私は今の職場に勤務する前、新宿にある「I」というデパートに2年ほど勤めていた。もちろん、売り場に立って販売員をやっていたわけだが、取り扱っていた商品がハンカチという小物だったこともあり、ほとんどがギフトのための購入客で、客とのやりとりはカウンターで行うことが多かった。
そんなわずか2年ではあるが販売員をやっていて気づいたことがある。それは、こちらが包装した品物を表情一つ変えずに受け取り、黙って去っていく客が多いということだ。
もちろん、欲しい商品を買って帰るのがデパートに来た客の目的なのだから、品物を買うのに無愛想だろうが、店員に対して無言だろうが、それは客の勝手だ。店員だってある意味、作り笑顔で儀礼的に「ありがとうございました」と言ってることもあるわけだから、それに対する客からのリアクションなど端から期待したりなどしていない。
しかし、客の中には、「ありがとう」とか「どうも」とか、こちらの「ありがとうございました」の言葉に笑顔で返事をしてくれる人もいる。
客に限らず人から「ありがとう」と言われて嫌な思いをする人などいやしない。客の笑顔ひとつで「ああ、この仕事をやっていてよかった」と単純に思ったりすることもあるのだ。中元、クリスマス、歳末、年始、バレンタイン、ホワイトデーといったギフト商戦の時にはいつまでも客足が途切れることがなく、「エンドレス・ハンカチ」と内々でいわれるほど多忙な売り場ではあったけれど。
商戦時期に限らず、私がいたハンカチ売り場はデパートの1階にあったため、閑散期であっても、客が閉店時間を過ぎた後も残っていることが多かった。大抵は、閉店間際に駆け込んできて、ギフト用のハンカチを選んでいる客なのだが、他の売り場がレジを閉め、売り場の片付けに入っていても、こっちは客が商品を選び終え、会計を済ませ、購入した商品を受け取り、売り場から出るまでは何も出来ない。閉店時間から1時間近く経って、ようやく退勤のタイムレコーダーを押すということはよくあることだった。
デパートでは「お客様は神様」であり、客の態度や行動に販売員が文句を言える立場ではない。心の中であれこれ思うことはあっても、店員同士で、たとえお酒の席でも、そういうことをあからさまに話すことはなかった。…思わず笑ってしまうような面白いお客さんの話をすることはあっても。
でも、デパートを辞め、今度は自分が「客」の立場になったときに、客なのだからどんな態度を取ってもいいとか、客なのだから何をしてもいいとか、そういうことではないだろう、と私はあらためて思ったのだ。
だから私は品物を受け取ったときは、笑顔で「ありがとう」と店員に言うし、買い物に夢中になって、閉店の音楽とアナウンスが流れるまで気づかなかった時は、「閉店まで居てしまってゴメンなさい」と言うようにしている。
それは、相手(店員)に対する思いやりや気遣いでもあるのだけれど、何よりそうすることで自分自身が気持ちよく楽しく買い物が出来るからだ。
人と人とのコミュニケーションは、お互いの相手への思いやりが根底にあってこそ、スムーズに成り立つ。一方通行の、自分の欲だけを押し通そうとする、自分勝手な行動や態度は、ただ相手を傷つけ、無用な軋轢を生じるだけだ。それに気づかない人が、最近はなんと多いことだろう。なぜ、相手を思いやる気持ちを持てないのだろう。相手の気持ちに立って考える、たったそれだけの簡単なことなのに。
シゲが「Myojo」前号のエッセイでこう書いている。「舞台だって、ライブだって、自分だけのものではない。そこにいるほかの人のために、自分も正しく楽しまなければならない。すべてを完璧にというわけではなく、そうしようとする気持ちが大事なんだ。」
買い物に限らず、食事、観劇、映画鑑賞、ライブ、電車やバスの中…どんなシチュエーションでも、自分以外の人が周囲にいる場合、その人たちに対しても心を向け、相手の気持ちを慮って行動をとるのが、社会を生きていく人としての礼儀ではないかと思う。それは、こういう行動や態度が正しい、ということではなく、シゲの言うとおり「気持ちが大事」なのだ。
