小嶋つうしん(号外)

(元)大分県議会議員 小嶋秀行の徒然ブログ

政治の無策

2008年05月17日 | 政治・経済
 政府が、後期高齢者医療制度の見直しを再び開始しようとしています。再びという意味は、今年の4月に制度がスタートする前、これまで国民健康保険の被扶養者であった高齢者からの保険料徴収を、“激変緩和する”として、ほぼ一年間先送りにしたことがあるからです。この時も、新しい制度の概要が明らかになるにつれ、高齢者からの反発を予期しての先送りでした。

 今回は、医療制度が実際に運用されはじめて、方々から、こともあろうか与党内からもブーイングが発せられるようになり、制度そのものの見直しさえ口にする議員が出始めてきたことから、福田総理大臣自身が、見直しに着手せざるを得ない立場に追い込まれました。

 その一つの問題点ですが、これまでは、国民健康保険に老人保健制度が組み込まれており、75歳以上の高齢者は確かに別枠の制度で医療制度が運用されていましたものの、従前は、高齢者も年齢を問わず「人間ドック」への助成を受けていました。にもかかわらず、新に保険者となった全国の自治体(広域連合)では、75歳以上の高齢者は、「人間ドック」を受検する際、本人負担を10割にしてしまい、事実上対象外としたことへ苦情や批判が集中しています。

 また、大分市の場合では、針・灸の施術について、以前は国保で(年間最高)48回まで助成してきましたが、今回の高齢者医療制度移行により、この施策自体が、大分市長寿福祉課の一般施策(年間最高12回まで)として取り扱われることとになりましたことから、この場合、市民税が課税される高齢者には、適用されなくなるという影響が新に生じることとなりました。

 政府は、高齢化が著しいなかで、「高齢者から、保険料を全体の一割だけ負担していただくことにしたので、負担が低減されるいい制度だ」と、いまだに豪語しますが、それではなぜ、新に保険料が発生するようになった高齢者には、制度発足前から一年間の猶予を与えることにし、また、「後期高齢者医療」制度というネーミングも、75歳以上の高齢者がどうして「後期」なのか、説明は皆無です。しかも、福田首相は、「長寿」医療制度に名前を付け替えるなどと指示したりで、何とも訳がわかりません。前述の2つの事例をみるまでもなく、明らかに『受診抑制』を目的の制度としかいえないでしょう。

 これが、二年前の小泉内閣の際、野党の反対(もっと論議を尽くすべきだとの立場で)があるにもかかわらず『強行採決』で決められた結果以外の何物でもなく、これを『政治の無策』と言わずして何と言えましょうか。そして、今になって制度の見直しや保険料の増額などについて調査するなど、後手に回ったその作業自体、官僚主導の典型を表しているのであり、政府与党の無能さを自ら暴露しているようなもので、当時の厚生労働省の役人はおろか、政府与党側の国会議員には、責任を取ってもらうくらい、今後の国会での追及を願わずにはおれませんね。本当に悔しいです。もっと、われわれ国民は『怒らねば』なりませんよ。

 ただ、福田内閣は、現在開会中の第169通常国会を、6月15日の会期末を以って閉会するといいます。当然、当初予定した会期が終了するのだから、予定通りに閉会はかまいません。がしかし、今国会で予定された議案の何割が議決されたのでしょうか。半数に満たない数しか終わっていないとも言われています。

 彼らには、国会を無理に延長することで、これ以上野党側の追求により、高齢者医療制度はもとより、年金問題、道路特定財源の議論(新たな特別会計での無駄づかい発覚)など、更なる問題点などが明らかにされようものなら、福田内閣自体がもたいないという判断があったのでしょう。

 これで、7月のサミットをしのぎ、かねてより予定している国民に耳障りのいい政策を打ち出すことにより、支持率を回復しようとの魂胆は見え見えですが、さて、思惑通りに事が進むかどうか、これからがみものだと思います。

国民は、福田康夫氏自身のリーダシップの欠如と、自民党そのものに閉口しているのですからね。
 一度、政権交代してみればいいのに。

限界集落

2008年05月13日 | 社会
 最近“限界集落”という言葉が、方々で使われるようになりました。今年に入り、県議会でも市議会でもこの論議がありました。

 この“限界集落”は、明確な定義があるわけではありませんが、『高齢化により65歳以上がその集落の人口の50%以上を占め、自治会など共同体の機能維持が限界に達している状態の集落』を言いうようです。

 国土交通省が2006(平成18)年4月時点で行った調査では、四国、中国地方を中心に7878カ所。人口減などで消滅の恐れのある集落は2643ヶ所に達していると言われています。

