レフティやすおの新しい生活を始めよう!

50歳からが人生の第二段階、中年の始まりです。より良き老後のために良き習慣を身に付けて新しい生活を始めましょう。

中国の古典編―漢詩を読んでみよう(22)建安の七子、竹林の七賢-楽しい読書341号

2023-05-03 | 本・読書
古典から始める レフティやすおの楽しい読書【別冊 編集後記】

2023(令和5)年4月30日号(No.341)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(22) 建安の七子、竹林の七賢」



------------------------------------------------------------------
◇◆◇◆ 古典から始める レフティやすおの楽しい読書 ◆◇◆◇
------------------------------------------------------------------
2023(令和5)年4月30日号(No.341)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(22) 建安の七子、竹林の七賢」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 「中国の古典編―漢詩を読んでみよう」22回目です。

 今回も引き続き、魏の「建安の七子」の詩から王粲「七哀の詩」、
 「竹林の七賢」の詩から阮籍「詠懐詩」を取り上げます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

◆ 天才少年の詩/竹林の七賢 ◆

 中国の古典編―漢詩を読んでみよう(22)

  ~ 建安の七子から、王粲「七哀の詩」 ~

  ~ 竹林の七賢から、阮籍「詠懐詩」 ~

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今回の参考文献――

『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
 江原正士、宇野直人/著 平凡社 2010/4/20
「六、抵抗と逃避のあいだに――三国時代から魏へ」より


 ●建安の七子・王粲「七哀の詩」――天才少年の詩

「建安の七子」については、前回までにもお話ししてきました。

後漢最後の年号・建安(196-220)の時代に、
魏で開花した新しい文学は建安文学と呼ばれ、「建安の七子」とは、
曹操が主宰したこの魏の文壇サロンに集まった優秀な文人たち――
孔融(こうゆう)・徐幹(じょかん)・応瑒(おうとう)・陳琳(ちんりん)・
劉楨(りゅうてい)・阮瑀(げんう)・王粲(おうさん)の七人の総称です。

まずは王粲(177-217)。
王粲は、劉楨と並んで曹操親子を助けた双璧とのこと。
この『漢詩を読む 1』では、江原正士さんが
水戸黄門の助さん格さんのように例えています。

名門出身の天才肌で、若くして亡くなったとき、
追悼文を曹植が書いている褒めているそうです。

長安にいた十代の頃のエピソードとして、
当時の文壇のボス・蔡邕(さいよう)を訪問したときの話があります。
蔡邕が体格の貧弱な小男を迎えに出たのを客たちが驚くと、
私も叶わぬ天才少年だと紹介した、といいます。


今回紹介します「七哀の詩」は、
曹操に仕える前、17歳の時の詩です。
魏の覇権が確立する前、戦乱の世の民衆の悲惨な状況を
《ドキュメンタリータッチ》で詠っています。

江原正士さんは、後世の杜甫の詩風に似ている、と。
対して宇野直人さんは、
建安の七子の作品はたくさん『文選(もんぜん)』に収録されていて、
杜甫はこれを熟読していたので、《栄養分を吸収したでしょう》と。

 ・・・

七哀詩(しちあいし)三首  七哀の詩三首  王粲(おうさん)

 其一            其の一

西京乱無象  西京(せいけい) 乱(みだ)れて象(しよう)無(な)く
豺虎方遘患  豺虎(さいこ) 方(まさ)に患(わざはひ)を遘(かま)ふ
復棄中国去  復(ま)た中国(ちゆうごく)を棄(す)てて去(さ)り
委身適荊蛮  身(み)を委(い)して荊蛮(けいばん)に適(ゆ)く

親戚対我悲  親戚(しんせき) 我(われ)に対(たい)して悲(かな)しみ
朋友相追攀  朋友(ほうゆう) 相(あひ)追攀(ついはん)す
出門無所見  門(もん)を出(い)づれども見(み)る所(ところ)無(な)く
白骨蔽平原  白骨(はつこつ) 平原(へいげん)を蔽(おほ)ふ

