リアとコーディリアの危機に度を失わなかったのはエドガーであった。
急ぎ、そして確実に事を行なうことが必要であった。彼は、自ら使者になり、エドマンドに誰が二人を虐殺を行なうかを問い質す。そしてエドマンドの剣を持って虐殺命令を撤回しに、急ぎその場を出るのだった。
急ぎ、そして確実に事を行なうことが必要であった。彼は、自ら使者になり、エドマンドに誰が二人を虐殺を行なうかを問い質す。そしてエドマンドの剣を持って虐殺命令を撤回しに、急ぎその場を出るのだった。
Edgar: To who, my lord ? Who has the office ? send Thy token of retrieve. Edmund: Well thought on: take my sword, Give it to the captain. Albany: Haste thee, for thy life. [Exit Edgar] Edmund: He hath commission from thy wife and me To hang Cordelia in the prison, and To lay the blame upon her own despair, That she fordid herself. エドガー:(オールバニーに対して)閣下、誰にご命令を? (エドマンドに対して)誰がその命令書を持っているのだ? 何か、おまえの印を、命令を取り消すために エドマンド: よく気がつかれた。俺の剣を持っていって、隊長に見れば。 オールバニー: 急げ、命がけだぞ [エドガー退場] エドマンド: 隊長には、あなたの奥方と俺が命令を出したのです。 コーディリア様を獄中で締め殺し、しかも絶望の余り 自ら命を絶ったと見せるようにと。
はじめてこの劇を見る観客は、エドガーが間に合って、孝心深く高貴な心を持ったコーディリアが生き長らえて年老いた父親を世話をするというハッピーエンドを願うだろうが、作者・シェークスピアは、そのように考えなかった。
彼は、犯罪者の犯罪と、愚かな人々の過ちとは、彼らを不幸に陥らせるばかりではなく、無実の人々をも巻き込んでしまうものだということを見せようとしたのではないだろうか。
よって、ここはコーディリアは死ななければならなかったのだ。
彼は、犯罪者の犯罪と、愚かな人々の過ちとは、彼らを不幸に陥らせるばかりではなく、無実の人々をも巻き込んでしまうものだということを見せようとしたのではないだろうか。
よって、ここはコーディリアは死ななければならなかったのだ。
エドマンドの改悛は、遅すぎた。エドガーは間に合わず、リアがコーディリアの遺骸を腕に抱えて引きずって来るのに出会うのがやっとだった。
彼女は死んでしまっており、回生の見込みはなかった。リアもまた気が狂っている。
コーディリアを絞め殺した奴を殺したときの激怒のために、彼は正気を失ってしまった。もはやオールバニーやケントを見ても、それを知ることができない。ゴネリルやリーガンの死の知らせも受け取ることができなかった。
Albany: He knows not what he says: and vain it is That we present us to him. オールバニー: 国王は仰ることが、御自分にも分かっておいでにならぬらしい、 名前を申し上げても致し方あるまい。
ここで以前に述べたコーディリアの「無(nothing)」の持つ第2の重要性について記述する。
それはキリスト的人物と観るということだ。
コーディリアは、何も悪いことをしていないのにもかかわらず殺されてしまう。これは、人類全体の罪をあがなうために自ら十字架に掛けられて殺されたキリストと同じだ、という見方である。
人類全体がキリストの死によって救済されるように、リアはコーディリアの死によって救われると解釈できる。すると、最終幕で、殺されたコーディリアの遺骸を抱えて登場するリアの姿は、十字架をおろされたキリストの遺骸を抱き嘆く聖母マリアの姿、ピエタの図像と重ね合わせられる。
キリスト教では、神である主が、人類のために、自らを「無」として、人間の姿であるキリストとなり、自らを犠牲にすることで人類の罪をあがなった、と考える。これは新約聖書の中で、パウロが「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分となり、人間と同じ者になられた」とあり、したがって、コーディリアをこれに当てはめると、彼女の台詞である「無(nothing)」は、何もないということではなく、彼女が神にさえ比べられる人物であるという意味を持つのだ。
それはキリスト的人物と観るということだ。
コーディリアは、何も悪いことをしていないのにもかかわらず殺されてしまう。これは、人類全体の罪をあがなうために自ら十字架に掛けられて殺されたキリストと同じだ、という見方である。
人類全体がキリストの死によって救済されるように、リアはコーディリアの死によって救われると解釈できる。すると、最終幕で、殺されたコーディリアの遺骸を抱えて登場するリアの姿は、十字架をおろされたキリストの遺骸を抱き嘆く聖母マリアの姿、ピエタの図像と重ね合わせられる。
キリスト教では、神である主が、人類のために、自らを「無」として、人間の姿であるキリストとなり、自らを犠牲にすることで人類の罪をあがなった、と考える。これは新約聖書の中で、パウロが「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分となり、人間と同じ者になられた」とあり、したがって、コーディリアをこれに当てはめると、彼女の台詞である「無(nothing)」は、何もないということではなく、彼女が神にさえ比べられる人物であるという意味を持つのだ。