古典から始める レフティやすおの楽しい読書-327号【別冊 編集後記】
2022(令和3)年9月31日号(No.327)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(18)三国志の詩人・曹操」
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◇◆◇◆ 古典から始める レフティやすおの楽しい読書 ◆◇◆◇
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2022(令和3)年9月31日号(No.327)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(18)三国志の詩人・曹操」
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6月以来の「中国の古典編―漢詩を読んでみよう」の18回目です。
最近、飛び飛びになることが多いのですが、
勉強が進んでいないということで、ご容赦ください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◆ 名君のような印象を与える詩 ◆
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(18)三国志の詩人・曹操
三国志の世界から
~ 曹操「苦寒行」「亀雖寿」 ~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今回の参考文献――
『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
江原正士、宇野直人/著 平凡社 2010/4/20
「六、抵抗と逃避のあいだに――三国時代から魏へ」より
●三国志―魏の曹操
『三国志演義』の前半に活躍し、魏を建国した曹操は、
詩人としても知られているそうです。
曹操の家系は宦官で、お父さんが宦官の養子になった人。
宦官は前回まで紹介してきました「古詩十九首」のころ、
知識人を政権から追い出した敵ともいうべき存在でしたね。
さてその曹操は、そういう家系が人格形成に影響したのか、
権力志向で野望のままにのし上がっていった印象の人だといいます。
後漢の末、
曹操は黄巾の乱を討伐し、朝廷から官位をもらい、頭角を現しました。
曹操は洛陽での董卓の反乱に乗じ、後漢最後の皇帝を擁して将軍となり、
ライバルたちを滅ぼし、北中国を支配し、「魏」を建国します。
続いて南中国の征服を目指しますが、
独立を果たしていた「呉」と「蜀」は、手を組んでこれを迎え撃ちます。
これが「赤壁の戦い」(208年)で、以後、魏・呉・蜀の三国時代に――。
曹操は都に一流の文人を集め、文化に力を入れます。
彼が集めた文人のなかでも特に優れた七人を
「鄴下の七子(ぎょうかのしちし)」または「建安の七子」と呼びます
(「鄴」は曹操が都を置いた町の名、「建安」は後漢最後の年号)。
曹操自身と二人の息子、曹丕(そうひ)・曹植(そうしょく)を合わせて、
文才に優れた「三曹(さんそう)」と呼びます。
この「三曹七子」によって、五言詩は大きく展開していったといいます。
●曹操「苦寒行」
まずは、曹操の詩から。
魏の政権が固まる前、各地に反対派のいる中、
一つの集団を征伐にでかける過程で詠まれた詩。
反乱の一つを収めて都に戻る途上で作られた、という説もある。
「寒さに苦しむ歌」という訳になるでしょうか。
苦寒行 苦寒行(くかんこう) 曹操
北上太行山 北(きた)のかた太行山(たいこうざん)に上(のぼ)ると
艱哉何巍巍 艱(かん)なる哉(かな) 何(なん)ぞ巍巍(ぎぎ)たる
羊腸坂詰屈 羊腸(ようちよう)の坂(さか) 詰屈(きつくつ)たり
車輪為之摧 車輪(しやりん) 之(これ)が為(ため)に摧(くだ)かる
我々は北に向かって太行山に登る
その山道はまことに険しい
なんとまあ山が高くそびえているのだろう
うねうねと続く坂道は曲がりくねっていて
車輪もそのためにこわれてしまいそうだ
――四句ごと六段に別れ、
