相次ぐBC5世紀の呉の重臣だった伍子胥(伍員)・孫武(「孫子」のモデル)、そして戦国七雄の秦の法家である紀元前4世紀中ごろの商鞅(商鞅の変法)などに行きつくことである。。
呉起による「船上説法」は、現在の暗愚総理大臣安倍晋三に云うべき説諭である。
どんなに国の軍備を強め、武器弾薬を準備し、国境線を精鋭兵で固めても、支配者の「徳」が国民を引き付けていなければ戦争には勝てない、というモノだ。
しかし、この呉起はやがて重臣の妬みにより、自死に追い込まれるのだが、司馬遷は冷めた批評をしている。
一か月の9割ほどは、ライヴや練習に時間を取られ、残り時間の読書はこんな寄り道ばかりしていて、網野先生や宮城谷作品にはいつたどり着くのだろう。
「船上説法」
1.
兵書『呉子』でも準主役を務める魏の武侯。あるとき陪臣の大夫一同と西黄河に船で遊び、大黄河と流域の山岳、守るに易く攻めるに難い天然の防御力を褒め称えた。「みなの者見たまえ、この地形の険しさ、まことに堅固なものよ」
またしてもおそば近くの大夫王鍾が武侯の大はしゃぎに調子を合わせて語った。「いやまことに、これこそそのむかし我が晋国を強大にした原動力でしょうな、うまく活かせば大いに覇業王業の役に立つことでございましょう」
一方、呉起は同調するどころか、苦り切った表情を王鍾へ向けた。「我れらが主君のお言葉は国を危険にさらす不見識だったというのに、あなたもそれに話を合わせてしまう、そんなことでは危険性がとても重大なものになります」
2.
武侯は怒りの気色あらわに呉起へまくしたてた。「ならばそういうそなたの見識をお聴かせ願おう」
呉起はニヤリと微笑した。「まことに天険は国を保つにさえ足りません、ですから覇業王業を呼び込まないことはなおさらなのです。
むかしの事例をいくつか見てみましょう。
三苗のともがらの根拠地は左に彭蠡(湖)の波があり右に洞庭(湖)の水があり、汶山が南にあって衡山が北にあるという守り易さ、その天険に期待すればこそ政治はでたらめだったので聖王禹が放逐してしまいます(そして夏を興こした)。
かの夏王朝の最後となった桀王の国は天門の山陰を左にして天谿の山陽を右に、廬(水?)睪(水?)が北にあり伊水洛水が南に発するという要害、そうした天険の助けこそあったものの政治はあの通りのていたらくだったので聖王湯が討伐してしまいます(そして殷を興こした)。
かの殷王朝の最後となった紂王の国は峻厳な太行山の孟門の隘路を左にして漳水滏水を右に、前には大黄河を横たえ後ろには山を背負うという要害、そうした天険の助けこそあったものの政治はあの通りのザマだったので聖武王が討伐してしまいます(そして周代になった)。
そしていづれの事例でも君主自身が先頭に立ち臣下を後ろに従えるという陣立ての真っ向武力突撃で勝ちきって城を攻め落としているのです。城壁が低すぎたわけでも城を守る人民が少なすぎたわけでもなしに、それでいて天険に富むそれらの国を呑み込んでしまえた要因は政治がダメだったに他なりません。
以上の実例のとおり険阻な形勢は国を保つにさえ用の足りないものなのです、ましてや覇業王業に用が足りるでしょうか」
3.
武侯は深くうなった。「うむ、その通りと思う。私はなんというか、そなたの話に聖王とあったが、今の世に聖人の言葉を聞いた思いだ。この西河地方の政治はすべてそなたに託すとしよう」
● 追記( 2019.9 ~年末までのライヴの足跡)
* 09.01 1100 勝平三角沼
* 09.05 1101 セリオンリスタ
* 09.14 1102 「日吉八幡神社宵宮・川反フェス」
* 09.15 1103 「自然を愛する皆さんの集い」横手市
煉瓦屋
* 09.19 1104 セリオンリスタ
* 09.22 1105 「ハートハーブ」田沢湖
* 09.27 1106 「土崎ロータリークラブ」大和ホテル
* 10.06 1107 「ベコアイランド」
* 10.10 1108 「なかいち地ビールまつり」
* 10.11 1109 「なかいち地ビールまつり」
* 10.18 1110 セリオンリスタ
* 10.20 1111 セリオンリスタ
* 10.21 1112 セリオンリスタ
* 10.26 1113 「新屋ブランシュ」
* 10.27 1114 「ハートハーブ」新宿のMINAMI
* 11.05 1115 セリオンリスタ
* 11.11 1116 セリオンリスタ
* 11.24 1117 セリオンリスタ
* 12.07 1118 セリオンリスタ
* 12.15 1119 「直さんのカホン講座」横手市 煉瓦屋
* 12.18 1120 「阿部十全忘年会」松ヶ崎広場
* 12.23 1121 セリオンリスタ
* 12.29 1122 「きよかん生誕祭」
新潟八番町:手塚幸
新宿:ミナミ
本荘:阿部十全
* 12.31 1123 セリオンリスタ
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