昨日、私は渋谷へ「パイパー」を観に行きましたけども
したら、ウチの人は新大久保へけーちゃんの舞台を観にいったらしい
ふーん
すれ違い夫婦やな(違)
だけど、ヤマピーと一緒に観に行く予定立ててたんじゃなかったのかなあ
ピーは別の舞台観に行ってるしね、「ちっちゃな」舞台にね(笑)
てかあそこ、箱もめっちゃちっちゃいよね。
でもイプセンだもんなあ、観に来てた人でピーに気づいた人いるかな?
野間口さんも出てたし、気になる舞台ではあったんだけど…
ジャニーズ漬けになる前の私なら行ってた舞台なんだけどなあ(苦笑
ま、それはさておき「パイパー」です。
野田さんの舞台にはいつも驚かされます。
その言葉遊びの巧みさに、そして時代に寄り添いながらも時代を超越した舞台に。
でも、最近は、セリフの奥に隠されたテーマとかメッセージをやたら気にしながら観るようになっていて、観終えた後、ああ、私は野田さんの芝居を純粋に楽しめなくなってるなあっと感じていました。
もちろん観ている間は、怒涛の展開に夢中になって引き込まれているんだけど、そこに何かしらのメッセージを見出そうとしている自分の存在もなんとなく感じていたんだよね。
だから、一番最初に「キル」を見た時のような純粋な驚きや、「パンドラの鐘」を観た時にザワザワっとした衝撃が背中を駆け巡ったあの感覚は、もう体感出来ないのかなあと思ってました。
「パイパー」のラストシーン、私は思わず涙をこぼしそうになりました。
野田さんの芝居で、こんな鳥肌が立つほどの感情に襲われたのは久しぶりでした。
「絶望」の果てに「希望」がある
時代への皮肉で痛烈なメッセージを含ませた芝居の最後に、私たちに示されたものは、人類へのあたたかい「愛の眼差し」でした、決して諦めたり捨ててはいけない「希望」でした。
舞台は現代から1000年後の火星。
かつて、地球から火星へと人々は希望を抱いて移住してきた。
その人々とともに火星に移住したのが「パイパー」と呼ばれる何か。
人間を「幸せ」にするため、人間とともに常に存在する「パイパー」。
まるで生物のような、否、ロボットのような、不思議な存在。
そして人類の幸せが「パイパー値」という数値で表わされ評価される世界。
そんな「幸せ」を追求したはずの世界が、長い歳月を経て、パイパーが人類を襲う世界へと変貌し、残された人々は窮屈な生活を強いられている。
いったい人類とパイパーの間に何があったのか。
過去と現在が舞台上でめまぐるしく入れ替わり展開しながら、火星に移住した人類とパイパーの歴史が少しずつ明らかにされていくのだけれど、そこに繰り広げられる光景はまるで地球の歴史を見ているかのようでした。
完璧なはずの世界に初めての「殺人」と「誕生」が起こり、人々はいつしか「信仰」に「幸せ」を見出すようになる。しかし、その信仰はやがて極端に歪められ、信仰に背を向ける者と敵対する。
それは人類の幸せを数値化していた「パイパー値」が、誰もが同じ基準でなくなることでもあり、それは「パイパー」そのものをも混乱させてしまう。
人類はこれからも同じ歴史を繰り返すのだろうか。
それは逃れようのない人類の宿命なのだろうか。
そんなことを思いながら、気がついたら、火星で起こった歴史を、その行き着く先がどうなったのか、私も見てみたくてたまらなくなってました。同じように自分が生まれる前、火星で何が起きたのか分からず苦悩する、妹ダイモスのように。
なぜなら、その歴史は、もしかしたら、地球に住む私たちがいつか辿る道なのかもしれないから。
私たちの未来はいったいどうなるのか。
やがて、地球から見捨てられ、食料も尽き、荒れ果てた場所で、人が生きていくために、最後の最後にたどり着いたその結末。
その衝撃に目を耳を覆いたくなりながら、でも、そこに「子に向ける母の愛」を感じることで私たちは救われるのです。
倫理を超越する愛の力。
数日前、くしくも「生と死」についてエッセイを書きましたが、「人は人を殺してよいのか」という問い。
子供を殺された親が「犯人を私が自分の手で殺したい」という発言に、賛同こそすれ嫌悪を感じないのは、親の愛がすべてを超越するからだと、いうのは言い過ぎでしょうか。
ただただ「我が子に生きてほしい」と願う親の思い。
親の願いを引き継いで生きた子供には「夢」と「希望」がある。
ただ、時代や世間が、その夢も希望も毟り取ってしまうことがあるけれど。
いつ帰ってくるとも分からない恋人を待ち続ける姉フォボス
新たな命を授かり新たな世界へと旅立とうとする妹ダイモス
絶望の果てを見た二人に、奇跡のように輝きが戻るラストシーン
そのとき、遥か昔、荒涼の大地に蒔かれた種が永い時を経て大輪の花をも咲かす
たとえそれがよくできた芝居の筋書きだからだとわかっていても、現実世界も同じなのだと思いたい。
絶望の果てにあるのはさらなる絶望なんかではなく、そこから再生し甦るための夢と希望なのだと。
そして、私たち人間がそれぞれに抱く夢や希望は、数値で測れるものではない。
夢や希望に共通の基準なんてない。それは自分だけのものだから。
そう、私たちに「パイパー」は不要なのだ。
したら、ウチの人は新大久保へけーちゃんの舞台を観にいったらしい
ふーん
すれ違い夫婦やな(違)
だけど、ヤマピーと一緒に観に行く予定立ててたんじゃなかったのかなあ
ピーは別の舞台観に行ってるしね、「ちっちゃな」舞台にね(笑)
てかあそこ、箱もめっちゃちっちゃいよね。
でもイプセンだもんなあ、観に来てた人でピーに気づいた人いるかな?
