アルベール・カミュ原作 戯曲「カリギュラ」
今回観に行くにあたって、予習のつもりで図書館で本を借りて読んではみたものの、台詞がどうにも理屈っぽくて、頭にすんなり入ってきてくれず・・・・・・途中で断念。
そんなこともあり、もしかしたら観ている途中で船を漕ぎ出してしまうかも・・・という幾ばくかの不安を抱えながら、初日の翌日、シアターコクーンへ。
会場について、観客層の女性率の高さにビックリ。
もともと芝居の観客は女性が多いのだけれど、今回は特にそれを強く感じました。たぶん・・・いろんな意味で・・・女性の方たちのテンションが上がってたんでしょうね(笑) そのテンションの高さというか興奮度といいますか、が会場に満ちていたせいかと。
みんな、落ち着こうぜ
私はといえば、「寝てしまうかも!」という不安の方が先に立ってましたので、オグリンのセミヌードに、眠気退散!の絶大的効果を期待するしかなく・・・・・・ま、そんなこんなで、いろいろな人たちのいろいろな期待が満ちている中、幕が開く。
一応、さっくりとストーリーを。
チラシに載っているあらすじなので、ネタバレにはならないかと。
ローマ帝国の若き皇帝カリギュラは近親相姦の関係にあった妹が急死した日、宮殿から姿を消した。
皇帝の失踪に貴族たちの間で不安が広がる中、それから3日後にようやく戻ったカリギュラは、驚くべき宣言を出す。それは、貴族、平民を問わず、資産家を順次殺して財産を没収するということ。しかし、それは、ほんの手始めでしかなかった。
相次ぐ処刑と拷問に終わらず、貴族の妻を略奪し公営売春宿で働かせる、市民のための食料庫を閉鎖して意図的に飢饉を起こす、神に扮して神々を冒涜する・・・。残虐非道な行為の数々にローマは恐怖で震え上がった。
常軌を逸したカリギュラを誰もが恐れたが、愛人のセゾニアは愛ゆえに彼に協力し、非常な女に徹する。若き詩人シピオンは父親をカリギュラに殺されたにも関わらず、彼の中に純粋さを感じ取って心ひかれていく。平穏な生活を求める貴族ケレアはただ一人、カリギュラの思想の危険さを見抜き、憤る貴族たちの動きを制しながらクーデターの機会を計っていた。
「不可能なものが欲しい」カリギュラの不可解な情熱は、暴走し続け、やがて自らを滅ぼしていく。
こうして芝居のストーリーだけを書き出すと、単なる暴君の話でしかないのですが、そんな判り易いシンプルな話では終わらない、この作品の核となっているものは、この世の不条理に対して「限界のない自由」という己の論理で戦いを挑む一人の男の姿。
カリギュラ=パンクの王
蜷川氏が舞台化にあたり、この定義をキーワードにしたそうですが(とパンフにあった)、それを押さえておくと、一見難解で膨大な台詞のひとつひとつが、感受性の高い若者の魂の叫びであり、その葛藤は誰もが通過したことがあることなのだと気付かされます。カリギュラの論理は一見哲学的に見えて、実は意外と単純だったりするんですよね。
神が存在するのならば、なぜ神は、俺の愛する者の命を無常にも奪い取っておきながら、この世に蔓延る薄汚い者たちを生かし続けているんだ? おかしいじゃないか!
神の、この世の、不条理に対抗しようとする一人の若者。
この世は不条理で溢れていると諦め、その世界と妥協しようとする大多数の大人たちとの対極で、逆らいもがき苦しむその姿は、決して理解出来ないものではないのです。
そんなカリギュラを、小栗君が若さゆえのパワーで演じている。
それは不自然でも意外でもないキャスティング。
今、若手俳優のトップをぶっちぎりで走っている小栗君だからこそ演じられる、小栗君でなくては演じられない、小栗君が演じなくてはならない役なのだと思うのです。
1幕目の最後を締め括る、シピオン役の勝地君との、詩を通した対話は圧巻。シピオンの詩に、心揺れ動きながらも、己の論理を貫き通そうとするカリギュラ。カリギュラの中にある純粋な心を感じとり、己の詩の力でその魂を救済しようとするシピオン。
若い二人のぶつかりあう感情が、とても色気があってたまらない。
夏の新感線での舞台でも思ったけど、勝地君、すごいね。
すごいといえば、舞台装置も今回はすごかったです。
特にカリギュラが住まう宮殿の表現が、まさにパンク。
まるで夜の街のネオンのように、下品なほどに色彩鮮やかな蛍光電飾。
そして、役者たちの背後も左右もすべてを映し出す総鏡張りの舞台。
鏡に映し出されるものは、真実なのか、それとも虚飾なのか。
私には、鏡に映っている観客の姿は、皇帝や貴族たちを見つめている関係者の目であり、また、皇帝の暴挙や貴族たちの反乱を遠くから見つめているローマ市民の目なのだ、と、そう思えてならなかったのですけど、それはちょっと考えすぎでしょうか…。
初日の幕が開いて2日目の公演。
多少、台詞をかんでしまう所も見受けられましたが、まったく許容できる範囲。というか、そんなことさえ帳消しにしてしまうほど、小栗君を始めとする役者たちが、本当にすごい! 素晴らしい!このキャストで海外公演やって絶賛されるんじゃないかと思えるくらい。これから観劇される方へは、面白いので期待していいですよ!と推したい。
1年後、2年後の再演を本当に期待したい舞台ですね。
というわけで!
本日はシアタークリエの柿落とし公演、『恐れを知らぬ川上音二郎一座』を観てきます!!
