最近経済の勉強不足のせいか「楢篠賢司の人間とは」で続けてきた貨幣論を年のせいか書けなくなってしまった。またはただ年のせいにしているだけかもしれない。そこでこの暫く休止していたブログを使い今まで書いてきた文章を誰でも理解しやすいように書き直していきたい。
手始めは貨幣(お金)とは何かというところから始めてみたい。その前によく現代または過去にも言われているように人はお金の奴隷に成り下がってしまったと言われることがある。
かっての奴隷は人間そのものの売り買いであり、その奴隷が持つ労働を買ってはいるが、奴隷主がその奴隷が不必要となればいつでも手放すことができた。奴隷主に労働で返すことができないときはじめてその奴隷は自由の身となることができた。だがその自由とは衣食住を断ち切られた自由であり、生きることにおいては不自由そのものでしかない。奴隷が労働価値が無くなった時それは死を意味した。
現在の人間は労働をするにもしないにも自由であるが、しなかったとき、またはすることができなかったときかっての奴隷と同じような宿命が待ち構えているのではないだろうか。それはお金を得ることができなかったとき、何としても生きていくためにお金を得なくてはならない。若い女性であればいくらでも体を売ってお金を得ることができる。しかし男性の場合生きるためのお金を得るために長時間働くこともあれば、人が嫌がる仕事でもしなくてはならない。つまりお金を得る、それは人に使えるのではなくお金に仕えているという錯覚からきた言葉であろう。人はお金の奴隷になっている。
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