小嶋つうしん(号外)

(元)大分県議会議員 小嶋秀行の徒然ブログ

田植え

2011年06月22日 | 家族
 市内の中心部から少し郊外にでると水田に水が張られ田植えが準備されています。既に苗が植えつけられている所もあり、農家にとって今が一番忙しい時期だといえましょう。

 その昔、私も実家で稲作を手伝っていましたから、この時期になると懐かしく思い出します。同時に、この梅雨時期の田植えの辛かったことも蘇ってきます。

 小学校の頃(昭和30年代)、児童の保護者ほぼ全てが農家という土地柄でしたから、田植えの頃になると、小学校には2日から3日間の「農繁期休業」がありました。今では信じられないことですが、本当です。

 児童全てが田植えを手伝えるというわけではありませんが、低学年の頃は、父母が忙しいので「弟や妹の子守をしなさい」ということでしたね。

 小学校中学年になると、苗運びや田植えそのものを手伝うこともありました。丁度梅雨時期に田植えが集中しますから、雨の中、泥田で作業を続けていると、年少ですからとても疲れたうえ、泥に足を取られ転ぶこともしばしばで、ズボンがいつも泥だらけでした。

 高学年から中学生の頃になると、当時は、農作業が「牛」から7馬力程度の「耕運機」による作業が主流になり始めていましたから、父に代わりこの「耕運機」で田んぼを耕す作業を手伝うようになりました。既に、一家の重要な労働力だったわけです。

 中学生になると、その耕運機に荷台を連結して、一般道を走行することもありました。もちろん無免許です。父が会社勤めをしていましたから、母の負担を少しでも軽減するためにと、脱穀した籾袋を田んぼから倉庫まで運んだりしたものでした。

  今では時効ですが、中学生が耕運機を運転することは、道路交通法に違反しているにもかかわらず、2~3年生のころは頻繁に荷物を運んだりしていました。これが、担任の先生に「告げ口」され、とうとう「大きな拳骨」をもらうことになってしまいました。


 それからは、担任との約束もありましたから、無免許運転はしていません。それに「告げ口」された事も、母と一緒に感謝したことをよく覚えています。調子に乗ってそういう仕事の仕方をしていては、大変な事故を起こしていたかもしれませんから。


 もう40年以上も昔の事ですが、その頃の事は今でもクッキリと覚えています。というより、牧歌的なこの時代のことは特に忘れないのかもしれません。この時期、日に日に田植えが進む様子を見るにつけ、また、秋に黄金色に実った稲穂を見ると、あの頃を思い出して、ひと時ボーっとしてしまうことがあります。

ノン・アルコール

2011年06月15日 | 家族
 五月の連休前、内臓に異常なところがあるからということで、入院を余儀なくされることとなりました。入院自体は、二年ぶりでしかも約二週間と、私にとってはとても“長期”ということになりました。

 二年ぶりという意味は、二年前の(四回目)市議会議員選挙が終わって、やはり内臓の一部に異常があるからと、五日間ほど入院し手術しましたが、五日の入院で退院した二日後にはもう、ゴルフコンペに参加するという程度のことでした。

 大病を患っておられる方にすれば、長期とは何ヵ月もということだと思いますが、私にとって、約二週間の入院は“未経験”なだけに長期です。手術後の過ごし方など、全く経験がなかったので良く判らず、日々新聞購読と読書に明け暮れました。

 今では、術後の経過を見るということから、生活を少し変え“暴飲暴食”を慎んでいます。特に、飲酒についてはもう二ヶ月以上は“遠慮”しています。この数か月間は、宴会の場でも「ウーロン茶を下さい」と、割り切っています。

 最近は、「“ノンアルコール”ありますか」と聞くこともありますが、これがビール(の一種)かと、香りも味も、ビールとは全くほど遠い内容ですが、グラスに注ぐと少々の泡が立つことと、冷やしたものを飲むと多少喉をさすのが、“ビールらしい”だけですね。

