堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

年暮る・・・山種美術館

2011年07月09日 | 彫刻・アート

 東山魁夷のビデオを見ていると、代表作の一つである「年暮る」についての紹介があった。
 大晦日の京都の家並を描いた傑作である。
 広尾の山種美術館の所蔵であリ、ビデオの様子では収蔵庫から出された様子であった。
 東山魁夷は好きな画家の一人であるので、山種美術館には東山魁夷の他の作品もあるのではないかと思い、HPを見た。
 驚いたことに、山種美術館で、6月の11日から7月の24日まで、「美しき日本の原風景」と題して、特別展が開かれ、東山魁夷の「年暮る」が展示されていることが分かった。
 併せて、ビデオでも紹介されていた、京都を描いた京洛四季の連作の一部も展示されているとのこと。

 東山魁夷のほかに、川合玉堂、奥田元宋、横山大観、横山操の作品もあるとのこと。
 時間を作って見てこようと思う。

 現職の頃、彫刻のあるまちづくりを基本に街全体が美術館の実現のために、視察に出かける折は行程に無理が生じても、できうる限りの美術館は見てきた。
 以前から、美術館を立川に建設しようという意見はあった。
 しかし、美術館として一級のものを作るには、美術品の収集、管理などに多額の費用が掛かり、立川市の財政状況では極めて困難であると考えた。
 美術館のもう一つの欠点は、わざわざその場所に足を運ばなければならないという点である。
 街の中に一級の美術品があれば、無意識のうちに目に入り、特別興味のない人でも一級の芸術作品に触れることができる。その第一歩が、彫刻であり、パブリックアートであった。

 今回は、山本正道のファーレにある作品を紹介する。

     

 

     


防災対策としての学校整備

2011年07月08日 | 彫刻・アート

 先日、新聞報道で防災に対応できる学校の整備方針を検討していた文部科学省も委員会は6月30日に成案をえ、7月上旬に提言書を確定し、全国の教育委員会に配布する事を知った。
 文科省のHPを見たが「提言」はまだ載っていない。

 学校は、様々な条件から地域の防災拠点として最適な施設である。
 校庭、校舎、体育館備える学校は、避難場所としても他の施設にない条件を満たしている。

 災害時における学校の役割を時系列でみれば。
 災害発生時では、緊急避難場所であり、救命避難場所となる。発生後数日は水や食料の確保による生命確保の場所であり、その後は仮設住宅建設までの臨時の生活の場となり、最後には学校再開に向けての準備の場となる。

 災害に対して各学校の果たすべき役割は大きく、且つ、重要である。
 機能の充実を図るためには、学校施設の整備は必要不可欠である。
 なるたけ早く検討結果を知りたい。

 学校施設の整備は当然必要ではあるが、災害発生時に被害を最小限に留めるためには、ハードとともにソフト面での充実が大切である。
 地域防災計画はあるが、それに伴ったマニュアルはどの程度整備されているのかはなはだ疑問である。
 地域に関連するものについては全く知らない。早急に整備して訓練を実施すべきである。

 今まで色々な訓練に参加したが、初期消火等の個人的な訓練はあったが、市民参加でマニュアルに基づいた訓練の記憶はない。

 立川市でも今年に入り、初めて図上訓練を行ったそうであるが、マニュアルの改訂も当然あるであろう。

 市全体の災害対策本部に対し、地域の災害対策本部としての機能を持たせるべきであると思う。
 その意味でも、地域の防災マニュアルは必要である。
 

 立川の彫刻第2弾は、若葉会館の山本正道、樹と少女’97。ファーレにも作品がある。

     

 

         


立川市議会会議録

2011年07月05日 | 地方自治

 立川市議会の会議録を見た。
 大変に見ずらい。
 一言で言えば、前時代のワープロ専用機の様なものだ。
 13行しかない。
 書体も行間も問題あり。
 質問にしても、答弁にしても、一字一句、最初から最後まで精読する性質のものではない。
 キーワードで検索し、スクロールしながら該当箇所を探し、拾い読みをすればよい。

 参考にと思い、他市の会議録を見た。
 三鷹市の会議録検索システムでは、横断検索ができ、東京都と三鷹市を入れて、16市の会議録を検索できる。
 何市か見てみたが、立川の様な形式のものは見当たらなかった。
 横断検索には立川市は含まれていなかった。
 立川市のシステムが特殊なので、横断検索ができないのであろう。

 委託先選定に当たって、市議会はどのように関与したのか知りたい。
 現職時代に、議会の市民への情報提供の推進のために、会議録検索システムの導入を主張し、実現したことを記憶している。
 当時は導入している市も少なく、比較検討に苦労したことを覚えている。

 現在では、殆どの自治体が導入しており、福生市では、目次がまず最初に出てきて、該当の箇所をクリックすれば、内容が閲覧できる。大変に見やすい。

      

 さんさんクラブの帰り、錦六会館の前の立葵が逆光を浴びて、真っ赤に輝き、大変にきれいだった。


江口週・・・彫刻

2011年07月04日 | 彫刻・アート

 柴崎市民体育館の前に江口週の作品がある。

 私の現職時代のライフワークであった「文化行政」に一つが、「まちじゅうが美術館」、特に、彫刻に力を入れた。
 彫刻は絵画と違い、野外に展示され、単に見るだけではなく、触れることもでき、街の景色の一部となり、町の品格も高めることができる。
 そこで、彫刻を中心に進めていこうと考えた。

