6月30日 (金曜日) ②
27日の酷い風と豪雨の影響が出ている。
身内の住んでいる深谷・岡部・本庄あたりも酷かったらしい。
トウモロコシを作っている農家は軒並み倒れてしまって
やもえず、早めに獲ってしまわなくてはということで
従兄弟がおすそわけで持ってきてくれた。
十分生育していて甘い!美味しい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
急遽、青色パトロールの助手席の担当を頼まれて、小雨が散らつく中
16時から1時間小学校区の範囲を回る。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
下野新聞のコラム 雷鳴抄26日に
鉄幹の悔悛
~~~~
歌人の与謝野鉄幹(よさのてっかん)は、妻の晶子(あきこ)の
歌人としての才能にほれ込んでいた。
晶子が独身の頃、鉄幹の主宰誌に恋の歌をいくつも投稿し、
鉄幹はそれを歌集「みだれ髪」に編んだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼情熱的な歌集は明治時代の話題をさらったが、
夫婦になった2人の命運は後に分かれた。
大正に入ると鉄幹は歌壇から忘れられたような存在になる
一方、晶子の名声は高まるばかりだった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼2人は旅行でたびたび本県を訪れた。
1934年の正月、那須町の温泉旅館に宿泊した時だった。
晶子は狭心症の発作を起こした。この時に晶子が詠んだ歌がある。
「いと寒し崑崙(こんろん)山に降る如し病めば我がある那須野の雪も」。
鉄幹も歌に祈りを込めた。
「人の屑(くず)われ代り得ば今死なぬ天の才なる妻の命に」
▼歌を詠めずスランプに陥った鉄幹は、浮気を繰り返し晶子を泣かせたこともあった。
それを悔いて「くずのような自分が身代わりになり死んでもよい」と本気で思ったのだろう。
▼晶子は回復し、鉄幹は翌年病を得て死去した。
晶子は終生、鉄幹を「歌の師」として感謝していた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼晶子は女性の自立を訴えた社会評論でも知られた。
女性活躍は現代でも主要な政策課題である。
鉄幹の生涯は、晶子という才ある女性の活躍を支えた生涯でもあった。
今年は鉄幹の生誕150年。
塩原温泉には夫妻の歌碑が残されている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★中学2年の時、天田先生が担任で国語の教師で書道の達人でもあった。
何度か自宅にも行った。亡くなるまで付き合いが長かった。
ダメな私でも面倒を見てくれた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~^
その時何気に覚えてしまった短歌は今もすらっと言えるから不思議。
与謝野晶子の詩であった。
【清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき】
当時は京都・奈良にあこがれていたからなあ~!
祇園は美しい人ばかりだと・・・夢を見ていたなあ~!
27日の酷い風と豪雨の影響が出ている。
身内の住んでいる深谷・岡部・本庄あたりも酷かったらしい。
トウモロコシを作っている農家は軒並み倒れてしまって
やもえず、早めに獲ってしまわなくてはということで
従兄弟がおすそわけで持ってきてくれた。
十分生育していて甘い!美味しい。
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急遽、青色パトロールの助手席の担当を頼まれて、小雨が散らつく中
16時から1時間小学校区の範囲を回る。
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下野新聞のコラム 雷鳴抄26日に
鉄幹の悔悛
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歌人の与謝野鉄幹(よさのてっかん)は、妻の晶子(あきこ)の
歌人としての才能にほれ込んでいた。
晶子が独身の頃、鉄幹の主宰誌に恋の歌をいくつも投稿し、
鉄幹はそれを歌集「みだれ髪」に編んだ。
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▼情熱的な歌集は明治時代の話題をさらったが、
夫婦になった2人の命運は後に分かれた。
大正に入ると鉄幹は歌壇から忘れられたような存在になる
一方、晶子の名声は高まるばかりだった。
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▼2人は旅行でたびたび本県を訪れた。
1934年の正月、那須町の温泉旅館に宿泊した時だった。
晶子は狭心症の発作を起こした。この時に晶子が詠んだ歌がある。
「いと寒し崑崙(こんろん)山に降る如し病めば我がある那須野の雪も」。
鉄幹も歌に祈りを込めた。
「人の屑(くず)われ代り得ば今死なぬ天の才なる妻の命に」
▼歌を詠めずスランプに陥った鉄幹は、浮気を繰り返し晶子を泣かせたこともあった。
それを悔いて「くずのような自分が身代わりになり死んでもよい」と本気で思ったのだろう。
▼晶子は回復し、鉄幹は翌年病を得て死去した。
晶子は終生、鉄幹を「歌の師」として感謝していた。
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▼晶子は女性の自立を訴えた社会評論でも知られた。
女性活躍は現代でも主要な政策課題である。
鉄幹の生涯は、晶子という才ある女性の活躍を支えた生涯でもあった。
今年は鉄幹の生誕150年。
塩原温泉には夫妻の歌碑が残されている。
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★中学2年の時、天田先生が担任で国語の教師で書道の達人でもあった。
何度か自宅にも行った。亡くなるまで付き合いが長かった。
ダメな私でも面倒を見てくれた。
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その時何気に覚えてしまった短歌は今もすらっと言えるから不思議。
与謝野晶子の詩であった。
【清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき】
当時は京都・奈良にあこがれていたからなあ~!
祇園は美しい人ばかりだと・・・夢を見ていたなあ~!