自分がやりたいことは、他の人だってやりたいのだ。でも、見境なく飛び出す前に、ほんの一瞬でもいい、周りを見てみれば、やりたいことを我慢している人たちがどれほど多いかに気づくことができると思う。そして、自分がいまやろうとしていたことは、果たして誰にも迷惑をかけないことなのか、自分以外の相手の立場に立って考えてみる、そのことが大事なのだ。
相手を思いやる優しい気持ちは心に余裕を作る。心の余裕は「心の自由」だ。その自由な感覚は自分を幸せな気持ちにしてくれる。笑顔で「ありがとう」と言うことに、たった一言「ごめんなさい」と言うことに、どれほどの労苦が必要だろう。たったそれだけで、暖かいコミュニケーションが生まれ、自分自身が幸せな気分になれるのなら、出し惜しみすることはない。
シゲ、いつも素敵なエッセイをありがとう。
そして、この前は感想メールで厳しいことを言ってしまってごめんなさい。
************************************************
引用出典 : 集英社刊「Myojo」2008年11月号 53頁「加藤成亮の発展途上エッセイ『青い独り言』」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
そう、この前初めて、私はエッセイの感想をシゲ宛(「Myojo」編集部宛)に送りました。
観客の鑑賞態度について、シゲが書いたことに強い共感を抱きながら、でも、同じ観客としての立場で感じた賛同とは異なるザラザラした感情もまた私の中にあって、いつものエッセイのようにただ共感したり、面白いと思ったりするだけなら、きっと感想は送らなかったと思います。
最初にシゲの言うことが正論であること、舞台を楽しむ観客の立場として非常に共感できる内容ことであることを書きながら、でも、私はあえてこう書きました。
「観客の態度を非難する言葉を、加藤君、あなたは書いてはいけない。あなたの舞台に、決して安くはないお金を払って劇場まで足を運んで観に来てくれたお客さんを、たとえどんなにマナーの酷い客だったとしても、その人たちを非難する言葉を言ってはいけない。一部の、酷いマナーの観客に対して非難の言葉を言っていいのは、同じ立場の観客だけです。舞台に立っているあなたがするべきことじゃない。」 …と。
もちろん、こんな言葉で感想を終わりにしたわけではなく、「物事を客観的に見つめ、自分の信念を素直に語るその姿勢と、一部のファンを失うかもしれないリスクを賭けてまで正論を語るその勇気を失って欲しくない」とか「アイドル誌で辛口で痛烈な意見を正直に言える加藤君は凛々しくてとても素敵だと思う」とか、その前に言ったこととは矛盾するようなことを書いたりもしたのだけれど…
メールを書いてから、書いた内容を何度も何度も読み返して、こんな内容のメールを大好きなシゲに送っていいのだろうかと逡巡して。
でも、シゲが言うところの酷い態度の客にも客なりの言い分や考えがあるのではないでしょうか。
開演時間に遅れて入ってきた客にも何か事情があったのかもしれない、それを責めるのであれば、遅れてきた客に対してではなく、シゲが舞台上に立っているときに客席へと案内するスタッフのやり方を批判するべきでしょう。
シゲの舞台はインターミッションがなかったけれど、演目の合間に必ずVTRコーナーがあったわけだから、そのときに客席に誘導すれば遅れてきた客の姿がシゲの目に入ることはなかったですよね。
セリフをかんだり間違えたりしたのを笑った客は、果たしてシゲが思うように「揚げ足を取ろうとして」笑ったのでしょうか。
その程度で笑うのはどうかと私も思うけれど、でも、そういう笑いが起こったのは、笑いの要素が入っていた演目の中だけではなかったかしら?笑ってもいい雰囲気というのがそこに流れていなかったかしら?