第一段は、軍隊が行く山道の険しさを述べる導入。
樹木何蕭瑟 樹木(じゆもく) 何(なん)ぞ蕭瑟(しようしつ)たる
北風声正悲 北風(ほくふう) 声(こゑ) 正(まさ)に悲(かな)し
熊羆対我蹲 熊羆(ゆうひ) 我(われ)に対(たい)して蹲(うづく)まり
虎豹夾路啼 虎豹(こひよう) 路(みち)を夾(はさ)んで啼(な)く
山中の樹木はなんと寂しい音をたてることだろう
北風が吹く音はまことに悲しい
熊やヒグマがわれわれに向かってうずくまり
虎や豹が路の両側で吠えている
――第二段四句は、冬の山林の眺め、その厳しく辛い眺めが、
第三段以降、自分の気持ちを述べる伏線になって、うまい構成。
谿谷少人民 谿谷(けいこく) 人民(じんみん)少(すくな)く
雪落何霏霏 雪(ゆき)落(お)ちて 何(なん)ぞ霏霏(ひひ)たる
延頸長歎息 頸(くび)を延(の)べて長歎息(ちようたんそく)し
遠行多所懐 遠行(えんこう)して懐(おも)ふ所(ところ)多(おほ)し
山の谷間は行く人も稀で
雪さえまあなんと激しく降ることだろう
私は首を伸ばして故郷の方を眺め、深いため息をついてしまう
長い旅路、思うことがいろいろ湧き起こって止まない
――第三段は、人けのない谷の描写。
叙景から入って、それに触発されるように感情表現に移る。
我心何怫鬱 我(わ)が心(こころ) 何(なん)ぞ怫鬱(ふつうつ)たる
思欲一東歸 一(ひと)たび東(ひがし)に帰(かえ)らんと思欲(しよく)す
水深橋梁絶 水(みづ)深(ふか)くして橋梁(きようりよう)絶(た)え
中路正徘徊 中路(ちゅうろ) 正(まさ)に徘徊(はいかい)す
私の心はなんと心配で落ち着かないことか
私の想いはひとえに東の故郷へ帰ろうとすることに集中している
やっと辿り着いた川の水は深く、しかも橋は壊れていて
道の途中でうろうろするしかない
――第四段は、故郷に帰りたい思い、
しかし障害やハプニングが多いという描写。
迷惑失故路 迷惑(めいわく)して故路(ころ)を失(うしな)ひ
薄暮無宿棲 薄暮(はくぼ)に宿棲(しゆくせい)する無(な)し
行行日已遠 行(ゆ)き行(ゆ)きて 日(ひ) 已(すで)に遠(とほ)く
人馬同時飢 人馬(じんば) 同時(どうじ)に飢(う)う
われわれは迷って元の道筋を見失い
夕暮れになったというのに泊まる場所も見つからない
それでもどこまでも歩き続けて日数が重なるばかり
人も馬も共に飢えてゆく
――第五段では、道に迷い、一同が次第に飢えてゆく。
担囊行取薪 嚢(ふくろ)を担(にな)ひて
行(ゆ)きて薪(たきぎ)を取(と)り
斧冰持作糜 冰(こほり)を斧(き)りて
持(も)つて糜(かゆ)を作(つく)る
悲彼東山詩 彼(か)の東山(とうざん)の詩(し)を悲(かな)しみ
悠悠使我哀 悠悠(ゆうゆう)として
我(われ)をして哀(かな)しま使(し)む
ふくろを担いで出かけて行って薪を取り
氷を割って粥を作る生活だ
そんななかで私は昔の東山の歌謡を思い出す
私は限りない哀愁に浸る
――第六段は結び。かろうじて飢えを凌ぎ、自分のふがいなさを歎き、
弱気になり愚痴をこぼす曹操。
東山(とうざん)の詩とは、『詩経』にある歌謡で、儒教の聖人・周公が
軍隊を率いて遠征して戻ったとき、彼を褒め称えて歌われたもの。
それと比べて自分はダメだという。
周公のようにはゆかない自分、その歎きがますます悲しませる、と。
宇野直人さんの解説では、名君のような印象を与える詩であるといい、
名君としての評判を高めるため、曹操の側近が代作したのかもしれない、
とも……。
ちなみにこの遠征の話は、「三国志演義」には書かれておらず、
この詩も出てこない、といいます。
(サイト「漢詩の朗読 三国時代 苦寒行 曹操」解説による
https://kanshi.roudokus.com/kukankou.html)
●曹操「亀雖寿(きすいじゅ)」
次の詩は、魏の宮廷で催されたとき歌われたもので、
《全体としては“運を天に任せず積極的に切り開こう”という内容》で
《楽天的な人生観》(P.205)だと、宇野さんはいいます。
亀雖寿 亀雖寿(きすいじゅ) 曹操
神亀雖寿 神亀(しんき)は寿(いのちなが)しと雖(いへど)も