 何時ごろから始めたかは定かではない。
 ただ分かることは、「彫刻のあるまちづくり」を提唱し、実現した、最初の作品が、今は、トポスの前にある、御正進の作品「ラ ファミリア=家族」であることは間違いない。
 この作品は立川市のHPによれば、平成元年の3月となっている。
 従って、「彫刻のあるまちづくり」を提案したのはそれから2~3年前であろう。

 当時、ウイルで開催されていた、三多摩50人展のメンバーでもあり、油絵を描いていた、広報課長とともに知恵を出し合いながら推進した。

 優れた、彫刻のある街にするためには、オリジナル作品であること、場所にあった作品であること等であった。
 そこで、既に、彫刻のあるまちづくりを実現している先進市が幾つかあった、立川市にとって一番適切な市を選び、視察することとした。
 その市は碧南市であった。

     

 柴崎市民体育館にある、江口週の作品「再び翔べるかー柱上の鳥」である。
 もともとは木彫であり、これはブロンズ化したもの。
 
江口週は京都出身で、東京芸大卒業。現代日本彫刻展大賞、平櫛田中賞、中原悌二郎賞優秀賞などを受賞している。江口週は漂流と原型の連作等でで有名な木彫作家である。

 余談だが、平櫛田中の記念館はその終焉の地である小平市の玉川上水の傍にある。
 木彫の著名な作家である平櫛田中の作品も面白い。一見の価値がある。

 今後、彫刻についても載せていきたいと思い、カテゴリーに彫刻を加えた。


ハンゲショウ

2011年07月03日 | 日記

 7月1日、金曜日、通常は、三小の放課後子ども教室「さんさんクラブ」は開かれない。
 保護者会があるため、臨時に開く。100人以上の子どもが来た、

 校門を入ると、門の傍にハンゲショウが咲いていた。
 子ども達が来る前に、ジャガイモや稲を育てている場所に、毎年ハンゲショウが咲いているので、写真を撮りに行った。

     

 ハンゲショウは「半夏生」と書く。
 「半夏生」とは、夏至から数えて11日目を言う。丁度その頃、花が咲くのでこの名がついたとも言われている。
 今年は、7月2日が半夏生。この写真を撮ったのが、7月1日金曜日。
 何日か経ってしまったが、7月2日が半夏生であると知り、タイミングが良かったので、今日、載せた。

 ハンゲショウのもう一つの名前の由来は、葉の一部が白くなリ、半分化粧しているのでので「半化粧」というのだそうだ。
 ところが、この時点では、三小のハンゲショウは葉の正面は全て白くなっている。徐々に白くなり今は全部白なのであろうか。
 棒状の花の下の葉が白くなり、花を目立たせて、受粉のために虫をおびき寄せるために葉を白く変化させるのだという。
 従って、花が終わる真夏には葉は全て緑になる。
 緑に変わる過程ではどうなるのか見てみたい。
 葉の正面は真っ白だが、裏側は緑である。その意味では正に半化粧である。

     
 


続若泉敬・・・沖縄返還交渉密使

2011年07月02日 | 日記

 前回、若泉敬について書きだした途端にTEL、緊急な用事のため中断。
 ブログは、新しい記事が前に来るので、続編はなかなか書きずらい。
 結論が先になっていしまい、論理の筋道が逆転してしまう。
 幸い、今回は、書きだしたばかりなので、その心配はない。

 若泉敬が佐藤総理の密使として、沖縄返還交渉に当たった経緯はどうだったのかは良く分からない。
 しかし、結果的に、外交交渉の凄まじさと、結果の重大さに、改めて驚きを感じた。
 アメリカに比べ、日本の外交交渉の拙劣さを改めて感じた。

 アメリカ側は、その意図と交渉戦略を最後まで隠し通しただけではなく、交渉終了後も日本は気が付かなかった。
 若泉は返還20年後のシンポジウムで交渉相手であるアメリカ留学時からの友人でもあるハルペリンという人物から明かされ、愕然とする。

 その真の意図とは沖縄の基地の固定化と自由使用である。
 現在の沖縄の人々を苦しめている根源は、沖縄返還が決定したこの時にある。
 若泉が「小指の痛みを全身の痛みと感じてほしい」という言葉と、沖縄の老婦人が日の丸をもつ写真を終生手放さずにいたこと。
 放送のなかで、若泉氏が沖縄慰霊碑の前に端座して長い間祈る姿が映し出された。
 若泉氏の沖縄の人々に対する思いを深く感じた。
 己の交渉による結果責任と計り知れない理由によって、氏は自らの命を友人の前で絶った。

 今晩組は、交渉の難しさと、交渉における戦略と戦術について学ばされた。
 外交交渉だけでなく、すべての面で重要な教訓であると思う。
 アメリカは核に対する日本の絶対的な世論を巧みに利用した。
 若泉もそのことが絶対条件であった。非核三原則を勝ち取る。それが絶対命題であった。
 そのために他の問題は等閑視した。
 アメリカは軍事戦略上核兵器は多様な形態で使用でき、沖縄には固執していなかった。
 アメリカの真の狙いは基地の固定化であり、自由使用であった。日本はそのことを全く考えていなかった。
 ベトナム戦争はほかの世界の出来事であった。沖縄との関係は無視されていた。

 アメリカの真の狙いはひた隠しされ、囮の議論に終始した。アメリカの外交戦略・戦術の完勝であった。

     

 三小の東南の隅にザクロの木がある。
 丁度今、花から実へ変化しようとしている。現代の子供たちは柘榴の実を食べるのだろうか。
 甘酸っぱい味を思い出す。