「定休日」「絆」「オレンジの花びら」…シゲが静かに私たちに語りかけた演目では、私が観た5公演とも、誰もが静かに聞き入っていたと思うのだけど。
大声で話しかけてくる客は、たぶんライブ会場のノリだったんでしょうね。
NEWSのコンサートで「笑い」をとる役目が多くなっている最近のシゲのことを見ていて、シゲが精魂込めて作り上げたエンターテイメントショーでも、コンサート会場との違いが分からなくて、思わず声を出してしまったのかもしれない。
でも、それは舞台の進行を邪魔しようと、悪意を持ってしたわけではない、ただ、鑑賞マナーを知らないだけ。
「悔しかった」
「僕をそういう風にしか見てくれないことが寂しすぎた」
「この公演を、バカにされたような気さえした」
鑑賞マナーがなっていないこと、イコール、シゲ自身をシゲの舞台をバカにした
という公式は当てはまらない。
もちろん、昨今の目に余る客側の問題はなんとかすべきだし、シゲの言うことは尤もなのだけれど、でも、個々の観客の事情やシゲに対する思いにまで至らず、ただその目に付いたことだけで相手を非難することは、今はまだ発展途上の「アイドル」としてやってはいけないことなんじゃないかな。
そんなことを思って、結局、メールを送りました。
でもね、送ってから、やっぱり、めちゃめちゃ後悔しちゃった。
言葉がきつすぎたかな、とか、シゲは正しいこと言ってるのに、それを挫くようなことを書いちゃったな、とか、読んで不愉快な気持ちにさせちゃったかな、とか。
私の言葉をシゲがどう思ったか分からない、面と向かって話せないもどかしさを、この時ほど痛烈に感じたことはなかったよ。
ま、今はもう過ぎてしまったことだから、気にしてないけどね。
ところで。
エッセイを全部書き終わってからタイトルを書こうとして、あらためてシゲのエッセイを見てみたら、そのテーマに「客―audience―」と書いてあることに気がつきまして。
おいおい~
シゲが書いたのは「audience 観客」の「客」だよ、私の書いた「客」は「customer」の客じゃん。
なので、今回のタイトルは漢字1字だけにしました(苦笑)
つか、あとがきの方が長すぎじゃね?
そんなわずか2年ではあるが販売員をやっていて気づいたことがある。それは、こちらが包装した品物を表情一つ変えずに受け取り、黙って去っていく客が多いということだ。
もちろん、欲しい商品を買って帰るのがデパートに来た客の目的なのだから、品物を買うのに無愛想だろうが、店員に対して無言だろうが、それは客の勝手だ。店員だってある意味、作り笑顔で儀礼的に「ありがとうございました」と言ってることもあるわけだから、それに対する客からのリアクションなど端から期待したりなどしていない。
しかし、客の中には、「ありがとう」とか「どうも」とか、こちらの「ありがとうございました」の言葉に笑顔で返事をしてくれる人もいる。
客に限らず人から「ありがとう」と言われて嫌な思いをする人などいやしない。客の笑顔ひとつで「ああ、この仕事をやっていてよかった」と単純に思ったりすることもあるのだ。中元、クリスマス、歳末、年始、バレンタイン、ホワイトデーといったギフト商戦の時にはいつまでも客足が途切れることがなく、「エンドレス・ハンカチ」と内々でいわれるほど多忙な売り場ではあったけれど。
商戦時期に限らず、私がいたハンカチ売り場はデパートの1階にあったため、閑散期であっても、客が閉店時間を過ぎた後も残っていることが多かった。大抵は、閉店間際に駆け込んできて、ギフト用のハンカチを選んでいる客なのだが、他の売り場がレジを閉め、売り場の片付けに入っていても、こっちは客が商品を選び終え、会計を済ませ、購入した商品を受け取り、売り場から出るまでは何も出来ない。閉店時間から1時間近く経って、ようやく退勤のタイムレコーダーを押すということはよくあることだった。
