歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

本能寺将星録紀行10―珠玉 細川家の美学―

2011-02-17 02:51:52 | 本能寺将星録
「本能寺将星録紀行」は遂に10回目。
前回で京都の取材地に別れを告げ、舞台は東京へ。
何故に東京かと言いますと・・・


         

「細川家の至宝 珠玉の永青文庫コレクション」
  幽斎・三斎・ガラシャから護立まで―――細川家の美学

2010年4月20日から同6月6日まで東京国立博物館で開催されました。
(なお、実際の取材順は京都よりもこちらが先です)


永青文庫の名は中世細川家の菩提寺であった京都建仁寺の永源庵と、
青龍寺城(勝龍寺城)から名づけられています。
総数で8万点を超える日本で有数の文化財コレクションです。

さて、当日は週末だった影響もあってかなりの人出。
まあ、東京は何時も人多いかねえと思いつつ、入場!!



図録。会場で購入。


図録の中身を御紹介したいところなのですが、やっぱりまずいかな。

目を引いたのはやはり甲冑類。
細川忠興といえば山鳥尾の兜が有名なのですが、将星録では若武者っぽい?ものをと考えて、
本展で展示の二つ靡に。実際は熊本藩十三代・細川韶邦所有。

軍旗、馬印なども多く、作中でも使用させて頂きました。もちろん、細川頼有の「錦の御旗」も。
書状類も多数。そういえば隣を歩いていた老夫婦が忠興の書状について、
「年取る度に上手くなる」と言っていました。書の素人にはまったく分かりませんがそうなのか?
ガラシャ(珠子)の和歌の草稿もありました。こちらは力強い癖字であるとのことです。
他は勝龍寺城の絵図面など参考にさせて頂いております

永青文庫関係者のみなさま、そして細川家様。ありがとうございました。

・・・そういえば、細川家にはこんな小話があるそうな。

「実は細川家にはもっと良いものがあったのですが、先の大戦で焼けてしまいましてね」
「え、そうなんですか」
「ええ、応仁の乱で」



なお、「本能寺将星録紀行」は今回で一応の終了です。
お付き合い頂いた方、ありがとうございました(思い出したように復活したら、それはそれとして)
下巻発売から今週で三週間。今週末あたりで本作のあとがきっぽい何かでも書きたいと思います。

本能寺将星録紀行9―天王山 天下への道―

2011-02-11 08:08:01 | 本能寺将星録
朝起きたら、関東は今日も雪ですが・・・
さて、第9回は天王山の後編でございます。
結構つらい山道を経て、山頂付近へ。



「山崎合戦之地」石碑。


天正10年6月13日、西上した羽柴秀吉軍と明智光秀軍が激突。
この日まで光秀に味方する有力武将はなく、逆に羽柴方は3万余の大軍と伝わっています。



羽柴方が軍旗を掲げた「旗揚げの松」


山崎は狭隘の地ですが、それが機能するのは北西の天王山を制圧した話。
開戦前、羽柴方はこの山を占拠して、軍旗を松に掲げたと伝わります。
その時点で既に明智光秀の命運を決したとも言えましょか。

作中、天王山を占拠した細川忠興がこの松に「錦の御旗」を掲げています。
ちなみに細川頼有に下賜されたあの旗、作中の説明通りのものであり、
現在も現存しています。




山中には「秀吉の道」として絵巻物が。




かくして、明智光秀は小栗栖の露と消え、




秀吉は天下へ綺羅を飾ります。

そして、16年。秀吉の死によって天下は再び乱れ、
以後のお話は『関ヶ原群雄伝』をご覧下さい。

宣伝はこの位に、山頂へ。


 



天王山頂。宝積寺から40分程度。


山頂まで登るとほぼ視界が利きません。
作中、忠興の本陣は「旗揚げの松」の辺りと言うことに。

そして下山。


 

山頂少し下にあるのが、「十七烈士の墓」
禁門の変における、眞木和泉以下、長州藩士の墓です。
一応、こちらも参拝を。

この「本能寺将星録紀行」、次が多分最終回に。
次回作の準備を進めている時期ですが、ブログの方ではもう少し将星録がらみの話を引っ張ります。
多分、新企画っぽい何かが。