路有飢婦人  路(みち)に飢(う)ゑたる婦人(ふじん)有(あ)り
抱子棄草間 子(こ)を抱(いだ)いて草間(そうかん)に棄(す)つ
顧聞号泣声 顧(かへり)みて号泣(ごうきゆう)の声(こえ)を聞(き)き
揮涕独不還  涕(なみだ)を揮(ふる)つて独(ひと)り還(かへ)らず

未知身死処  未(いま)だ身(み)の死(し)する処(ところ)を知(し)らず
何能両相完  何(なん)ぞ能(よ)く
        両(ふた)つながら相(あい)完(まつた)うせん
駆馬棄之去  馬(うま)を駆(か)つて 之(これ)を棄(す)てて去(さ)り
不忍聴此言  此(こ)の言(げん)を聴(き)くに忍(しの)びず

南登霸陵岸  南(みなみ)のかた霸陵(はりよう)の岸(きし)に登(のぼ)り
回首望長安  首(かうべ)を回(めぐ)らして
        長安(ちようあん)を望(のぞ)む
悟彼下泉人  悟(さと)る 彼(か)の下泉(かせん)の人(ひと)の
喟然傷心肝  喟然(きぜん)として心肝(しんかん)を傷(いた)ましむるを


「第一段」――自分はこれから都落ちすると述べる。

 長安はすっかり乱れ、礼儀も秩序もなくなった
 山犬や虎のような凶悪な連中が今まさに災いを行っている
 私は国の中心を見捨てて去り、身を守ってもらうべく南の方、
 荊州地方に赴くことにした

「第二段」――長安を発つ別れの場面と郊外の悲惨な状況。

 親戚たちは私の前で別れを悲しみ、
 友人たちは追いすがるようにしてくれた
 町の門を出て行くと見えるものは何も無く、
 ただ白骨が野原を一面に蔽っているばかりだ

「第三段」――道中で母と子を見かける痛ましい場面。

 途中、飢えた女性が、
 抱っこしていた赤ん坊を草むらに置き去りにした
 彼女は振り返って赤ん坊のあき越えを聞いていたが、
 涙をほとばしらせたまま、もはや戻ろうとはしなかった

「第四段」――次の二句は母の台詞。

 私自身、自分の死に場所がわかりません
 ましてこの子と二人、両方とも生き永らえることは無理でしょう

 (それを聞いて、)私は馬を走らせてそこを逃れた
 彼女の言葉をそれ以上聞いていられなかったのだ

「第五段」――よき前漢時代を思い出し、
       これからの平和への願望をにじませて終わります。

 私はやがて覇陵に向かい、文帝の墓のほとりの高台に登った
 そして振り返って都長安を眺めた
 今こそよくわかった、むかし、「下泉(かせん)」の歌を歌って
 古(いにしえ)の明君を慕っていた人びとの心境が


「下泉」は『詩経』におさめられた歌謡の一つで、
悪政のもとで民衆が昔の明君を思った心を詠んだもの。

また「黄泉の国、あの世」の意味もあり、
世を去った文帝や前漢の全盛時代を担った人たちが
この乱世を悲しんでいるだろうという意味にも取れる、といいます。

王粲は、曹操に認められてからは、若くして重臣の扱いとなり、
その後、このような実録風の詩は作れなかったのかも、といいます。


 ●竹林の七賢・阮籍「詠懐詩」

魏は曹操のあと、曹丕と曹植の勢力争いや、
曹丕のあとを継いだ息子・曹叡(そうえい)が優秀な君主でなく、
軍事面を将軍の司馬氏に一任、その司馬氏がだんだん権力欲を強め、
軍事クーデターを起こすと、反発する知識人たちが出てきました。

この司馬氏が勢力を強めた魏の後半から晋に移り変わるころ、
世の中の表面から隠れて政府の批判を続ける地方の知識人たちが
一定の力を持つようになります。
このような人たちを「逸民(いつみん)」と呼ぶそうで、
その流れは後漢の末期から続いていると言われ、
そこから出てきたのが、「竹林の七賢」(竹林にこもった七人の賢人)
と呼ばれる人たちでした。

阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(こうしゆう)・
劉伶(りゆうれい)・王戎(おうじゆう)・阮咸(げんかん)です。