デパートでは「お客様は神様」であり、客の態度や行動に販売員が文句を言える立場ではない。心の中であれこれ思うことはあっても、店員同士で、たとえお酒の席でも、そういうことをあからさまに話すことはなかった。…思わず笑ってしまうような面白いお客さんの話をすることはあっても。
でも、デパートを辞め、今度は自分が「客」の立場になったときに、客なのだからどんな態度を取ってもいいとか、客なのだから何をしてもいいとか、そういうことではないだろう、と私はあらためて思ったのだ。
だから私は品物を受け取ったときは、笑顔で「ありがとう」と店員に言うし、買い物に夢中になって、閉店の音楽とアナウンスが流れるまで気づかなかった時は、「閉店まで居てしまってゴメンなさい」と言うようにしている。
それは、相手(店員)に対する思いやりや気遣いでもあるのだけれど、何よりそうすることで自分自身が気持ちよく楽しく買い物が出来るからだ。
人と人とのコミュニケーションは、お互いの相手への思いやりが根底にあってこそ、スムーズに成り立つ。一方通行の、自分の欲だけを押し通そうとする、自分勝手な行動や態度は、ただ相手を傷つけ、無用な軋轢を生じるだけだ。それに気づかない人が、最近はなんと多いことだろう。なぜ、相手を思いやる気持ちを持てないのだろう。相手の気持ちに立って考える、たったそれだけの簡単なことなのに。
シゲが「Myojo」前号のエッセイでこう書いている。「舞台だって、ライブだって、自分だけのものではない。そこにいるほかの人のために、自分も正しく楽しまなければならない。すべてを完璧にというわけではなく、そうしようとする気持ちが大事なんだ。」
買い物に限らず、食事、観劇、映画鑑賞、ライブ、電車やバスの中…どんなシチュエーションでも、自分以外の人が周囲にいる場合、その人たちに対しても心を向け、相手の気持ちを慮って行動をとるのが、社会を生きていく人としての礼儀ではないかと思う。それは、こういう行動や態度が正しい、ということではなく、シゲの言うとおり「気持ちが大事」なのだ。
自分がやりたいことは、他の人だってやりたいのだ。でも、見境なく飛び出す前に、ほんの一瞬でもいい、周りを見てみれば、やりたいことを我慢している人たちがどれほど多いかに気づくことができると思う。そして、自分がいまやろうとしていたことは、果たして誰にも迷惑をかけないことなのか、自分以外の相手の立場に立って考えてみる、そのことが大事なのだ。
相手を思いやる優しい気持ちは心に余裕を作る。心の余裕は「心の自由」だ。その自由な感覚は自分を幸せな気持ちにしてくれる。笑顔で「ありがとう」と言うことに、たった一言「ごめんなさい」と言うことに、どれほどの労苦が必要だろう。たったそれだけで、暖かいコミュニケーションが生まれ、自分自身が幸せな気分になれるのなら、出し惜しみすることはない。
シゲ、いつも素敵なエッセイをありがとう。
そして、この前は感想メールで厳しいことを言ってしまってごめんなさい。
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引用出典 : 集英社刊「Myojo」2008年11月号 53頁「加藤成亮の発展途上エッセイ『青い独り言』」
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そう、この前初めて、私はエッセイの感想をシゲ宛(「Myojo」編集部宛)に送りました。
観客の鑑賞態度について、シゲが書いたことに強い共感を抱きながら、でも、同じ観客としての立場で感じた賛同とは異なるザラザラした感情もまた私の中にあって、いつものエッセイのようにただ共感したり、面白いと思ったりするだけなら、きっと感想は送らなかったと思います。
最初にシゲの言うことが正論であること、舞台を楽しむ観客の立場として非常に共感できる内容ことであることを書きながら、でも、私はあえてこう書きました。