 私の育った実家(地域)でも、今ではほとんどの住人が65歳以上です。改めて限界集落という表現を実感として受け止める事ができます。

 今にして考えてみると、私の実家地域では、戦後の昭和20年から30年代に生まれ育った頃がピークだったようです。小学校でも50人学級が1年から6年まで、一クラスずつちゃんと構成できていました。いまでは、全校で15人程度、複式学級が何年も続いています。数年前は入学する子どもが一人も居なかったともいいます。

 若い世代は、その殆んどが就職するため大分を中心に都市に出てしまいます。かく言う私も、一家の長男として生まれたものの、先祖の代から続けてきた小規模農業だけでは、充分生計を立てる事ができないこと、そして、子どもにはこんなつらい思いはさせられないという気持ちも重なり、親達がそれを望んではいませんでした。その上、(昭和40年代にはすでに)高校を卒業したら田舎を出て“都会”で就職するということが、ほとんど常識化していました。

 “時代の流れ”と一言でいってしまえば、それまでですが、「社会の持続的発展」という言葉が、いかにも空虚な言葉に聞えてなりません。一方で、大都市への一極集中が極度に進行しており、方や地方では「限界集落」化が急速に(逆比例して)進むという実態が、今は顕著です。

 ただ、都市化が進む場合は、街づくりの法律を書き換えてでも対策を打とうとしますが、次第に絶えていこうとしている町には、対策が今は全く見当たりません。

 そんなことから、先日、民主党の会議があった折、少子化・高齢化が著しい日本社会の中で、限界集落への対策が国の段階でも必要なのではないかということを提案してみました。

 今の段階で有効な具体策を持ち合わせているわけではありませんが、今後、街づくり全体の問題として、基礎自治体でも、このままにして置いてはならない課題だと思います。


くらしにあんしん

2008年05月10日 | 社会
 最近、「暮らしに安心」と書かれた政党のポスターを見かけるようになりました。総理大臣の顔も入っているA1版のポスターです。「お父さん!同じ様なことを書いたポスターがあるよ」と、妻から知らされました。

 もちろん、他のスローガンを書いているものもありますが、この「暮らしに安心」というキャッチコピーは、私が、12年前に市議会議員選挙に立候補する際、「街にぬくもり、くらしに安心」というテーマを掲げて選挙を戦い、以後も名刺などにも刷り込み、文字通り、“日々の暮らしに安心感が持てる政治”を目指して掲げ続けてきたものです。

 これが皮肉にも、政権政党党首のポスターに標語として使うとは、“誠に光栄の至り”。私の活動テーマに、あらためて確信?を抱いています。

 ところで、私がどういう理由で「街にぬくもり、くらしに安心」というテーマで活動してきたのか、それには幾つかの側面があります。一番大きいのは福祉の側面ですね。次に環境です。そして、教育です。
 
 例えば、この4月に後期高齢者医療制度が発足しました。小泉政権時代に、聖域無き構造改革の一環として政府提案され、民主党を中心とする野党の疑問・質問に対し、しっかり答えることなく「強行採決」した代物です。

 今にして思えば、当時民主党を中心に野党が出している様々な疑問・質問に答えていたら、その時点では大変な物議を醸し、マスコミでも大きく取り挙げられていたのかも知れません。また、今日こんなに問題視されることは無かったと思います。

 また、対象となる75歳以上の高齢者に内容周知もある程度行き届いていたのかもしれません。(論議の程度によっては、もしかして、強行採決の前に廃案になっていたかもしれませんが)

 一方、これを後継政権である福田内閣が引き継いだわけですが、福田総理自身がその問題性を捉えて、こともあろうか発足当初に、「後期高齢者医療制度」現を「長寿医療制度」と急きょ命名し直すというお粗末をやってしまいました。
 
 私は、「暮らしに安心」とポスターにして掲げた政府が、自ら「高齢者・・・は間違っていました」と宣言したに等しい営みとその内容に、あらためて憤りを覚えますし、少なくともこんなお粗末を大分市政でやってはならないと思うからです。つまり、充分な論議を行うことに力を入れるべきだと考えています。

 現在、私も勉強(研究)中ですが、この後期高齢者医療制度を突き詰めてみると、75歳以上の高齢者に「かかりつけ医」制度を導入することにより、対象者への普段の医療を充実するものと言われています。が、その実態は、多くの自治体で従来の老人医療制度で措置されていた「人間ドック」の費用を助成しないようにしています。これは正に、受診抑制を目的とした制度設計が行われているとしか言いようがありません。