野間口さんも出てたし、気になる舞台ではあったんだけど…
ジャニーズ漬けになる前の私なら行ってた舞台なんだけどなあ(苦笑
ま、それはさておき「パイパー」です。
野田さんの舞台にはいつも驚かされます。
その言葉遊びの巧みさに、そして時代に寄り添いながらも時代を超越した舞台に。
でも、最近は、セリフの奥に隠されたテーマとかメッセージをやたら気にしながら観るようになっていて、観終えた後、ああ、私は野田さんの芝居を純粋に楽しめなくなってるなあっと感じていました。
もちろん観ている間は、怒涛の展開に夢中になって引き込まれているんだけど、そこに何かしらのメッセージを見出そうとしている自分の存在もなんとなく感じていたんだよね。
だから、一番最初に「キル」を見た時のような純粋な驚きや、「パンドラの鐘」を観た時にザワザワっとした衝撃が背中を駆け巡ったあの感覚は、もう体感出来ないのかなあと思ってました。
「パイパー」のラストシーン、私は思わず涙をこぼしそうになりました。
野田さんの芝居で、こんな鳥肌が立つほどの感情に襲われたのは久しぶりでした。
「絶望」の果てに「希望」がある
時代への皮肉で痛烈なメッセージを含ませた芝居の最後に、私たちに示されたものは、人類へのあたたかい「愛の眼差し」でした、決して諦めたり捨ててはいけない「希望」でした。
舞台は現代から1000年後の火星。
かつて、地球から火星へと人々は希望を抱いて移住してきた。
その人々とともに火星に移住したのが「パイパー」と呼ばれる何か。
人間を「幸せ」にするため、人間とともに常に存在する「パイパー」。
まるで生物のような、否、ロボットのような、不思議な存在。
そして人類の幸せが「パイパー値」という数値で表わされ評価される世界。
そんな「幸せ」を追求したはずの世界が、長い歳月を経て、パイパーが人類を襲う世界へと変貌し、残された人々は窮屈な生活を強いられている。
いったい人類とパイパーの間に何があったのか。
過去と現在が舞台上でめまぐるしく入れ替わり展開しながら、火星に移住した人類とパイパーの歴史が少しずつ明らかにされていくのだけれど、そこに繰り広げられる光景はまるで地球の歴史を見ているかのようでした。
完璧なはずの世界に初めての「殺人」と「誕生」が起こり、人々はいつしか「信仰」に「幸せ」を見出すようになる。しかし、その信仰はやがて極端に歪められ、信仰に背を向ける者と敵対する。
それは人類の幸せを数値化していた「パイパー値」が、誰もが同じ基準でなくなることでもあり、それは「パイパー」そのものをも混乱させてしまう。
人類はこれからも同じ歴史を繰り返すのだろうか。
それは逃れようのない人類の宿命なのだろうか。
そんなことを思いながら、気がついたら、火星で起こった歴史を、その行き着く先がどうなったのか、私も見てみたくてたまらなくなってました。同じように自分が生まれる前、火星で何が起きたのか分からず苦悩する、妹ダイモスのように。
なぜなら、その歴史は、もしかしたら、地球に住む私たちがいつか辿る道なのかもしれないから。
私たちの未来はいったいどうなるのか。
やがて、地球から見捨てられ、食料も尽き、荒れ果てた場所で、人が生きていくために、最後の最後にたどり着いたその結末。
その衝撃に目を耳を覆いたくなりながら、でも、そこに「子に向ける母の愛」を感じることで私たちは救われるのです。
倫理を超越する愛の力。
数日前、くしくも「生と死」についてエッセイを書きましたが、「人は人を殺してよいのか」という問い。
子供を殺された親が「犯人を私が自分の手で殺したい」という発言に、賛同こそすれ嫌悪を感じないのは、親の愛がすべてを超越するからだと、いうのは言い過ぎでしょうか。
ただただ「我が子に生きてほしい」と願う親の思い。
親の願いを引き継いで生きた子供には「夢」と「希望」がある。
ただ、時代や世間が、その夢も希望も毟り取ってしまうことがあるけれど。
いつ帰ってくるとも分からない恋人を待ち続ける姉フォボス
新たな命を授かり新たな世界へと旅立とうとする妹ダイモス
絶望の果てを見た二人に、奇跡のように輝きが戻るラストシーン
そのとき、遥か昔、荒涼の大地に蒔かれた種が永い時を経て大輪の花をも咲かす
たとえそれがよくできた芝居の筋書きだからだとわかっていても、現実世界も同じなのだと思いたい。
絶望の果てにあるのはさらなる絶望なんかではなく、そこから再生し甦るための夢と希望なのだと。
そして、私たち人間がそれぞれに抱く夢や希望は、数値で測れるものではない。
夢や希望に共通の基準なんてない。それは自分だけのものだから。
そう、私たちに「パイパー」は不要なのだ。