8月26日(木曜日) 酷暑戻る。
朝のうちにきゅうり杭を一列倒してかたずける。
自治会の要件で役員宅周り。暑くて仕方がない!
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感染症の事を新聞記事では
天然痘(疱瘡)の流行がくり返された江戸時代、
免疫のない子どもの感染が軽くすみ、後遺症も残らぬよう願う親たちの祈りは切実だった。
だが
種痘が普及するまで、神仏やまじないに頼るしかなかった昔だ。
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疱瘡にかかった時は、部屋に赤い布をかけ、
当の子どもはもちろん看護人もみな赤い着物を着たという。
玩具も本も赤尽くしにしたのは、
赤を好む疱瘡神を物に引きつけるためとも、
逆に赤の呪力により退散させるためともいわれた。
赤べこや鯛車といった赤い玩具はその名残という。
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鍾馗や源為朝、金太郎などを赤い色で描いた「赤絵」も
疱瘡よけの護符とされた。
家の入り口に張った護符には、
ずばり
「子供不在」と大書して疱瘡神に帰ってもらうものもあった。
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さて今日、
子どもの感染者増が目立つ「第5波」のコロナ感染拡大である。
従来のような家庭内感染に加え、保育園など施設でのクラスター発生も相次ぎ、
休園する施設は1カ月前の4倍という。そしていよいよ学校の夏休み明けだ。
子どもが感染しても大半が無症状や軽症なのは前と変わらないが、
感染者が増えれば重症例がいつ出てもおかしくないという。
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デルタ株の広がりで
米国では1週間の子どもの新規感染者が12万人を超え、
7件の死亡例があったそうだ。
専門家は子どもを守るには周囲の大人の免疫獲得が重要と訴え、
保育士や教員、親へのワクチン接種を推奨する。
もちろん学校などのクラスターから
家庭を守るのにも必要な
大人たちの免疫の護符である。
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少し感染症の・・天然痘などの歴史をしらべる。
天然痘の予防法となった「ある感染症」とは
致死率が非常に高く、「天然痘」は長らく人類全体にとっての脅威だった。
天然痘を患った日本史上の有名人といえば、
「独眼竜」の異名で知られる戦国大名の伊達政宗が挙げられる。
政宗が右目を失明したのは幼少時にかかった天然痘が原因で、
近代以前の日本では失明の原因の最たるものがこの天然痘であった。
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天然痘の致死率はもとより、命を取りとめても失明や痘痕などが
後遺症として残ることも大きな問題だったのだ。
現代社会は予防接種(種痘)をすることで根絶に成功したが、
同様の予防法は早くからあり、中国・宋の時代には人痘接種法が生まれていた。
ただし、それは原始的なもので、被験者を感染・死亡させることが多いなど、
かえって危険だった。
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犠牲者を出さない予防法はないか。
その苦闘に活路を見出したのが英国の外科医、
エドワード・ジェンナー(1749~1823年)だった。
ジェンナーは、乳搾りの女性たちが
「牛痘」(牛のウイルス性伝染病)の罹患経験がありながら、
天然痘にかかる人が少ないことに気がついた。
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そこで、1796年5月14日、8歳の少年に牛痘の膿から採った内溶液を接種。
わずかな症状が出たが、すぐに完治した。
同年7月、同じ少年に今度は患者から採った膿を接種したところ症状が表れず、
ジェンナーは2年後、『牛痘の原因と効果に関する研究』を発表。
「牛痘(天然痘の予防接種)を打つと牛になる」との風評に悩まされながらも、
牛由来の種痘を天然痘の予防手段として確立させたのだった。
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天然痘が日本でなくなるまでの道のり
ジェンナーの種痘技術は広東の英国商館を通じて1805年には北京へ、
日本へはそれより少し遅く、長崎出島のオランダ商館長を通じて
享和年間(1801~1804年)に伝えられていたが、
それらはあくまで情報にすぎなかった。
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肝心のワクチンがないことにはどうにもならず、
その役目を果たす痘苗(天然痘の予防に用いる接種材料)が
初めて日本に伝えられたのは1812年のことだった。
松前藩(北海道)で役人を務めていた中川五郎治は、
1807年に択捉島でロシア人に捕らえられ、滞留中に種痘術を学ぶ。
送還帰国したときに痘苗を持ち込み、
北海道と東北地方に普及させ、多くの人命を救った。
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一方で、関東以西はこれと別の歴史をたどる。
痘苗はジャワ(現インドネシア)から輸入されることになったが、
熱帯を通過する間に変質するとあって、有効な現物が全国に到来するのは遅れに遅れ、
普及したのは
1849年のことだった。
普及にあたって最大の貢献をしたのは
緒方洪庵で、
越前藩の藩医・笠原白翁から痘苗を分けてもらった彼は大坂に「除痘館」を設立。
豪商たちの協力のもと種痘の普及に務め、天然痘の予防に大きく貢献した。
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西南戦争の裏に感染症が関係していた?