猶有竟時 猶(な)ほ竟(をは)るの時(とき)有(あ)り
腾蛇乗霧 腾蛇(とうだ)は霧(きり)に乗(じよう)ずるも
終為土灰 終(つひ)に土灰(どかい)と為(な)る
霊力のある不思議な亀は千年万年生きると言われているが、
それでも死ぬ時はやって来るだろう。
天に昇る龍は霧に乗って自由自在に飛び回るが、
それも最後には土埃になってしまうだろう
――第一段では、“伝説上の動物にも寿命はあるだろう”と始める。
老驥伏櫪 老驥(ろうき) 櫪(れき)に伏(ふ)すとも
志在千里 志(こころざし) 千里(せんり)に在(あ)り
烈士暮年 烈士(れつし) 暮年(ぼねん)
壮心不已 壮心(そうしん) 已(や)まず
年老いた駿馬は厩で寝そべる身になっても、
心の目標はまだ千里の彼方まで走り回ることにある
心正しく情熱を失わない男は晩年になっても、
そのような盛んな心意気は衰えないものだ
――第二段では、“そうではあるが、
人も動物も心を強く持って生きることが大事だ”(p.205)と、
立派な馬と同じように、人間である自分もそうありたい、と。
盈縮之期 盈縮(えいしゆく)の期(き)は
不独在天 独(ひと)り天(てん)に在(あ)るのみならず
養怡之福 養怡(ようい)の福(ふく)は
可得永年 永年(えいねん)を得(う)可(べ)し
運の良い悪いは、
ひとえに天の命ずるところにだけあるわけではない
心の安らぎを養い育てる幸福によって、
長い寿命を得ることもできるであろう
――第三段では、“長生きするために最大限の努力をしよう”(p.205)
という提案。
“いろいろ考えてそうとわかった”
努力次第でなんとかなる、そのためには平常心が大事だ、と。
幸甚至哉 幸甚(こうじん) 至(いた)れる哉(かな)
歌以詠志 歌(うた)うて以(もつ)て志(こころざし)を詠(えい)ず
そういう幸せこそ最も素晴らしいのだ
それに気づいた私はこの詩を歌って、
そんな気持ちを述べることにしよう
――最後の二句は、功成り名遂げた帝王の感慨にも思える、と宇野さん。
先の「苦寒行」は五言詩で、「亀雖寿」は四言詩。
《宮廷の宴会など、かしこまった場では四言詩、
出征の途中など自分の気持ちを込めたい場合は五言詩と、
題材や発表の場によって使い分けたんでしょうか。だとすると、
それだけ真剣に詩を作っていたという見方もできます。》p.206
宇野さんのご意見です。
●曹操――戦場でも本を読み、詩を作る人
《曹操は戦場にいても、閑な時は武器を脇に置いて本を読み、
詩を作る人でしたし、その息子たちも、
政治や文学にたいへん優秀な才能を持っていました。》p.206
とあります。
私自身の以前の記憶では(始めの方を何巻か読んだだけですが)、
吉川英治の小説『三国志』や横山光輝のまんが『三国志』での印象では、
曹操には文人的なイメージを持っていなかったので、意外に感じました。
天下を取った、もしくは取ろうとする人は、文化人でもあらねば、
その後の治世を維持することは難しい、ということなのでしょうか。
豊臣秀吉も天下を取ったのちには、お茶を嗜みましたしね。
争いごとが一段落したあとには、文化で心を落ち着けよう、
というところでしょうか。
・・・
次回は、曹操の息子・曹植、その次には曹丕を取り上げる予定です。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
本誌では、「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(18)三国志の詩人・曹操」と題して、今回も全文転載紹介です。
三国志のファンは多数で、それぞれひいきの人が異なるのでしょうけれど、曹操の人気はどうなんでしょうねえ。
今回は、文人としての曹操の漢詩を二つ紹介しました。
・・・
*本誌のお申し込み等は、下↓から
(まぐまぐ!)『(古典から始める)レフティやすおの楽しい読書』
『レフティやすおのお茶でっせ』
〈メルマガ「楽しい読書」〉カテゴリ
--
『レフティやすおのお茶でっせ』より転載
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(18)三国志の詩人・曹操-「楽しい読書」第327号