司馬氏が自分の立場を正当化するために、
儒教を悪用して《支配―従属化の論理》にしてしまったことに反発し、
世間の常識に背を向けて山に籠もり詩を作り、
儒教の対極にある老荘思想に傾倒したり、体制の外で生きる彼らは、
一層の名声を得ました。

阮籍は「竹林の七賢」の代表格で、
七賢の中には権力の怒りにふれて殺された人もいるのですが、
狂人を装って難を逃れ、生き延びました。

本書『漢詩を読む 1』では、
阮籍(げんせき 210-260)という人が選んだ生き方を表す言葉として、
《凍(い)てつける孤独》という見出しをつけています。

 ・・・

詠懐詩(えいかいし)八十二首  阮籍(げんせき)

 其一     其の一

夜中不能寐  夜中(やちゅう) 寐(い)ぬる能(あた)はず
起坐弾鳴琴  起坐(きざ)して鳴琴(めいきん)を弾(だん)ず
薄帷鑑明月  薄帷(はくい)に明月(めいげつ)鑑(て)り
清風吹我襟  清風(せいふう) 我(わ)が襟(えり)を吹(ふ)く

孤鴻号外野  孤鴻(ここう) 外野(がいや)に号(さけ)び
翔鳥鳴北林  翔鳥(しようちよう) 北林(ほくりん)に鳴(な)く
徘徊将何見  徘徊(はいかい)して将(は)た何(なに)をか見(み)る
憂思独傷心  憂思(ゆうし)して独(ひと)り心(こころ)を傷(いた)ましむ


(前半)

 夜中になっても寝つくことができず、起き出して座り、
 琴をつまびいて気晴らしをしようとした
 窓辺の薄いとばりに明るい月が照り、
 吹きこむ夜風が私の襟元をなでる

 群れからはぐれた一人ぼっちの鴻(おおとり)が遠い野原で泣き叫び、
 夜空を巡り舞う小鳥たちが北の方の森で泣いているのが聞こえる
 私はこうしてうろうろとさまよって、
 いったい何を見ようとしているのか
 かくして私は一人恐れ悩み、心を苦しめるばかりである


寂しい詩で、月の出た夜、悩みがあって眠れず外に出て行くという
「古詩十九首」や曹植にもあるパターンですが、
それらにある艶めかしさやロマンの雰囲気はなく、冷え切っています。
《夜の闇の中、何も希望がない》と訴えています。
「詠懐」とは、《自分の宗男奥底に秘めた気持ちを用心深く歌い出す》
という、阮籍が開拓した詩題です。
象徴や比喩、神話の世界を引用しながら、注意深く自分の思いを告白し、
狂気を装った奥に隠れた本音が見えてきます。

阮籍は、とんちんかんなエピソードが多い人物として知られ、
気に入った人は黒眼で応対し、嫌なヤツは白眼で応対したといわれ、

人の好き嫌いが激しいことを「青眼白眼」といったり、「白い眼で見る」
「白眼視する」という言い方もここから出ているといいます。

そのような奇行を計算してやっていたのだろうと言われています。

中国の知識人は常に政治の現場とつながりがあり、
生き延びるのも大変だった、と宇野さんの解説にあります。


 ●阮籍「詠懐詩」八十二首其十七

詠懐詩(えいかいし)八十二首  阮籍(げんせき)

 其十七    其の十七

独坐空堂上  独(ひと)り座(ざ)す 空堂(くうどう)の上(うえ)
誰可与歓者  誰(たれ)か 与(とも)に歓(よろこ)ぶ可(べ)き者(もの)ぞ
出門臨永路  門(もん)を出(い)でて永路(えいろ)に臨(のぞ)むに
不見行事馬  行(ゆ)く車馬(しやば)を見(み)ず

登高望九州  高(たか)きに登(のぼ)りて
        九州(きゆうしゆう)を望(のぞ)めば
悠悠分曠野  悠悠(ゆうゆう)として 曠野(こうや)分(わ)かる
孤鳥西北飛  孤鳥(こちよう) 西北(せいほく)に飛(と)び
離獣東南下  離獣(りじゆう) 東南(とうなん)に下(くだ)る

