スリランカの生活水準というか、労働者の給料は、月額平均4万から5万円程度だそうです。前に、昭和50年代という事を書きましたが、日本の昭和50年代初頭は、高等学校卒業の初任給が5万円程度だったと思います。
国道を移動中、バスの窓から目についたのが建設中のビルの建設工法です。少し田舎に入ると2~3階建のビルが大半ですが、細い基礎工事が目立ち、2階、3階と建設する際、竹や木を無数に用いてコンクリートを張っており、日本の様に地震が多い国だと、建設基準法によりこの工法そのものがあり得ないと思う程の粗野な建設風景でした。
「キャンディ」という街の市場と商店街を視察しました。日本の商店街とは全く異質でした。写真でお示ししたい程でしたが、清潔感は今ひとつでしたが、活気はすごいものがありました。
また、宝くじ売り場が路地にいくつも設置されており、どのような立場でこの方々が宝くじを販売しているのだろうと思わせる、これでは日本では誰も買わない、信頼できないと思う程に、粗野な販売店が軒を並べているのが印象的でした。
仕事柄、公衆電話と郵便ポストはとても気になりましたが、公衆電話は日本の様に、赤や緑など同一の色彩ではありません。キャリヤ(通信事業社)によって色が違うのであろうと、勝手に判断しました。色も形状も全く違います。
郵便ポストは、キャンディであればその地域用と、スリランカ全土向け用とは郵便ポストの色と設置の向きが全く違います。もちろん同じ場所に設置されていますが、東と西を向いているという様に併設されています。
生活の面でいえば、 田植えとお米の質が全然違うと実感しました。種の種類が全く違うのだと思いますが、スリランカのお米は比較的小粒で、炊飯後もパサパサしているという印象です。田植えの手法は、それこそ昭和50年代の農法の様に感じました。鷺が多数水田にいました。
その精か、夕食も昼食も朝食も出される「ご飯」は殆どがピラフにしたもの。日本のお茶碗に白いご飯を装おうと言う感じではありませんでした。でも、西欧とは違い、炭水化物が多く食事として提供されるので、食事に違和感なしでした。
ただ残念だったのが、観光地に行くと必ず「物乞い」する人がかなり多いことでした。多くを書きませんが、生活水準を高めるために、何か応援ができないものか、率直にそう思いました。
この点、スリランカの教育がどういう状況なのか詳しく調べ、協力できるところはないか詮索してみたいという思いに駆られました。移動の途中でいくつかの学校風景や児童生徒の様子を見ましたが、制服を来ている児童や生徒はまだ良いのかもしれません。草履を履いている児童がいる一方、裸足の児童も多く、生活水準に大きな格差があるのだろうなと思いました。
そこで、スリランカの政治体制について見ておこうと思います。スリランカは、紀元前483年にシンハラ族が島に上陸し、シンハラ王朝を建設。その後紀元1505年にポルトガルが植民地化、その後、1658年にオランダが植民地化、1802年にアミアン条約により英国植民地化。
1815年にキャンディ王朝が滅亡し全島が英国の植民地化され、1948年に英連邦内で自治領として独立し、1956年バンダラナイケ首相が就任し、シンハラ語のみを公用語として、1972年、国名をスリランカに改称。英連邦内自治領セイロンから完全独立することになった。今年(2014年)2月に独立66周年記念式典が行われています。
日本とスリランカの関係で特筆する事があります。
日本が第二次世界大戦に負け、1951年にサンフランシスコ講和条約締結後、世界で一番早く正式に日本と外交関係を結んだのはスリランカでした。当時の大蔵大臣で、後に、初代スリランカ大統領になるジャヤワルダナは、日本に対して、連合国側から分割統治などの強硬案が出される中で、対日賠償請求権の放棄を語っています。
『・・・我々は損害賠償を要求しようとは思いません。我々はブッダの言葉を信じているからです。ブッダの言葉、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」が人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム(タイ)、インドネシアそして、セイロン(スリランカ)へ伝わり、ヒマラヤを通ってチベット、支那(中国)そして最後に日本へ伝わりました。これが我々を数百年の間、共通の文化と伝統で結び付けているのです・・・我々は日本人に機会を与えなければいけません。』・・・と。