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2022(令和3)年9月31日号(No.327)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(18)三国志の詩人・曹操」
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2022(令和3)年9月31日号(No.327)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(18)三国志の詩人・曹操」
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6月以来の「中国の古典編―漢詩を読んでみよう」の18回目です。
最近、飛び飛びになることが多いのですが、
勉強が進んでいないということで、ご容赦ください。
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◆ 名君のような印象を与える詩 ◆
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(18)三国志の詩人・曹操
三国志の世界から
~ 曹操「苦寒行」「亀雖寿」 ~
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今回の参考文献――
『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
江原正士、宇野直人/著 平凡社 2010/4/20
「六、抵抗と逃避のあいだに――三国時代から魏へ」より
●三国志―魏の曹操
『三国志演義』の前半に活躍し、魏を建国した曹操は、
詩人としても知られているそうです。
曹操の家系は宦官で、お父さんが宦官の養子になった人。
宦官は前回まで紹介してきました「古詩十九首」のころ、
知識人を政権から追い出した敵ともいうべき存在でしたね。
さてその曹操は、そういう家系が人格形成に影響したのか、
権力志向で野望のままにのし上がっていった印象の人だといいます。
後漢の末、
曹操は黄巾の乱を討伐し、朝廷から官位をもらい、頭角を現しました。
曹操は洛陽での董卓の反乱に乗じ、後漢最後の皇帝を擁して将軍となり、
ライバルたちを滅ぼし、北中国を支配し、「魏」を建国します。
続いて南中国の征服を目指しますが、
独立を果たしていた「呉」と「蜀」は、手を組んでこれを迎え撃ちます。
これが「赤壁の戦い」(208年)で、以後、魏・呉・蜀の三国時代に――。
曹操は都に一流の文人を集め、文化に力を入れます。
彼が集めた文人のなかでも特に優れた七人を
「鄴下の七子(ぎょうかのしちし)」または「建安の七子」と呼びます
(「鄴」は曹操が都を置いた町の名、「建安」は後漢最後の年号)。
曹操自身と二人の息子、曹丕(そうひ)・曹植(そうしょく)を合わせて、
文才に優れた「三曹(さんそう)」と呼びます。
この「三曹七子」によって、五言詩は大きく展開していったといいます。
●曹操「苦寒行」
まずは、曹操の詩から。
魏の政権が固まる前、各地に反対派のいる中、
一つの集団を征伐にでかける過程で詠まれた詩。
反乱の一つを収めて都に戻る途上で作られた、という説もある。
「寒さに苦しむ歌」という訳になるでしょうか。
苦寒行 苦寒行(くかんこう) 曹操
北上太行山 北(きた)のかた太行山(たいこうざん)に上(のぼ)ると
艱哉何巍巍 艱(かん)なる哉(かな) 何(なん)ぞ巍巍(ぎぎ)たる
羊腸坂詰屈 羊腸(ようちよう)の坂(さか) 詰屈(きつくつ)たり
車輪為之摧 車輪(しやりん) 之(これ)が為(ため)に摧(くだ)かる
我々は北に向かって太行山に登る
その山道はまことに険しい
なんとまあ山が高くそびえているのだろう
うねうねと続く坂道は曲がりくねっていて
車輪もそのためにこわれてしまいそうだ
――四句ごと六段に別れ、
第一段は、軍隊が行く山道の険しさを述べる導入。
樹木何蕭瑟 樹木(じゆもく) 何(なん)ぞ蕭瑟(しようしつ)たる