 先日、仕事を終えて帰宅。食卓で遅めの食事を取ろうとしたとき、目の前に1カートンの箱入り缶ビールらしきものがある。「これなに?」「ウン?ノンアルコール」「誰が飲むの?」「お父さん」「ひとケースもか」「ウン!要らんの?」「こんなに飲めんだろうノンばかりを」。

 次の検査までは、「アルコールを絶とう」と決意して二か月余。以前、宴会の時に飲んだノンアルコールのことを話したからか、前述のような展開になるとは“想定外”。そんな会話を交わしたこともあってか、もう何日間も開封されず、冷蔵庫に入れてもいません。

 昨今、大分県警察が「飲んだら“暖簾”」キャンペーンを徹底していることで、このノンアルコールの売れ行きが良いらしいですね。どの宴会場にも置いてありますが、ただこれは、飲めてもせいぜい一本まで。二本目には手が出ず、次は、「ウーロン茶下さい」。

 今月末に控えた再検査までの間、一滴もアルコールを体内に入れていない自分に、検査後、結果が良好ならば“ご褒美”をあげたいと思います。なにしろ、宴会では「ドクターストップですから」と、断固断り続けている愛飲家の自分が、本当に“偉い”と思います。

 これまで、時々「一杯位は構わんのでは」と、気持ちが揺れる事もありました。同席のお客さんが美味そうにビールを飲む姿を見て、気持ちが動かない方が普通じゃないと、言い訳を考えながら、何度か“危険性”もありましたが、まだ、持ちこたえています。

 あと数日我慢して、好結果を待つ。その結果、おそらく家族から「ご褒美は、ノンアルコールです。どうぞ。」と言われそうでなりません。先日、「治っても、このまま飲まなきゃいいのに」と、娘と話しているのが聞こえていましたから。

 冷たい面々ですね・・・・。でも、私の体のことを一番考えてくれているのかもしれません。おかげで、体調は “完璧”です。

久しぶりの稲刈り

2007年10月11日 | 家族
 先週の日曜日、久しぶりに稲刈りをしました。妻の実家が、自分たち二人と子ども達(既に独立)、さらに孫の主食を確保するため、少しばかり水稲を栽培しており、これを手伝うため朝から作業服姿で妻と二人出かけました。

 この日は、今年の夏に北九州市へ転勤になった私の次男も、孫(実家の両親からすればひ孫)をつれて三人で遊びがてら手伝いにきました。
 
 朝7時に自宅を出て、8時には田んぼにつきましたが、前の日から取り掛かっていたらしく、既に半分の作業は終わっており、その日の作業は午前中の集中作業で片付く程度でした。

 集中作業とは、この日は朝から小雨がパラついていたこともあり、心持ち気の焦りもあってのことで、「掛け干し」の手も幾分か早めの動きになっていました。

 今年の稲の出来ばえは、まずまずらしく「隣の田んぼの稲は、害虫にやられたが、我が家はこんなに立派にできた」と母が自慢げに話してくれました。

 両親は、昭和の初期の生まれで、父は今年80歳。でも「まだ20年は田んぼを作る」と自ら言うほどに元気が良く、ここ何十年と大病を患うことがないといっていました。ただ、母は、数年前から正座ができない程膝が痛いらしく、足を引きずっての農作業でしたが、いざ仕事にかかるとその痛さを忘れるのか、昔の人らしい身のこなしに改めて驚きました。

 午前中で稲刈りの部が終わったこともあって、昼食はゆっくりとることができました。久しぶりの団欒(いつもは、老夫婦二人住まい)に、祖父ちゃん、祖母ちゃんの顔が印象的で、私もとても嬉しくなりました。

 親は、いつまでたっても親ですね。また、幾つになっても経済的な面で、子どもの事や孫への心配が絶えない。我が家が両親に負担をかけることは今のところ全くないが、そうした姿を見ていると、我々も両親の年齢になって同じようなものなのだろうかと、ふと考えたりしました。

