20代後半に書いた雑文。
桜の花の咲く頃に
桜の花が咲く季節がもうじきやって来る。
この時期が近くなると、
決まって思い出す田舎の風景がある。
家の近所に、短い桜並木があって、その桜並木の緩やかな坂道を歩いていくと(道路は舗装されていない土の道)
奥には深緑の水源地と山がある。
坂道の上から下を見ると、桜並木の向こうには
道路を挟んで、海が見える。
桜並木の横には小さな川が流れていて、子どもの頃はこの浅い川で遊んだ。
梅雨の時期になると、恐ろしいほどの数の赤手ガニを見る事ができた。
雨上がりに、石垣の間から無数の「アカテガニ」が顔を出している光景など、
今の子どもたちは目にかかる機会は少ないであろう自然の光景だ。
川に生息し、海で産卵するという「アカテガニ」にとって、海、川、山があるこの場所は格好の住処だったのだ。
桜の花の散る頃には、ざわざわ、、という木々の音とともに、桜の花びらが、さ~っと散る様を見るのがたまらなく好きだった。
花びらが散ると、土色の道は淡いピンクの絨毯を敷き詰めたような色になり、踏みつけるのがもったいないような気がした。
桜の花の 散り様の潔さは、美しいだけではなく、心を強く突き動かされるような感動を覚え
数十年たった今でも当時の風景をはっきり思い出す事ができるのである。
わたしの父は8年前、
55歳のとき、膵臓がんで亡くなった。
わたしが29歳のときである。
いつの頃からか桜の花の咲く時期が近づくと胸が騒ぎ出し、胸が締め付けられるようになっていた。
それは多分、父が亡くなる前、病室のベッドの上から、窓の外桜のつぼみを眺めながら、桜の咲く頃には、故郷に帰省するわたしと孫に会う事ができると、ずっと心待ちにしていた父を思ってかもしれない。
父の危篤の連絡がはいり、わたしはすぐに実家に帰省したが父の死に目には会えなかった。
その時の心残りが、桜の咲く時期になると、当時の思いを彷彿させるのかも知れない。
昔桜の散る音を聞いた歌人がいたらしい。
余命いくばもないこの詩人、研ぎ澄まされた病人の神経には桜の散る音が
血の流れる音のように、桜の散る音が聞えたと詠っていた。
その昔、桜の木の下には人の亡骸が眠っているといわれていた。
桜の花が美しいのは、命のすべてを吸い取って
生きているからかもしれない。
桜は散っても、又蘇る。
それはまるで、永遠の命のように思い出させてくれるように。