北風声正悲 北風(ほくふう) 声(こゑ) 正(まさ)に悲(かな)し
熊羆対我蹲 熊羆(ゆうひ) 我(われ)に対(たい)して蹲(うづく)まり
虎豹夾路啼 虎豹(こひよう) 路(みち)を夾(はさ)んで啼(な)く
山中の樹木はなんと寂しい音をたてることだろう
北風が吹く音はまことに悲しい
熊やヒグマがわれわれに向かってうずくまり
虎や豹が路の両側で吠えている
――第二段四句は、冬の山林の眺め、その厳しく辛い眺めが、
第三段以降、自分の気持ちを述べる伏線になって、うまい構成。
谿谷少人民 谿谷(けいこく) 人民(じんみん)少(すくな)く
雪落何霏霏 雪(ゆき)落(お)ちて 何(なん)ぞ霏霏(ひひ)たる
延頸長歎息 頸(くび)を延(の)べて長歎息(ちようたんそく)し
遠行多所懐 遠行(えんこう)して懐(おも)ふ所(ところ)多(おほ)し
山の谷間は行く人も稀で
雪さえまあなんと激しく降ることだろう
私は首を伸ばして故郷の方を眺め、深いため息をついてしまう
長い旅路、思うことがいろいろ湧き起こって止まない
――第三段は、人けのない谷の描写。
叙景から入って、それに触発されるように感情表現に移る。
我心何怫鬱 我(わ)が心(こころ) 何(なん)ぞ怫鬱(ふつうつ)たる
思欲一東歸 一(ひと)たび東(ひがし)に帰(かえ)らんと思欲(しよく)す
水深橋梁絶 水(みづ)深(ふか)くして橋梁(きようりよう)絶(た)え
中路正徘徊 中路(ちゅうろ) 正(まさ)に徘徊(はいかい)す
私の心はなんと心配で落ち着かないことか
私の想いはひとえに東の故郷へ帰ろうとすることに集中している
やっと辿り着いた川の水は深く、しかも橋は壊れていて
道の途中でうろうろするしかない
――第四段は、故郷に帰りたい思い、
しかし障害やハプニングが多いという描写。
迷惑失故路 迷惑(めいわく)して故路(ころ)を失(うしな)ひ
薄暮無宿棲 薄暮(はくぼ)に宿棲(しゆくせい)する無(な)し
行行日已遠 行(ゆ)き行(ゆ)きて 日(ひ) 已(すで)に遠(とほ)く
人馬同時飢 人馬(じんば) 同時(どうじ)に飢(う)う
われわれは迷って元の道筋を見失い
夕暮れになったというのに泊まる場所も見つからない
それでもどこまでも歩き続けて日数が重なるばかり
人も馬も共に飢えてゆく
――第五段では、道に迷い、一同が次第に飢えてゆく。
担囊行取薪 嚢(ふくろ)を担(にな)ひて
行(ゆ)きて薪(たきぎ)を取(と)り
斧冰持作糜 冰(こほり)を斧(き)りて
持(も)つて糜(かゆ)を作(つく)る
悲彼東山詩 彼(か)の東山(とうざん)の詩(し)を悲(かな)しみ
悠悠使我哀 悠悠(ゆうゆう)として
我(われ)をして哀(かな)しま使(し)む
ふくろを担いで出かけて行って薪を取り
氷を割って粥を作る生活だ
そんななかで私は昔の東山の歌謡を思い出す
私は限りない哀愁に浸る
――第六段は結び。かろうじて飢えを凌ぎ、自分のふがいなさを歎き、
弱気になり愚痴をこぼす曹操。
東山(とうざん)の詩とは、『詩経』にある歌謡で、儒教の聖人・周公が
軍隊を率いて遠征して戻ったとき、彼を褒め称えて歌われたもの。
それと比べて自分はダメだという。
周公のようにはゆかない自分、その歎きがますます悲しませる、と。
宇野直人さんの解説では、名君のような印象を与える詩であるといい、
名君としての評判を高めるため、曹操の側近が代作したのかもしれない、
とも……。
ちなみにこの遠征の話は、「三国志演義」には書かれておらず、
この詩も出てこない、といいます。
(サイト「漢詩の朗読 三国時代 苦寒行 曹操」解説による
https://kanshi.roudokus.com/kukankou.html)
●曹操「亀雖寿(きすいじゅ)」
次の詩は、魏の宮廷で催されたとき歌われたもので、
《全体としては“運を天に任せず積極的に切り開こう”という内容》で
《楽天的な人生観》(P.205)だと、宇野さんはいいます。
亀雖寿 亀雖寿(きすいじゅ) 曹操
神亀雖寿 神亀(しんき)は寿(いのちなが)しと雖(いへど)も
猶有竟時 猶(な)ほ竟(をは)るの時(とき)有(あ)り
腾蛇乗霧 腾蛇(とうだ)は霧(きり)に乗(じよう)ずるも