 お米以外に、水田を畑にして、野菜を作っていました。「もって帰りなさい」と袋に一杯の野菜をもらって帰りましたが、立派にできている他の野菜は、スーパーに一袋100円とか200円とかで生産者名入りの販売に出すそうです。これで生計を立てるほどにはいきませんが、健康のためと精をだしているのだそうです。

 我々も、子どもが全部育ちあがったら、このような「晴耕雨読」に似た生活もいいなぁと思いながら、「来年も加勢しておくれ」という母の言葉を耳に、実家をあとにしました。

人の振り見て我が振り直せ

2007年09月20日 | 家族
 「今のところ、毎年のように結婚式が続いているなぁ」とは、78歳になる母のぼやき。それもそのはず、自分の孫7人のうち4人(全員男子)までが4年連続で結婚し所帯を持ったからだ。「お蔭で貯金がいっこうに貯まらん」とも。
 先週の日曜日に、実姉の二男(28歳)が結婚式を挙げた。相手は同い年。それも何と、流行のチャペルで神父さんに導かれての挙式だった。最近は、随分変わった挙式もあるもんだと思っていたら、今は、これがトレンドと言うから、私も随分年をとったものだと感じた。また、そうした結婚式のための結婚式場があるというのだ。
 披露宴は、パーティーという感じで食事が運ばれてくる。しかし、挙式のあとのパーティーだけに、新郎方、新婦方の主賓挨拶は、セオリーどおりあった。これがまた、長くて長くて。スピーチする当の本人としては、何日も前から準備はしていたのだろうが、約90人の出席者を前にすると、自分の考えていた筋書き通りに話は進まない様子。結局それが話をまた長くしたようだ。
 私もよく、話が長いと言われる方だから、その気持ちは良くわかるが、如何にしても長すぎたことに、「人の振り見て我が振り直せ」とはよく言ったものだ、私の長話を聴いている人は、こんな気持ちになるんだなぁと自戒した次第である。
 ところで、最近は男女とも初婚年齢が上昇しているといわれていることをご存知だろうか。ある調査会社の調べによると、1954年(昭和29年)には、男性の平均初婚年齢は26.4歳、女性は23.6歳であったものが、2000年では、男性28.8歳、女性は、27歳になり男女とも約3年延びているのだそうだ。先日の挙式も、28歳の同い年だから、うなずける話だ。
 一方、初婚年齢が上昇するとともに、結婚しない男女の比率も高まっており、人口1000人に対し、一年間に結婚した人の割合を示す年次結婚率は、1955年には、8.0であったものが、2000年には、6.4に低下しているのだそうだ。
 これを見ても判るように、結婚についての意識は急激に変化しており、特に、年齢、男女によってその意識の変化の度合いが大きく違っているという。
 初婚年齢の上昇と結婚率の低下は、当然ながら一人の女性が生涯に産む子どもの数の低下をもたらしていることは、容易に想定でる。しかも、結婚して二人とも働き続けるとなれば、当然子どもを産む数も減らざるを得ず、いわゆる合計特殊出生率も1954年は、2.48人であったものが、現在はその約半分の1.29まで落ち込んでいる。
 また、若い男性の年収が少ないと結婚率が低いという、独立行政法人「労働政策研究・研修機構」の調査結果もある。それを、25歳から29歳でみると、年収が500万円以上ある場合、半数以上が結婚している反面、パート・派遣など非正規雇用者の結婚率は、14.8%に留まっている。また、30歳から34歳の正社員の結婚率は、59.6%、自営業者は64.5%であるのに対し、非正規雇用者では、30.2%と半分以下。これをみると、晩婚化や非婚化は、若者の価値観だけの問題ではなく、就業形態の問題でもある事が実によく読み取れる。
 小泉内閣による規制緩和で、多面的な就業形態が認められるようになり、結果、こんなところにも、格差があらわれていることに驚いている。この就業形態の問題や、少なからずこれに影響受けていると分析できる少子化の問題も(子どもを産む産まないは、それぞれ夫婦間の問題ではあるが)一方で政治が解決しなければならない課題として、大きいものがあることを改めて考えさせられる。