ヘンデル:合奏協奏曲op.6
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1968年8月21日~22日、スイス・サンモリッツ、ヴィクトリア・ザール
LP:ポリドール(グラモフォンレコード) MGX7072~75(全4枚)
ヘンデルの12曲からなる「合奏協奏曲op.6」は、いつ聴いても音楽が泉の如く湧き出してくるような、無限の力のようなものを感ずる。普通なら、全12曲というような長い曲集を聴き通そうとすると、相当な忍耐力を必要とするが、ヘンデルの「合奏協奏曲op.6」だけは例外である。聴いていて実に楽しいし、不思議なことに飽きが全く来ない。正にヘンデルの天才のなせる業とでも言ったらよいのであろうか。作曲したのがヘンデル55歳の時で、たった1カ月で12曲を書き上げたというから凄いの一言に尽きる。ヴィヴァルディの急ー緩ー急の形式を踏襲しつつ、コレルリの作品に範を求めて完成させたと言われている。1740年4月に出版された時のタイトルは、「4つのヴァイオリン、テノール(ビオラ)、チェロ、チェンバロの通奏低音の7声部からなる12曲の大協奏曲集」と付けられており、初演は、1739年から1740年3月にかけて、ヘンデル自身の指揮で行われたらしい。もともとドイツ人であったヘンデルだが、1711年以降はロンドンで主にオペラを中心に活躍した。作曲のほか、指揮者、演出家、さらには興行主としてもエネルギッシュに活動したわけであるが、実際はというと平穏な活動ではなかったらしく、ヘンデルを保護する国王派に反目する貴族たちが、ヘンデルの仕事を妨害するのに抗して活動するといった塩梅であった。そんなこともあってか、1737年にヘンデルは病に倒れてしまう。それにも屈せずヘンデルは不屈の闘志で立ち上がるが、貴族たちの妨害は相変わらず止まなかった。そんな厳しい環境下に生まれたのが「合奏協奏曲op.6」なのである。このヘンデルの名作を、巨匠カラヤンがベルリン・フィルを指揮してLPレコード4枚に収録した。この演奏内容は、カラヤンが録音した中でベスワンに挙げたいほど、完成度が高く仕上がっている。バロック・アンサンブルではなく、近代のオーケストラによるこの演奏は、その厚みのある弦の響きで聴くものを圧倒する。カラヤンの指揮は、巧みにしっとりとした情感をベルリン・フィルから全てを引き出す。やや押さえ気味の指揮ぶりが、かえってヘンデルのこの名作の真の姿をくっきりと浮かび上がらせるのだ。包容力のある演奏とでも言ったらよいのであろうか。いずれにせよカラヤンの見事な統率力に脱帽せざるを得ない。どんなアンチ・カラヤン派でもこの演奏だけは、カラヤンの力を認めざる得ないと思う。LPレコード特有のあふれんばかりの奥行きの深い伸びやかな音質を聴いてこそ、カラヤンの真の名指揮ぶりを聴き取ることができるのである。(LPC)
モーツアルト:フルート協奏曲第1番KV313/第2番KV314
フルートと管弦楽のためのアンダンテKV315
フルート:ジャン=ピエール・ランパル
指揮:テオドール・グルシュバウアー
管弦楽:ウィーン交響楽団
LP:RCV E-1009
これは、モーツァルトのフルート協奏曲を、20世紀最大のフルート奏者であったジャン=ピエール・ランパル(1922年-2000年)が録音したLPレコードだ。2曲といっても、第1番は、1778年マンハイムで作曲されたのに対し、第2番はオーボエ協奏曲をフルート協奏曲に編曲したもの。つまり、モーツァルトはフルート協奏曲を1曲だけしか書かなかったことになる。同じ年に作曲したフルートとハープのための協奏曲と同様、第1番、第2番共に実に流麗な曲であり、思わずフルートの音色に聴き惚れてしまう。同じことはフルートと管弦楽のためのアンダンテにも言える。それにしてもモーツァルトは1778年、1年だけでフルートの曲を作曲することをどうして止めてしまったのであろうか?一説には当時のフルートの性能が今ほどよくなかったという説があるのだが・・・。ランパルは、我々の世代は“フルート=ランパル”といった図式を思い描くほどの神様的存在だった。その優美でたおやかな音色を一度でも聴くとたちまちランパルの信者になってしまうほど。そしてその音色を聴くにはLPレコードが一番良い。ランパルは、マルセイユに生まれ、18歳で医科大学に進んだが、1943年にパリ音楽院に入学し、音楽の道を歩むことになる。1947年にジュネーブ国際コンクールで優勝しソロで活動を開始。1956年からは、パリ・オペラ座管弦楽団の首席奏者に就任。1962年に同楽団を退団後は、世界各地で演奏旅行を行った。また、アイザック・スターンやムスティスラフ・ロストロポーヴィチと室内楽の演奏も行なった。現在、権威あるフルートの国際コンクールとして「ジャン=ピエール・ランパル国際フルートコンクール」が催されている。