終為土灰 終(つひ)に土灰(どかい)と為(な)る
霊力のある不思議な亀は千年万年生きると言われているが、
それでも死ぬ時はやって来るだろう。
天に昇る龍は霧に乗って自由自在に飛び回るが、
それも最後には土埃になってしまうだろう
――第一段では、“伝説上の動物にも寿命はあるだろう”と始める。
老驥伏櫪 老驥(ろうき) 櫪(れき)に伏(ふ)すとも
志在千里 志(こころざし) 千里(せんり)に在(あ)り
烈士暮年 烈士(れつし) 暮年(ぼねん)
壮心不已 壮心(そうしん) 已(や)まず
年老いた駿馬は厩で寝そべる身になっても、
心の目標はまだ千里の彼方まで走り回ることにある
心正しく情熱を失わない男は晩年になっても、
そのような盛んな心意気は衰えないものだ
――第二段では、“そうではあるが、
人も動物も心を強く持って生きることが大事だ”(p.205)と、
立派な馬と同じように、人間である自分もそうありたい、と。
盈縮之期 盈縮(えいしゆく)の期(き)は
不独在天 独(ひと)り天(てん)に在(あ)るのみならず
養怡之福 養怡(ようい)の福(ふく)は
可得永年 永年(えいねん)を得(う)可(べ)し
運の良い悪いは、
ひとえに天の命ずるところにだけあるわけではない
心の安らぎを養い育てる幸福によって、
長い寿命を得ることもできるであろう
――第三段では、“長生きするために最大限の努力をしよう”(p.205)
という提案。
“いろいろ考えてそうとわかった”
努力次第でなんとかなる、そのためには平常心が大事だ、と。
幸甚至哉 幸甚(こうじん) 至(いた)れる哉(かな)
歌以詠志 歌(うた)うて以(もつ)て志(こころざし)を詠(えい)ず
そういう幸せこそ最も素晴らしいのだ
それに気づいた私はこの詩を歌って、
そんな気持ちを述べることにしよう
――最後の二句は、功成り名遂げた帝王の感慨にも思える、と宇野さん。
先の「苦寒行」は五言詩で、「亀雖寿」は四言詩。
《宮廷の宴会など、かしこまった場では四言詩、
出征の途中など自分の気持ちを込めたい場合は五言詩と、
題材や発表の場によって使い分けたんでしょうか。だとすると、
それだけ真剣に詩を作っていたという見方もできます。》p.206
宇野さんのご意見です。
●曹操――戦場でも本を読み、詩を作る人
《曹操は戦場にいても、閑な時は武器を脇に置いて本を読み、
詩を作る人でしたし、その息子たちも、
政治や文学にたいへん優秀な才能を持っていました。》p.206
とあります。
私自身の以前の記憶では(始めの方を何巻か読んだだけですが)、
吉川英治の小説『三国志』や横山光輝のまんが『三国志』での印象では、
曹操には文人的なイメージを持っていなかったので、意外に感じました。
天下を取った、もしくは取ろうとする人は、文化人でもあらねば、
その後の治世を維持することは難しい、ということなのでしょうか。
豊臣秀吉も天下を取ったのちには、お茶を嗜みましたしね。
争いごとが一段落したあとには、文化で心を落ち着けよう、
というところでしょうか。
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次回は、曹操の息子・曹植、その次には曹丕を取り上げる予定です。
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本誌では、「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(18)三国志の詩人・曹操」と題して、今回も全文転載紹介です。
三国志のファンは多数で、それぞれひいきの人が異なるのでしょうけれど、曹操の人気はどうなんでしょうねえ。
今回は、文人としての曹操の漢詩を二つ紹介しました。
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『レフティやすおのお茶でっせ』より転載
中国の古典編―漢詩を読んでみよう(18)三国志の詩人・曹操-「楽しい読書」第327号
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