「観客の態度を非難する言葉を、加藤君、あなたは書いてはいけない。あなたの舞台に、決して安くはないお金を払って劇場まで足を運んで観に来てくれたお客さんを、たとえどんなにマナーの酷い客だったとしても、その人たちを非難する言葉を言ってはいけない。一部の、酷いマナーの観客に対して非難の言葉を言っていいのは、同じ立場の観客だけです。舞台に立っているあなたがするべきことじゃない。」 …と。
もちろん、こんな言葉で感想を終わりにしたわけではなく、「物事を客観的に見つめ、自分の信念を素直に語るその姿勢と、一部のファンを失うかもしれないリスクを賭けてまで正論を語るその勇気を失って欲しくない」とか「アイドル誌で辛口で痛烈な意見を正直に言える加藤君は凛々しくてとても素敵だと思う」とか、その前に言ったこととは矛盾するようなことを書いたりもしたのだけれど…
メールを書いてから、書いた内容を何度も何度も読み返して、こんな内容のメールを大好きなシゲに送っていいのだろうかと逡巡して。
でも、シゲが言うところの酷い態度の客にも客なりの言い分や考えがあるのではないでしょうか。
開演時間に遅れて入ってきた客にも何か事情があったのかもしれない、それを責めるのであれば、遅れてきた客に対してではなく、シゲが舞台上に立っているときに客席へと案内するスタッフのやり方を批判するべきでしょう。
シゲの舞台はインターミッションがなかったけれど、演目の合間に必ずVTRコーナーがあったわけだから、そのときに客席に誘導すれば遅れてきた客の姿がシゲの目に入ることはなかったですよね。
セリフをかんだり間違えたりしたのを笑った客は、果たしてシゲが思うように「揚げ足を取ろうとして」笑ったのでしょうか。
その程度で笑うのはどうかと私も思うけれど、でも、そういう笑いが起こったのは、笑いの要素が入っていた演目の中だけではなかったかしら?笑ってもいい雰囲気というのがそこに流れていなかったかしら?
「定休日」「絆」「オレンジの花びら」…シゲが静かに私たちに語りかけた演目では、私が観た5公演とも、誰もが静かに聞き入っていたと思うのだけど。
大声で話しかけてくる客は、たぶんライブ会場のノリだったんでしょうね。
NEWSのコンサートで「笑い」をとる役目が多くなっている最近のシゲのことを見ていて、シゲが精魂込めて作り上げたエンターテイメントショーでも、コンサート会場との違いが分からなくて、思わず声を出してしまったのかもしれない。
でも、それは舞台の進行を邪魔しようと、悪意を持ってしたわけではない、ただ、鑑賞マナーを知らないだけ。
「悔しかった」
「僕をそういう風にしか見てくれないことが寂しすぎた」
「この公演を、バカにされたような気さえした」
鑑賞マナーがなっていないこと、イコール、シゲ自身をシゲの舞台をバカにした
という公式は当てはまらない。
もちろん、昨今の目に余る客側の問題はなんとかすべきだし、シゲの言うことは尤もなのだけれど、でも、個々の観客の事情やシゲに対する思いにまで至らず、ただその目に付いたことだけで相手を非難することは、今はまだ発展途上の「アイドル」としてやってはいけないことなんじゃないかな。
そんなことを思って、結局、メールを送りました。
でもね、送ってから、やっぱり、めちゃめちゃ後悔しちゃった。
言葉がきつすぎたかな、とか、シゲは正しいこと言ってるのに、それを挫くようなことを書いちゃったな、とか、読んで不愉快な気持ちにさせちゃったかな、とか。
私の言葉をシゲがどう思ったか分からない、面と向かって話せないもどかしさを、この時ほど痛烈に感じたことはなかったよ。
ま、今はもう過ぎてしまったことだから、気にしてないけどね。
ところで。
エッセイを全部書き終わってからタイトルを書こうとして、あらためてシゲのエッセイを見てみたら、そのテーマに「客―audience―」と書いてあることに気がつきまして。
おいおい~
シゲが書いたのは「audience 観客」の「客」だよ、私の書いた「客」は「customer」の客じゃん。
なので、今回のタイトルは漢字1字だけにしました(苦笑)
つか、あとがきの方が長すぎじゃね?