日暮思親友  日暮(にちぼ) 親友(しんゆう)を思(おも)ひ
晤言用自写  晤言(ごげん)して 用(もつ)て自(みづか)ら写(のぞ)かん


(第一段)
 たった一人で、誰もいない座敷に座っている
 一緒に親しく語り合うにふさわしい人は誰か、いやその相手はいない
 気晴らしに家の門を出て、遙かに続く路上にたたずんでみても、
 道を行く馬車や馬は見えない

(第二段)
 高い山に登って見渡す限り天下を眺めても
 はるばると遙かに大平原が続いてゆくだけだ
 たった一羽の鳥が西北を目指して飛び、
 群れを離れた獣が東南へと駆け下って行った

(結び)
 やがて暮れ方となり、懐かしい親友のことを思い出した
 なんとか彼と語り合って、
  自分からつらい気持ちを晴らしてしまいたいものだ


自身の孤独感を強調した詩。

最初の四句で、《私には友だちがいない》と歌い出し、
門を出ても人はいないというのは、実際に町に出れば人はいるので、
《心象風景でしょう》といいます。
《心を許せる人がどこにもいない、その孤独感を示す》。
第二段では、九州とは中国を指すことばで、
中国のどこにも友達はいない、自分は一人ぼっちだ、という喪失感。
鳥や獣も関わりを持つことなく、主人公の孤独感を強調します。

 《心のなかに風が吹く、なんともいえない詩です。
  屈原の時代から、中国の知識人の悩み、絶望の系譜は
  ずっと受け継がれているんですね。》p.246


 ●私の読後感想を少し……

建安の七子の代表、王粲「七哀の詩」の
戦乱の世の民衆の悲惨さを描く詩を読んでいますと、
昔職場の上司からお聞きした、
戦中の大阪大空襲の翌日の風景のお話を思い出します。
学徒動員で工場勤務していたそうで、路上に死傷者が……。

ロシアのウクライナ侵攻に関しても、同様に、
悲惨な状況が展開されているようです。
戦争というものは、上に立つ権力者の都合で、
結局苦しむのは一般庶民ということなんでしょうか。

竹林の七賢・阮籍「詠懐詩」の孤独感についても、
まあ、なんともいえないものがあります。
私も結構孤独に生きてきた日があり、
私の場合は自分の勝手な思い込みでもあったのですが、
ある種のつらさがあります。

今回のコロナ禍にあっても、
そういう孤独地獄に堕ちている人も少なくなかったのではないでしょうか。
まわりを見渡せば、
何かしら逃げる余地があるかもしれないのですけれど、
それが見えなくなってしまう瞬間というものがあります。

人は、やはり人にしか助けられない、人にしか助けてもらえない、
そういうものなのではないでしょうか。


*参考文献:
『阮籍の「詠懐詩」について』吉川 幸次郎 岩波文庫 1981/4/16

―《竹林の七賢の巨頭・阮籍は陰謀と詐術うずまく魏晋時代(三世紀)に
 生き,「詠懐詩」八十二首を残した.著者は,これを中国詩のうち最も
 調子の高いものだと評し,またその人物を敬愛してやまぬ.表題作は
 「詠懐詩」に斬新大胆な読みを加え,中国詩史上,五言詩が阮籍におい
 て真に一つの文学形式となったことを論証する》



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

本誌では、「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(22) 建安の七子、竹林の七賢」と題して、今回も全文転載紹介です。

今回は、建安の七子から、王粲「七哀の詩」、竹林の七賢から、阮籍「詠懐詩」を、一部紹介しました。

戦乱の時代を生き抜いた人たちの詩です。

現代においてもどこかしらあちこちで戦乱が続いています。
なんとかならないものか、と。
政治の問題というのか、権力争いなのか、なんとも頭の痛い問題です。

 ・・・

*本誌のお申し込み等は、下↓から
(まぐまぐ!)『(古典から始める)レフティやすおの楽しい読書』

『レフティやすおのお茶でっせ』
〈メルマガ「楽しい読書」〉カテゴリ

--
『レフティやすおのお茶でっせ』より転載
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(22)建安の七子、竹林の七賢-楽しい読書341号--
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする