『発言小町』でまた「左利きの人は、マナーがなっていないと思われますか?」というやりとりが為されています。
正直なところ、もういい加減こういう議論はおしまいにして欲しい、と感じます。
世の中にはもっと他に大事な考えなければいけないことがあるだろう、と思うのです。
第一今更、左利きがマナー違反だなどという考えを持つ人がいるというのが、考えられません。
とはいえ、実際にこの掲示板に掲げられている意見を見ますと、そう思っている人がいらっしゃるわけで、へえーっとびっくりです。
ぜひ、こちらをお読みいただきたいと思います。
↓
大阪府/人権学習シリーズ 左利きの国?!
もしくは
左利きの国?!(Adobe PDF)
少しは考えが変わるのではないでしょうか。
・・・
私の意見を言いますと―
(1)左利きは身体的特質の一つにすぎない
本来、左利きというのは、背が高いとか低いとか、肌の色が白いとか黒いとか黄色いとかいうのと同じで、身体的な性質にすぎません。
本人が選んだわけでもなく、自然に生まれついて持っている性質です。
無精ひげを伸ばしているのは、マナー違反かもしれませんが、顔が不細工なのはマナー違反とは言えないでしょう。
「おまえの顔が不細工やから見ていると気持ちが悪くなる」と言って批判することは許されるでしょうか?
こういう身体的特質をどうこう言うということは、実は差別につながる危険な考えなのだ、ということです。
例えば、一目で右手が不自由な人と分かる人が左手を使っていたときに、マナー違反だという人はいないでしょう。
それならば、左利きの人が左手を使っているのが、なぜマナー違反になるのでしょう?
左利きだということは、裏返して言えば、右手が不自由だという意味でもあるのです。
少なくとも得意ではない、と考えられるのです。
そういう人に対してマナー違反だなどという発言はどうなのでしょうか?
人間として思いやりに欠ける言葉です。
その辺を考えていただきたいものです。
金子みすゞの歌う《みんなちがって、みんないい》の世界です。
(2)利き手は変わらない
左利きという身体的特質に対して、ここで「マナー違反だ」という人たちは誤解をしているのです。
「利き手というものは、訓練すれば直せるものだ」と考えているということです。
ところが実はそういうものではなく、一般に「右利き」もしくは「左利き」と呼ぶ、どちらを優先的に用いるかという「左右の偏り」には度合いがあり、その度合いの強さ弱さに個人差があるのです。
偏りの度合いが弱ければ、逆の手を使うことも可能な場合があり、そうでなければ難しい、ということになります。
訓練の結果「直せた」「変えた」という人は、単に元々そういう傾向を秘めていたというだけのことで、努力の結果もいくらかはあるにしても、その実は隠れていた固有の性向が現れたにすぎないのです。
しかもそういう訓練の成果は、訓練した事柄のみに留まり、他の場面には波及しないものです。
(3)形式にこだわるのではなく、本質を見よう
日本人は形式にこだわるところが強いようです。
物事を始めるとき、形から入るのは、初心者でもマネしやすい入門方法です。
しかし、それはあくまでも便宜的な方法で、形すなわち本質ではありません。
形から入りは本質に至るのが、正道でしょう。
形は手段であり、目的ではないのです。
ところが、形を究めることがゴール(目的)になってしまっている悪い例も少なくないように感じます。
形から入り形をマスターすることで完結してしまっている悪い例の一つが、いわゆる「左利きはマナー違反」といった批判でしょう。
昔は「右手使いが正しい作法」とされてきました。
それは左利き、利き手/利き側といった性質の意味が理解できていなかったからです。
しかし、今日左利きというものが一つの身体的特質であることが明らかになりました。
表面的な形質で物事を見るのではなく、その奥にある本質を見極めて、物事を判断することで大切です。
サン=テグジュペリ『星の王子さま』に《大切なものは目に見えない》という言葉があります。
(4)「左利きを矯正する/直す」という表現を放置しているから解決しない
私の思うに、いつまでもこのような左手使いはマナー違反、という考え方がなくならないのは、「左利きを矯正する」とか「直す」という表現をやめないからです。
「右手使いが正しい作法である」という昔の考え方に基づいてこのような表現がなされているのです。
「矯正する」「直す」とは、「欠点や誤りを正すこと」「正常な状態に戻すこと」を言います。
左利きにこの表現を使う時点で、左利きは「欠点」もしくは「誤り」「間違ったこと」と認めていることになります。
そういう状況を続けているために、左利きや利き手・利き側について無知な人たちが、誤解することになるのです。
(1)にも書きましたように、左利きはいいとか悪いとか言うものではなく、単なる身体的特質にすぎないのです。
*参照
『レフティやすおの左組通信』
「<私論2>右手使いへの変更(左利き矯正)について」
[アンケート]「矯正」という言葉の不使用のお願いアピールについて
・・・
この問題に関しましては、来年から、メルマガ『左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii』の第二土曜発行分で月一連載しています、
「左利きのお子さんをお持ちの親御さんへ」におきまして、<PART19>として「左利きとマナー」について考察していく予定です。
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※本稿は、ココログ版『レフティやすおのお茶でっせ』より
「左利きはマナー違反か?」を転載したものです。
(この記事へのコメント・トラックバックは、転載元『お茶でっせ』のほうにお願い致します。ただし承認制になっていますので、ただちに反映されません。ご了承ください。)
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正直なところ、もういい加減こういう議論はおしまいにして欲しい、と感じます。
世の中にはもっと他に大事な考えなければいけないことがあるだろう、と思うのです。
第一今更、左利きがマナー違反だなどという考えを持つ人がいるというのが、考えられません。
とはいえ、実際にこの掲示板に掲げられている意見を見ますと、そう思っている人がいらっしゃるわけで、へえーっとびっくりです。
ぜひ、こちらをお読みいただきたいと思います。
↓
大阪府/人権学習シリーズ 左利きの国?!
もしくは
左利きの国?!(Adobe PDF)
少しは考えが変わるのではないでしょうか。
・・・
私の意見を言いますと―
(1)左利きは身体的特質の一つにすぎない
本来、左利きというのは、背が高いとか低いとか、肌の色が白いとか黒いとか黄色いとかいうのと同じで、身体的な性質にすぎません。
本人が選んだわけでもなく、自然に生まれついて持っている性質です。
無精ひげを伸ばしているのは、マナー違反かもしれませんが、顔が不細工なのはマナー違反とは言えないでしょう。
「おまえの顔が不細工やから見ていると気持ちが悪くなる」と言って批判することは許されるでしょうか?
こういう身体的特質をどうこう言うということは、実は差別につながる危険な考えなのだ、ということです。
例えば、一目で右手が不自由な人と分かる人が左手を使っていたときに、マナー違反だという人はいないでしょう。
それならば、左利きの人が左手を使っているのが、なぜマナー違反になるのでしょう?
左利きだということは、裏返して言えば、右手が不自由だという意味でもあるのです。
少なくとも得意ではない、と考えられるのです。
そういう人に対してマナー違反だなどという発言はどうなのでしょうか?
人間として思いやりに欠ける言葉です。
その辺を考えていただきたいものです。
金子みすゞの歌う《みんなちがって、みんないい》の世界です。
(2)利き手は変わらない
左利きという身体的特質に対して、ここで「マナー違反だ」という人たちは誤解をしているのです。
「利き手というものは、訓練すれば直せるものだ」と考えているということです。
ところが実はそういうものではなく、一般に「右利き」もしくは「左利き」と呼ぶ、どちらを優先的に用いるかという「左右の偏り」には度合いがあり、その度合いの強さ弱さに個人差があるのです。
偏りの度合いが弱ければ、逆の手を使うことも可能な場合があり、そうでなければ難しい、ということになります。
訓練の結果「直せた」「変えた」という人は、単に元々そういう傾向を秘めていたというだけのことで、努力の結果もいくらかはあるにしても、その実は隠れていた固有の性向が現れたにすぎないのです。
しかもそういう訓練の成果は、訓練した事柄のみに留まり、他の場面には波及しないものです。
(3)形式にこだわるのではなく、本質を見よう
日本人は形式にこだわるところが強いようです。
物事を始めるとき、形から入るのは、初心者でもマネしやすい入門方法です。
しかし、それはあくまでも便宜的な方法で、形すなわち本質ではありません。
形から入りは本質に至るのが、正道でしょう。
形は手段であり、目的ではないのです。
ところが、形を究めることがゴール(目的)になってしまっている悪い例も少なくないように感じます。
形から入り形をマスターすることで完結してしまっている悪い例の一つが、いわゆる「左利きはマナー違反」といった批判でしょう。
昔は「右手使いが正しい作法」とされてきました。
それは左利き、利き手/利き側といった性質の意味が理解できていなかったからです。
しかし、今日左利きというものが一つの身体的特質であることが明らかになりました。
表面的な形質で物事を見るのではなく、その奥にある本質を見極めて、物事を判断することで大切です。
サン=テグジュペリ『星の王子さま』に《大切なものは目に見えない》という言葉があります。
(4)「左利きを矯正する/直す」という表現を放置しているから解決しない
私の思うに、いつまでもこのような左手使いはマナー違反、という考え方がなくならないのは、「左利きを矯正する」とか「直す」という表現をやめないからです。
「右手使いが正しい作法である」という昔の考え方に基づいてこのような表現がなされているのです。
「矯正する」「直す」とは、「欠点や誤りを正すこと」「正常な状態に戻すこと」を言います。
左利きにこの表現を使う時点で、左利きは「欠点」もしくは「誤り」「間違ったこと」と認めていることになります。
そういう状況を続けているために、左利きや利き手・利き側について無知な人たちが、誤解することになるのです。
(1)にも書きましたように、左利きはいいとか悪いとか言うものではなく、単なる身体的特質にすぎないのです。
*参照
『レフティやすおの左組通信』
「<私論2>右手使いへの変更(左利き矯正)について」
[アンケート]「矯正」という言葉の不使用のお願いアピールについて
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この問題に関しましては、来年から、メルマガ『左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii』の第二土曜発行分で月一連載しています、
「左利きのお子さんをお持ちの親御さんへ」におきまして、<PART19>として「左利きとマナー」について考察していく予定です。
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※本稿は、ココログ版『レフティやすおのお茶でっせ』より
「左利きはマナー違反か?」を転載したものです。
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