文政12年12月下旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政12年12月21日(1829年)晴
土浦藩の御奉行様お二人に町年寄退任のご挨拶。
上物
上菓子 一折ずつ。代銀三匁程
東崎の名主、町年寄へも挨拶。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の町年寄の退任は12月4日に正式に認められていますが、今日は奉行への挨拶。円満な退任であることが対外的にも示されたことになります。三中も大きな課題を乗り越えることができ、ホッとしたことでしょう。
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〈詳訳〉
・伊勢屋の礼廻り。林兵衛、いせや佐兵衛、当家からは利兵衛殿、別家駿河屋からは清兵衛の合計四人で行う。
・従業員の利助は病気から回復し、ようやく復帰。
・今年は八月から病気で引籠もらざるをえなかった。先日ようやく町年寄の役目を解かれたので、親類の色川庄右衛門が御礼廻りをしていたが、今般両御奉行所様へ御礼をせよとの仰せがあったので、今日挨拶に伺った。
上物
上菓子 一折ずつ。代銀三匁程
・東崎の名主、町年寄へも挨拶をした。
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文政12年12月22日(1829年)
本日は休筆です
#色川三中 #家事志
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文政12年12月23日(1829年)曇
土浦藩から、明後日(25日)までに御用調達金の半金を拠出するようにとの仰せがあった。半金では苦しいので、願いを出し、三分の一(一両)の支払いとしていただいた。
金十八両 横田権右衛門
同金四両也 色川桂助(三中)
このうち金一両を25日までに支払う。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦藩の御用調達金というのは、御船講のことで、色川家は4両支払わなければなりません(12月8日条)。明後日までに半金(2両)支払うようにとの藩からのお達しですが、手元不如意な三中は今回は1両の支払いでまけてもらうことにしました。年末を迎えて資金繰りは苦しいようです。
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〈詳訳〉
・明後日(25日)までに藩への御用調達金を仰付けられた者は、要請のあった金額の半金を支払うようにとの仰せがあったが、願いを出し三分の一ずつ支払いをするようにしていただいた。
金十八両 横田権右衛門
同金四両也 色川桂助(三中)
このうち金一両を25日までに支払う。
・与兵衛が小白村から帰ってきた。病人は死去したとのこと。
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文政12年12月24日(1829年)晴
内田六蔵方へ書状を送った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
内田六蔵はひものや側の代理人(11月24日条)ですが、その件でしょうか。それとも別件でしょうか。今日の日記の短さでは判然としません(明日以降の記事でも関連記事がなく、結局分からないままです)。
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文政12年12月25日(1829年)雨
三中先生、本日休筆です。
#色川三中 #家事志
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文政12年12月26日(1829年)晴
体調不良で寝込む。明後日28日は餅つきの予定。
#色川三中 #家事志
(コメント)
最近の記事は短く、休筆も多いなと思ったら、体調不良です。明後日28日の餅つきのことを考えてしまっていますが、そのようなことは誰か他の者にまかせてゆっくりお休みください。
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文政12年12月27日(1829年) 晴
五頭玄中医師へ明日お会いすることができることになった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
五頭玄中医師は土浦藩の藩医です。
今日の記事も短すぎ、どのような意図での会うのかはよくわかりません。
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文政12年12月28日(1829年)
三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志
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文政12年12月29日(1829年)晴
・五頭玄仲医師が贈り物を持参されてお礼に来た。酒一升贈る。
・中高津の喜兵衛に暇を出した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
五頭玄中医師との面会は昨日だったはずで(12月27日条)、その記事はありません。今日の記事は五頭玄仲医師がお礼に来たとのことなので、面会は昨日無事行われたようです。
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文政12年12月大晦日(30日)(1829年)曇
〈公儀からのお触れ〉
キリシタン宗門は以前から禁止されているにもかかわらず、上方で異法を行う者が罰せられた。今後も調査を怠らず、怪しい者は早急に報告すること。その功績に応じて褒美を与える。見聞しながら隠した者には罰を与える。
#色川三中 #家事志
(コメント)
キリシタンに関するお触れを日記に記載しています。「水野出羽守」は水野忠成(みずのただあきら)のこと。当時の老中。文政といえば幕末も近いのですが、公儀のキリシタンへの警戒心は強固であったことが、よくわかります。
「上方で異法を行う者が罰せられた」とありますが、この事件を担当したのは大塩平八郎です。
参考文献
京坂キリシタン一件と大塩平八郎 史料と考察 宮崎 ふみ子/編
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〈詳訳〉
・定番半兵衛が貸していた金二分をもってきたので、すぐに手紙を添へて他所へ返金した。
・水野出羽守殿からの書付の写し
切支丹宗門は、以前から御制禁となっているが、今度上方ではそのような宗門に入って異法を行う者がおり、厳しく罰せられた。今後もキリシタンに対する調査を油断なく行うべきこと。怪しい者がいれば、早急に報告すること。その功績に応じて褒美を与え、その者からの報復がないようにする。見聞しながら隠し、他から発覚した場合は、その者も罰を受ける。この趣旨を各人に伝えること。
十二月
以上のとおり、公儀から仰せがあったので町方に触れるものである。
以上のとおり町御奉行所から仰せ渡しがあっとので、町方にて触れるものである。役元
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