モーツアルト:フルート協奏曲第1番は、1778年の1月または2月に、マンハイム作曲されたものと推定されている。第2楽章のアダージョは、かなり難しということで、後に代わりの第2楽章を作曲した。「フルートと管弦楽のためのアンダンテ」は、第1番のフルート協奏曲の第2楽章のアダージョの代わりに作曲された作品ではないか、という見方もされている。フルート協奏曲第1番は、オランダ人のドゥ・ジャンのために書かれた曲だが、この「フルートと管弦楽のためのアンダンテ」は、ドゥ・ジャンのために書かれた2番目のフルート協奏曲という見方もある。このLPレコードでのランパルの演奏は、流麗極まりないものであり、そのフルートの音色を聴くとたちまちのうちに誰もがランパルの虜になってしまう(LPC)
ロドリーゴ:アランフェス協奏曲
テデスコ:ギター協奏曲第1番
ギター:ジークフリート・ベーレント
指揮:ラインハルト・ペータース
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
LP:ポリドール(グラモフォンレコード) MGW 5192
録音:1966年5月9日~13日 ベルリン、イエス・キリスト教会
私は、ギター音楽を聴く機会はそう多いとはいえないが、昔、AMラジオのスピーカーから流れてくるロドリーゴのアランフェス協奏曲だけは例外で、よく聴いたものだ。その第2楽章の何とも言えないエキゾチックなメロディーを聴くと、何か時空を超えてはるか遠くのアランフェスの城はどんな処であろうかと想像を働かせながら聴いたものである。そして今、このLPレコードを改めて聴いてみると、何か遠くのアランフェスの空気が、ジークフリート・ベーレント(1933年―1990年)の柔らかいギターの音色に乗って、頬に吹きかかるような錯覚に捉われる。アランフェスに行ってみたくなる気分に捕らわれる。これはLPレコードの音質だからこそ余計言えることだと思う。ほぼ同時代に書かれたB面のテデスコのギター協奏曲第1番も、心に沁みわたる佳作である。現代スペインの楽壇の大御所ホアキン・ロドリーゴ(1901年―1999年)は、悪性ジフテリアのため4歳で失明するが、バレンシア音楽院からパリのエコールノルマルへと留学し、音楽を習得。また同時に、デュカスの教えを得ることもできた。スペイン戦争時代はドイツにいたこともあったが、1939年からは、マドリードに定住し、作曲に集中。ヴァイオリン、チェロ、ハープ、さらにギターによる作品を次々と発表した。ロドリーゴ自身はギターを弾かなかったようであるが、このスペイン的楽器をこよなく愛し、独奏曲の十数作品に加え、管弦楽との協奏曲も作曲した。アランフェス協奏曲のアランフェスとは、マドリードから約47㎞ほど南の土地の名前だ。乾燥した中央スペインの高原地帯にあって、アランフェスは森の緑に恵まれ、オアシスを形成しているため、昔から王侯の憩いの場所になっていた。ロドリーゴ自身の言葉によると、アランフェス協奏曲は、「憂愁にとらわれたフランシス・デ・ゴヤの影、貴族的なものが民衆的なものと溶け合っていた18世紀スペイン宮廷の姿」を表した作品だという。一方、このLPレコードのB面には、テデスコ:ギター協奏曲第1番が収められている。マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895年―1968年)は、イタリアのフィレンツェ生まれ。ファシスト勢力の圧迫を避け、1939年にアメリカに渡り、以後アメリカを拠点に作曲活動を行った。如何にもイタリア人らしい表情豊かな作曲家であったが、中でも目立つのがアンドレス・セゴビア(1893年―1987年)との出会いから生まれた数十におよぶギター曲で、その代表作がギター協奏曲第1番である。(LPC)
アルビノーニ:オーボエ協奏曲Op.9の2、11、5、8
オーボエ:ハインツ・ホリガー
ハープシコード:マリア・テレサ・ガラッティ
管弦楽:イ・ムジチ合奏団
LP:日本フォノグラム(PHILIPS) SFX-7964
オーケストラが演奏の前、音合わせ(チューニング)をするとき、オーボエが最初に吹き、それに続いて第一ヴァイオリン、さらに他の楽器が続く。そんなオーボエが主役を演じる協奏曲の中でも白眉とも言えるのが、一連のアルビノーニのオーボエ協奏曲だ。このLPの最初の曲である作品9の2を聴くと、流麗この上ないホリガーのオーボエの音色に忽ち引きつけられ、聴き惚れる。そんな魅力的なオーボエの音こそLPレコードで聴いてほしいものだ。その人間的な音が目の前に迫ってくるようだ。アルビノーニ(1671年―1750年)は、ヴィヴァルディより7年早く、ヴェネチアで生まれた。育った家が裕福であったため、当初は音楽で生計を立てる必要はなかったようである。しかし、その後、職業的なヴァイオリニストとして生計を立てるようになる。