国道を移動中、バスの窓から目についたのが建設中のビルの建設工法です。少し田舎に入ると2~3階建のビルが大半ですが、細い基礎工事が目立ち、2階、3階と建設する際、竹や木を無数に用いてコンクリートを張っており、日本の様に地震が多い国だと、建設基準法によりこの工法そのものがあり得ないと思う程の粗野な建設風景でした。
「キャンディ」という街の市場と商店街を視察しました。日本の商店街とは全く異質でした。写真でお示ししたい程でしたが、清潔感は今ひとつでしたが、活気はすごいものがありました。
また、宝くじ売り場が路地にいくつも設置されており、どのような立場でこの方々が宝くじを販売しているのだろうと思わせる、これでは日本では誰も買わない、信頼できないと思う程に、粗野な販売店が軒を並べているのが印象的でした。
仕事柄、公衆電話と郵便ポストはとても気になりましたが、公衆電話は日本の様に、赤や緑など同一の色彩ではありません。キャリヤ(通信事業社)によって色が違うのであろうと、勝手に判断しました。色も形状も全く違います。
郵便ポストは、キャンディであればその地域用と、スリランカ全土向け用とは郵便ポストの色と設置の向きが全く違います。もちろん同じ場所に設置されていますが、東と西を向いているという様に併設されています。
生活の面でいえば、 田植えとお米の質が全然違うと実感しました。種の種類が全く違うのだと思いますが、スリランカのお米は比較的小粒で、炊飯後もパサパサしているという印象です。田植えの手法は、それこそ昭和50年代の農法の様に感じました。鷺が多数水田にいました。
その精か、夕食も昼食も朝食も出される「ご飯」は殆どがピラフにしたもの。日本のお茶碗に白いご飯を装おうと言う感じではありませんでした。でも、西欧とは違い、炭水化物が多く食事として提供されるので、食事に違和感なしでした。
ただ残念だったのが、観光地に行くと必ず「物乞い」する人がかなり多いことでした。多くを書きませんが、生活水準を高めるために、何か応援ができないものか、率直にそう思いました。
この点、スリランカの教育がどういう状況なのか詳しく調べ、協力できるところはないか詮索してみたいという思いに駆られました。移動の途中でいくつかの学校風景や児童生徒の様子を見ましたが、制服を来ている児童や生徒はまだ良いのかもしれません。草履を履いている児童がいる一方、裸足の児童も多く、生活水準に大きな格差があるのだろうなと思いました。
そこで、スリランカの政治体制について見ておこうと思います。スリランカは、紀元前483年にシンハラ族が島に上陸し、シンハラ王朝を建設。その後紀元1505年にポルトガルが植民地化、その後、1658年にオランダが植民地化、1802年にアミアン条約により英国植民地化。
1815年にキャンディ王朝が滅亡し全島が英国の植民地化され、1948年に英連邦内で自治領として独立し、1956年バンダラナイケ首相が就任し、シンハラ語のみを公用語として、1972年、国名をスリランカに改称。英連邦内自治領セイロンから完全独立することになった。今年(2014年)2月に独立66周年記念式典が行われています。
日本とスリランカの関係で特筆する事があります。
日本が第二次世界大戦に負け、1951年にサンフランシスコ講和条約締結後、世界で一番早く正式に日本と外交関係を結んだのはスリランカでした。当時の大蔵大臣で、後に、初代スリランカ大統領になるジャヤワルダナは、日本に対して、連合国側から分割統治などの強硬案が出される中で、対日賠償請求権の放棄を語っています。
『・・・我々は損害賠償を要求しようとは思いません。我々はブッダの言葉を信じているからです。ブッダの言葉、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」が人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム(タイ)、インドネシアそして、セイロン(スリランカ)へ伝わり、ヒマラヤを通ってチベット、支那(中国)そして最後に日本へ伝わりました。これが我々を数百年の間、共通の文化と伝統で結び付けているのです・・・我々は日本人に機会を与えなければいけません。』・・・と。