ミクロもマクロも

心理カウンセラーが気ままに書き続ける当たり前

犬も人もつながれて

2005-01-14 22:59:27 | Weblog
大人の顔以上かもと思える秋田犬の顔、そしてその体躯の大きさ。
時折遭遇するその犬と、昨日間近に、そして触れた。
そのお散歩に遭遇すると、かなり離れていても、綱を持つ年配の男性が
「赤ちゃんだよ、赤ちゃんだよ。じっとして」
って、いつもその犬に語りかける。
「大丈夫ですよ、もう大人ですから」
って、声をかけるのだけど、なるほど、そう言いたくなるほど、大きい!
あちらは秋田犬。こちらはシーズー犬。問題にならない程の大小の差。
赤ちゃんとアンドレ・ザ・ジャイアントの差ぐらい。

洋犬は、人間の都合に合わせて、改良されまくってきた、実用(狩猟)と
愛玩用。和犬は、そこまで人間の道具にはなっていない。
土佐犬・秋田犬・紀州犬・甲斐犬そして、柴犬。せいぜいよく目にする和犬は、
柴犬ね。大体が、「相方・相棒」そして「用心棒」あたりの位置にいた和犬は、
たま~に事故を引き起こすわね。
昔々、我が姉が小学生の頃、伯母の家の飼い犬「土佐犬」の散歩で、何かに興
奮した犬が脱兎のごとく走り出して、姉は引きずられる事、ウン十メートル。
全身擦り傷だらけになったことがあったわ。

初めて間近に接した秋田犬の名前は「シュン」
「シュン・カ・シュウ・トウのシュンなんですわ」とその男性。
訓読みじゃなく、音読みなのよ。ゆったりと横たわる姿は美しい。
シュンのオーナーではない、お散歩だけを引き受けているご老人。大丈夫なの
かしら?って思ったわ。
あの大きさの犬が、走り出したら、まず止められないくらい体力がありそうで
すもの。間違いなく引きずられるってね。
でも、大きい犬は可愛い!話し掛けるその顔を見上げる優しいまなざし。
信頼が感じ取れた1人と1匹の間。
昔は、人間も犬・猫(これは今も自由よね?ちなみに我が家の猫は『箱入り娘』だけど)
もつながれてなんかいなかったわ。
人間もよ。相身互(あいみたが)いの信頼の中に生きていた。まあ、これだけ
人間が多くなれば、しかたないことなんだけど、規則規則の取り決めごとの中で、
生きなきゃならないって、つながれてるって事よね。無言の信頼はなくなった。
すごく不自然。だから人が歪んでくるのは自然よね。

かなり前のことだけど、タヒチの数ある島々の中の一つ、ボラボラ島に滞在中に
目にした光景は、「そうそう、これ!懐かし~~い」って、心から感じたもの。
波打ち際で、子供と犬が一緒に泳ぎ、はしゃぎ、未舗装の道路のあちらこちらから、
何羽もの鶏が、何かをついばみながら、歩いてる。
鹿児島生まれの私の、原風景そのもののような風景に出会ったような、体の芯の
ところが喜びに震えたわね。
当時のそこでは、
馬を洗っている川には、子供達がもぐったり、泳いだりが不自然でなく、
「コッコ、コッコ」と庭のあちこちを歩き回る鶏が、いつも視界のどこかしこに
いる穏やかさ。ザクロ、グミ、イチジク、ビワ、アケビ等で季節の移り変わりを
知り、ホタルと似たような光り方をするマムシの目を間違えるなと、梅雨時の
夕暮れから夜のしじまに、子供を妖しい世界に引き込む光に魅入る。
擦り傷を沢山作る子供は、大怪我はしないって。それを体験、体現したりで育つ。
怖かったけれど、なぜか懐かしい大人がいて、まるごと包んでくれた。
小学校では、時々授業からそれて、
「あまのや りへえは おとこでござる」と、信義とはどういうことかと教えて
くれる教師に出会い、これは「赤穂浪士」の討ち入りに重要な役割を担う男の話。
ついでに
「なせばなる なさねばならぬ なにごとも ならぬは ひとの なさぬなりけり」
人の可能性の話に及んだ。
運動会では、しっかり1等賞があり、中学ともなれば、試験の都度、結果が廊下の
壁に張り出された公立学校。それが悪しき結果をもたらしたかと言えば「ノー」。

「悪しき平等」を唱える輩は、人の尊厳、可能性を知らない、認めたくない心貧しき
者。個々人の能力に差があるのは当たり前であり、並べて等しくとする言動は、その
者の個人的恨みの意趣返し。薄汚く、姑息なやり方で、誹謗中傷を得意とする者。
そして、そういう人間は、必ず徒党を組もうとする。1人では何も出来ない弱虫。

シュンを撫でながら、話し掛けながら、
「やっぱり1回は、ご破算に願いましては~~、にしなきゃいけないかもね」
なんて、ちょっと神様の気分になっちゃった。何を?この世界をよ。
ああ、でももう始まってるのかもね。地球が怒ってる最近よね。