アルビノーニは、多作家で、約50曲のオペラをはじめ、数多くのカンタータ、アリアを書き残しており、当時は、オペラ作曲家として、その名が通っていたという。しかし、音楽史上では、器楽曲の作曲家としての方が大きな役割を演じ、ヴィヴァルディの作風にも大きな影響を与えたほど。作品9の「五声のためのコンチェルト」は、1722年に出版された最後の作品集。ソロ楽器と弦楽4部のコンチェルト12曲からなる。全体は、ソロ楽器として、①ヴァイオリンによるもの②オーボエによるもの③2本のオーボエによるもの―の4曲づつ3つのグループに分けられる。このレコードには、そのうち、オーボエのソロ・コンチェルトの4曲が収められている。アルビノーニは、管楽器の中では、特にオーボエに興味があったらしく、生前出版された42曲のコンチェルトのうち、16曲にオーボエを用いている。このレコードでオーボエを演奏しているのは、スイス出身のオーボエ奏者・指揮者、作曲家であるハインツ・ホリガー(1939年生まれ)である。ベルン音楽院、バーゼル音楽院、パリ音楽院で学ぶ。オーボエのソリストとしては、1959年ジュネーヴ国際音楽コンクール優勝、1961年ミュンヘン国際音楽コンクール優勝の受賞歴を誇り、国際的に名声あるオーボエ演奏家である。生前カザルスは、ホリガーを「偉大な芸術家、信じられない程のヴィルトゥオーゾ」と絶賛したという。ホリガーは、オーボエの演奏技法と流麗な響きの可能性を切り開き、18世紀において重要な役割を演じていたオーボエを、再び現代に蘇らせた、偉大なオーボエ奏者である。(LPC)
モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299
ライネッケ:ハープ協奏曲ホ短調op.182
フルート:カールハインツ・ツェラー
ハープ:ニカノール・サバレタ
指揮:エルンスト・メルツェンドルファー
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
LP:ポリドール(グラモフォンレコード) MGW 5121
録音:1962年10月22、23日(モーツァルト)
1962年18日ベルリンUFAスタジオ(ライネッケ)
モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲は、1778年にモーツァルトが一挙にフルートの曲を書いた年に作曲された。内容は、誠に典雅な雰囲気に満ち溢れた曲であり、幸福なモーツァルトそのものといった趣の曲だ。そんなモーツァルトを、フルートのカールハインツ・ツェラー(1928年―2005年)とハープのニカノール・サバレタ(1907年―1993年)が、互いに親密な会話をしているように、限りなく美しく演奏している。リスナーは、あたかも馥郁と香り立つ花が部屋いっぱいに咲き乱れている中にいるような雰囲気に包まれるようだ。そんな曲を聴くには、絶対にCDよりはLPレコードがの方が良いのである。モーツァルトは、7~8歳の時、神童としてヨーロッパ中を演奏旅行した。今のように鉄道も飛行機もなく、馬車の旅であったわけで、子供のモーツァルトにとってさぞ体力的にきつい旅であったろうことが想像できる。このとき、モーツァルトはパリに立ち寄っているが、1778年、22歳時にも、ふたたびパリに立ち寄っている。しかし、この時、母を失うなど、恵まれた旅とはいえなかったが、作曲の面では、充実した作品を遺している。交響曲第31番「パリ」、7曲のヴァイオリンソナタ、そして4曲のピアノソナタなどが挙げられる。それに加え、フルートの作品をほぼこの1年の間に書き上げている。その中の1曲がフルートとハープのための協奏曲である。この曲は、アマチュアのフルート奏者のギネス公の依頼によって書かれた。フルートとハープという珍しい楽器の組み合わせの作品を書いたのは、ギネス公とその娘が、それぞれの楽器の名手であったという事情によったもの。モーツァルトは、フルートもハープも、マンハイム-パリ滞在中以外はほとんど書いていない。これは、当時、これらの楽器が十分な機能がなかったためと言われている。一方、ライネッケ:ハープ協奏曲は、名ピアノストでもあったライネッケ(1823年―1910年)がライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督を務めたいた時代の作品。作曲者としてのライネッケは、メンデルスゾーンの影響を深く受けた合計200あまりの作品を遺している。ハープのニカノール・サバレタは、スペインの出身で、マドリード音楽院で学ぶ。自分で考案した8つのペダル付きのハープの多彩な表現で人気を集めた。フルートのカールハインツ・ツェラーは、ドイツ出身で、1960年~1969年の間、ベルリン・フィルの首席奏者を務めた後に独奏者として活躍した。(LPC)