明治時代に入り、外国船の来港がさらに増えると、
それに比例して感染症の流行も増加する。
人々が戦々恐々とする状況下、
明治最初のコレラの流行が起きたのは1877年のことだった。
同年の春先、横浜在留の欧米人が神奈川県令(知事)に対し、
「手洗い」の普及を要請したにもかかわらず、右から左へ聞き流された。
不幸にして彼らの危惧は的中する。
第四次パンデミックの襲来である。
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上陸地点は横浜と長崎の2カ所。長崎の大浦では1877年8月、
コレラで死亡した水夫の埋葬を手伝い、横浜では9月にアメリカ商館で働いていた
日本人老女2人が感染したのを端緒とする。
すでに清の厦門「アモイ」ではコレラが大流行しており、
それはアメリカの艦船が厦門から入港して間もなくのことだった。
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さらに、同年2月には西南戦争が勃発。戦争自体は同年9月24日に終息するが、
同月16日にはすでに政府軍内でコレラの発症が確認されていた。
彼らがそれぞれの故郷に凱旋したことで、コレラは一気に全国に波及し始める。
政府内には彼らを足止め・隔離すべきとの声もあったが、
兵士らの剣幕に恐れをなし、現場でそれを実行できる者は誰一人いなかった。
その年の死者は7000人にとどまったが、
2年後の再発時には10万人の命を奪うことになる。
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強制的な封鎖・隔離で起きた暴動
政府は1877年8月2日付で「コレラ病予防法心得」を公布し、
医師による届け出と予防法の実施を義務付け、
患者が出た場合には徹底した消毒を行い、患者の移動を禁止するよう命じた。
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魚類の販売禁止や米価の高騰がこれに拍車をかけ、
コレラ患者専用に設けられた避病院は一度入ったら生きては出られない場所として敬遠された。
強制的な消毒や隔離が重なり、封鎖も長期化する事態に人々の不安と不信が募るばかり
となれば何が起きてもおかしくはない。事実、全国各地で警官隊との衝突や暴動が頻発した。
現場の警官の強圧的な姿勢が人々の反感を呼び、
警官を「巡査コレラの先走り」と称して毛嫌いする風が広がった。
治療にあたる医師が思わぬ誤解から 惨殺される事件さえあったのだ。
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いまウイルスと戦う私たちが後世に伝えるべきこととは
いま、人類は新たな感染症「新型コロナウイルス」を戦っている。
そしてそれをどうにかして乗り越えなければならない。
克服するのが早いか自然終息のほうが早いか。
人類の歴史を顧みれば後者が普通だが、
その場合、われわれは再発を覚悟しなければならない。
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そして再発したときにはウイルスの力が増しているか、
変異している可能性が大きい。
つまり、初期対応を誤れば再びパンデミックに陥ることは避けられない。
今回の新型コロナウイルスに感染しながら完全治癒した人間には免疫が備わるだろうが、
それは遺伝されることがないのだから。
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われわれが後世に伝えるべきは、
初期対応や感染防止の心得だろう。
その場合に大切なのは、現時点で声高に報道されている内容は片隅に置いて、
終息してからの科学的かつ客観的な調査報告に依拠すべきということ。
政治的色彩を帯びたものや偏見で覆われた内容では有害無益なことはいうまでもなく、
デマや根拠なき憶測であればなおさらである。
今回の新型コロナ騒動が一日も早く終息すること、
パンデミック終息後の世界が少しでも前向きなものとなることを願ってやまない。
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