今回観に行くにあたって、予習のつもりで図書館で本を借りて読んではみたものの、台詞がどうにも理屈っぽくて、頭にすんなり入ってきてくれず・・・・・・途中で断念。
そんなこともあり、もしかしたら観ている途中で船を漕ぎ出してしまうかも・・・という幾ばくかの不安を抱えながら、初日の翌日、シアターコクーンへ。
会場について、観客層の女性率の高さにビックリ。
もともと芝居の観客は女性が多いのだけれど、今回は特にそれを強く感じました。たぶん・・・いろんな意味で・・・女性の方たちのテンションが上がってたんでしょうね(笑) そのテンションの高さというか興奮度といいますか、が会場に満ちていたせいかと。
みんな、落ち着こうぜ
私はといえば、「寝てしまうかも!」という不安の方が先に立ってましたので、オグリンのセミヌードに、眠気退散!の絶大的効果を期待するしかなく・・・・・・ま、そんなこんなで、いろいろな人たちのいろいろな期待が満ちている中、幕が開く。
一応、さっくりとストーリーを。
チラシに載っているあらすじなので、ネタバレにはならないかと。
ローマ帝国の若き皇帝カリギュラは近親相姦の関係にあった妹が急死した日、宮殿から姿を消した。
皇帝の失踪に貴族たちの間で不安が広がる中、それから3日後にようやく戻ったカリギュラは、驚くべき宣言を出す。それは、貴族、平民を問わず、資産家を順次殺して財産を没収するということ。しかし、それは、ほんの手始めでしかなかった。
相次ぐ処刑と拷問に終わらず、貴族の妻を略奪し公営売春宿で働かせる、市民のための食料庫を閉鎖して意図的に飢饉を起こす、神に扮して神々を冒涜する・・・。残虐非道な行為の数々にローマは恐怖で震え上がった。
常軌を逸したカリギュラを誰もが恐れたが、愛人のセゾニアは愛ゆえに彼に協力し、非常な女に徹する。若き詩人シピオンは父親をカリギュラに殺されたにも関わらず、彼の中に純粋さを感じ取って心ひかれていく。平穏な生活を求める貴族ケレアはただ一人、カリギュラの思想の危険さを見抜き、憤る貴族たちの動きを制しながらクーデターの機会を計っていた。
「不可能なものが欲しい」カリギュラの不可解な情熱は、暴走し続け、やがて自らを滅ぼしていく。
こうして芝居のストーリーだけを書き出すと、単なる暴君の話でしかないのですが、そんな判り易いシンプルな話では終わらない、この作品の核となっているものは、この世の不条理に対して「限界のない自由」という己の論理で戦いを挑む一人の男の姿。
カリギュラ=パンクの王
蜷川氏が舞台化にあたり、この定義をキーワードにしたそうですが(とパンフにあった)、それを押さえておくと、一見難解で膨大な台詞のひとつひとつが、感受性の高い若者の魂の叫びであり、その葛藤は誰もが通過したことがあることなのだと気付かされます。カリギュラの論理は一見哲学的に見えて、実は意外と単純だったりするんですよね。
神が存在するのならば、なぜ神は、俺の愛する者の命を無常にも奪い取っておきながら、この世に蔓延る薄汚い者たちを生かし続けているんだ? おかしいじゃないか!
神の、この世の、不条理に対抗しようとする一人の若者。
この世は不条理で溢れていると諦め、その世界と妥協しようとする大多数の大人たちとの対極で、逆らいもがき苦しむその姿は、決して理解出来ないものではないのです。
そんなカリギュラを、小栗君が若さゆえのパワーで演じている。
それは不自然でも意外でもないキャスティング。
今、若手俳優のトップをぶっちぎりで走っている小栗君だからこそ演じられる、小栗君でなくては演じられない、小栗君が演じなくてはならない役なのだと思うのです。
1幕目の最後を締め括る、シピオン役の勝地君との、詩を通した対話は圧巻。シピオンの詩に、心揺れ動きながらも、己の論理を貫き通そうとするカリギュラ。カリギュラの中にある純粋な心を感じとり、己の詩の力でその魂を救済しようとするシピオン。
若い二人のぶつかりあう感情が、とても色気があってたまらない。
夏の新感線での舞台でも思ったけど、勝地君、すごいね。
すごいといえば、舞台装置も今回はすごかったです。
特にカリギュラが住まう宮殿の表現が、まさにパンク。
まるで夜の街のネオンのように、下品なほどに色彩鮮やかな蛍光電飾。
そして、役者たちの背後も左右もすべてを映し出す総鏡張りの舞台。
鏡に映し出されるものは、真実なのか、それとも虚飾なのか。
私には、鏡に映っている観客の姿は、皇帝や貴族たちを見つめている関係者の目であり、また、皇帝の暴挙や貴族たちの反乱を遠くから見つめているローマ市民の目なのだ、と、そう思えてならなかったのですけど、それはちょっと考えすぎでしょうか…。
初日の幕が開いて2日目の公演。
多少、台詞をかんでしまう所も見受けられましたが、まったく許容できる範囲。というか、そんなことさえ帳消しにしてしまうほど、小栗君を始めとする役者たちが、本当にすごい! 素晴らしい!このキャストで海外公演やって絶賛されるんじゃないかと思えるくらい。これから観劇される方へは、面白いので期待していいですよ!と推したい。
1年後、2年後の再演を本当に期待したい舞台ですね。
というわけで!
本日はシアタークリエの柿落とし公演、『恐れを知らぬ川上音二郎一座』を観てきます!!