バッハ:無伴奏チェロ組曲 第1番(録音:1938年6月)
第2番(録音:1936年11月)
第3番(録音:1936年11月)
第4番(録音:1939年6月)
第5番(録音:1939年6月)
第6番(録音:1938年6月)
チェロ:パブロ・カザルス
LP:東芝EMI GR‐2317~19
バッハの無伴奏チェロ組曲(第1番~第6番)は、アンハルト・ケーテン公レオポルドに奉職していた時代、いわゆるケーテン時代に書かれた作品である。このケーテン時代には、多くの世俗的器楽作品の傑作が生まれた。何故、教会音楽でなく世俗的作品が書かれたのであろうか?その理由は、ケーテンの宮廷はカルヴァン派であったため、教会音楽は必要としなかったためである。バッハは、1708年、23歳の時にワイマールのウィルヘルム・エルンスト公の宮廷に宮廷付きオルガニスト兼楽師として奉職した。1716年、楽師長が亡くなって、バッハは楽師長の職にありつけると考えたが、実際にはほかのものが楽師を引き継いだ。自分の能力を無視されたバッハは、ワイマールを去ることを決意する。辞表を書いて提出したが、正当な理由ではないとして受理されなかった。それでも辞表を出し続けたため、裁判所に拘束される羽目となってしまい、最後は、免職扱いとなってしまった。そんなトラブルを経て、自分の能力を認めてくれるレオポルド公の下で、バッハは伸び伸びと世俗曲の作曲と室内オーケストラの指揮者としての役職に励んだわけだ。ただ、この間、愛妻のマリア・バルバラを亡くすという不幸もあったが、翌年、マリア・マグダレーナと再婚する。ところで、このLPレコードは、チェロの神様のパブロ・カザルスがSPレコードに録音したものを、LPレコード化したものであり、バッハの無伴奏チェロ組曲の演奏の基準となる録音として、多くのファンを魅了し続けている名盤だ。それもそのはず、カザルスこそ、それまで埋もれていたバッハ:無伴奏チェロ組曲を“発見”し、その真価を蘇らせたチェリストであったのだ。“発見”の経緯とは、次のようなことであったようだ。カザルスが13歳の時、父と連れ立って、バルセロナの楽器店を歩き回って、チェロの良い作品はないだろうかと探していた時、偶然にバッハの「6つの無伴奏チェロ組曲」を見つけたという。要するに、当時楽譜として残ってはいたが、誰もが単なる練習曲のようなものと、見向きもしなかった中で、カザルスは、この楽譜を見た途端、一瞬でその芸術性の高さを看破してしまったのだ。カザルスがさらに凄いのは、その後12年間、この曲を徹底的に研究してから世に問うたことだ。以降、バッハの無伴奏チェロ組曲は、古今のチェロ曲の名曲として君臨することになる。演奏内容は、実に奥深く、チェロという楽器の魅力を最大限に発揮している。これほどバッハを愛し、チェロを愛し、包容力豊かな演奏は、ほかでは到底味わうことはできない。(LPC)