 これで、「暮らしに安心」と言えません。一事が万事、国の政治では、官僚が作った法律案を何の疑いも無く「強行採決」するような営みが続いていますが、これを一時も早く改善しなければならないと思います。

 この制度が発足する前に、市民から相談をうけました。『84歳になる、私の義姉のことですが、今入院している病院から、3月31日以降は退院して下さいと言われています。認知症も少しあり、退院後、一人暮らしをさせられる事情にありません。どこか預かってもらえる老人ホームなどに入所できないでしょうか。方々訪ねてきましたが、引き受けてくれるところがありません。どうにかなりませんか』というものでした。

 この背景には、こうした症例の場合、入院させている側の病院として、新たな制度変更でどのような扱いをすればよいか判断できず、長く(社会的)入院している患者には、退院を通告する以外になかったようです。

 私に相談された方(義理の妹・70歳代後半の女性)は、本当に途方に暮れていました。今年に入り、引き受け先を探して方々を訪ねてまわった事が原因で、当の本人も入院するという悲惨な状況まで追い込まれてしまい、次善の策として義姉の入院先の病院に、引き受けてくれる施設が見つかるまで、引き続き入院させてもらえるようお願いせざるを得なかったと言われていました。

 今回の後期高齢者医療制度への変更で、こんな状況に追い込まれた高齢者がたくさんいると思います。だから、私は、政府・自民党のように耳障りのいい言葉や、実態の伴わない単なる標語やスローガンなどは語らずに、真に「くらしにあんしん」をめざして、引き続き活動しなければならないと考えています。




新たな増税ですよね

2008年05月07日 | 政治・経済
 5月1日、ついに、暫定税率が“復活”してしまいました。

 この3月30日を以って暫定税率の法律が期限を迎えましたから、5月1日復活までの一ヶ月間だけ、(暫定税率分)25.1円はガソリン代の中に含まれませんでした。

 ということは、今回の暫定税率を復活させるという騒動は、新に増税したということになりますが、どのようにお感じですか。

 でも、どういうわけか、「道路はもう造らなくていいのか」と言われると、大分県位の都市になると、「まだ造らないとなぁ」という論議になってしまう。それも無理はないかなと思いますし、道路整備は欠かせないとも思います。

 ただ、それでは、「日本に道路があとどれだけ必要か」という問いに答えられる人は誰もいませんよ。

 それに、よく考えてみると、今日の日本の都市化と過疎化という問題は、双方の間に「道路」というキーワードを抜きに語れません。つまり、便利がいいからと道路を次々に建設したことで、都市部にはどんどん人・物・金が集まるようになりました。が逆に、田舎からは人・物・金がどんどん出て行ってしまいました。

 これが社会の発展だといってしまえばそれまでですが、今では、大分県は大分市に一極集中でしょ。九州は福岡にほぼ一極集中です。日本はと言えば、東京に一極集中です。その傍らで、“限界集落”とか、“耕作放棄地”と言うことばも生まれ、「日本の均衡ある発展」など政治家は口にするけど、反比例しているのが現実ですね。

 こういう現象の背景には、「道路ができて便利になったから」ということが一番に揚げられると思います。かつて、大分県の知事は、大分県内60分構想として、県庁のある大分市に60分以内で到着できるように道路を建設すると言ってました。それがあと少しで現実になります。

 先日、豊後大野市内を通過する「高規格道路」の部分開通式が新聞報道されていましたが、従来の国道にほぼ並行して高規格道路を建設したことで、最終的には大分市と竹田市及び熊本市までの所要時間は大幅に短縮されますが、例えば、せっかく国道沿いに作られている「道の駅」をはじめ、地域の生産物販売所などは、結果として素通りになりますから、国土交通省がいう地域の活性化に寄与というのは、全くの偽りだと思います。

 本当に地域の活性化をいうのであれば、既設道路を拡幅するなどすれば済むことです。別ルートで通過道路を建設しても、地域の活性化などにはなりませんね。過疎が進むだけですね。

 田舎では、人口が減少し公共交通機関が廃止されていますから、ますます車が必要になり、ガソリンを消費する割合が地方ほど多くなる。しかし、その恩恵を本当に地方(地域)の人々が受けているかといえば、決してそうではありません。都市部のみその恩恵を受けています。

 そういう事情であるにもかかわらず、暫定税率の“復活”(増税)には、地方の反乱はあまりありませんでした。それがなぜか私には判りません。
 でも、先ほど報道されていた内閣の支持率を見れば、今の福田・自民党政治には飽き飽きしていることだけはよくわかりました。