本能寺将星録紀行8―天王山 水無月の山道―

2011-01-30 01:49:16 | 本能寺将星録
「本能寺将星録紀行」第8回、舞台はいよいよ天王山へ。
明智、羽柴の雌雄を決した山として、歴史にその名を刻んでおります。
東海道本線山崎駅から徒歩で10分程度(途中から山道)



「天王山登り口」別の看板が目立つな。

 
宝積寺山門と本堂。


宝積寺は皇太子時代の聖武天皇によって神亀2年(725)に創建されました。「宝寺」の通称が有名。

智本光隆の歴史群像大賞優秀賞受賞作『風花』にも、宝積寺は登場しております。
『本能寺将星録』では山崎の合戦において細川勢の先鋒・阿閉貞大が布陣した設定になっております。
まさに直下は山崎の合戦場になります。


 
レールは丸太の伐り出し用か?


本堂の裏からは山頂へと続く山道。時期は6月末、作中の時期ともほぼ一緒。
同じ道を細川忠興も登っております。珠子らも遊びに来たかも?


 
途中から見た風景。桂川、そして宇治川。


今回は写真が多いので2回に分けて。


サッカー日本―オーストラリア戦は延長へ。
勝利への願いを込めて更新!!




本日発売日!!

2011-01-28 08:11:21 | 本能寺将星録
今日は『細川忠興戦記 本能寺将星録』下巻の発売日でございます。
どうも今回は配本が早い?のかな。早くもお手に取って頂いた方、ありがとうございます。
上巻の時は書き忘れましたが、感想等はこのブログに書き込んで頂いて構いません。

さて、先週の担当・A田氏との打ち合わせは無事終了。どうやら、次も書かせて頂ける様子。
現在、ボチボチと構想に入ってはいるのですが。
何だか、頭の上を黒田官兵衛と高山右近がまだ飛んでるような。
忠興と珠子ではなく、何故だかこの2人が延々とループしてる・・・

前作、『関ヶ原群雄伝』は全3巻で構想開始から完結まで1年10ヶ月。
一方、『本能寺将星録』は構想込みで8ヶ月強。
後半、本当に怒涛のような日々でした。
短いけれど濃密な時間。歴群新書的には色んな意味でスタンダードではないかも知れませんが、
思い入れの深い作品となりました。

それでは、細川忠興と珠子の物語に、最後までお付き合い下さいです。


智本光隆

本能寺将星録紀行7―石清水八幡宮 鎮護の白羽―

2011-01-25 02:37:21 | 本能寺将星録
え~前回、ただの「けいおん!!」紀行になってしまったことは置いといて。
「本能寺将星録紀行」第7回は岩清水(男山)八幡宮です。
石清水八幡宮は平安時代の貞観元年(859)の創建、南都大安寺の僧・行教は九州の宇佐八幡宮において、
「我、都近き男山の峰に移座して国家を鎮護せん」との神託を得ました。
以来、比叡山延暦寺に対して都の南西を守護する皇城鎮護の守護神とされております。

さて、京阪電車の八幡市駅から男山ケーブルカーへ。



そう言えば、ケーブルカー乗るの相当ひさしぶり。
前回は比叡山、7年くらい前?


このケーブルカーは大正15年の創業。戦時中の供出で廃止されたのは愛宕山と同じ。
こちらは昭和30年に再建されております。(距離は短くなったようですか)

いざ行かん、山頂へ。



裏参道に通じています。その鳥居。ちなみに禁煙。うちの父親ならここから引き返すに違いない。


実は1月28日発売の下巻では、忠興が男山へ登っております。
ですが、取材の時点ではこの八幡様、登場するかどうか未定。
同じルートで上れば良かったかなと、執筆時点で深く後悔したもの。
このケーブルカーだと裏参道の方へと回ってしまいますしね。

上院を半分回り込むような形で三ノ鳥居、そして参道正面へ。
この一直線の参道、そして朱塗りの本殿は作中にそのまま登場しています。


 
月の光の中、参道を進む細川忠興(今は昼だけど)

 
朱塗りの本殿の前で忠興を待つ男とは?続きは下巻で!!(しかし、改修工事中なのが少し残念)


社殿は何度も炎上しており、現在の社殿は徳川三代将軍・徳川家光によって寛永11年(1634)に造営されたもの。
作中の時点とは違うのですが。
まあ、そこは雰囲気を優先!!(いいのか?歴史作家として)

源義家はこの岩清水八幡宮で元服、八幡太郎と称されました。
智本光隆が歴史群像大賞に応募した『風花』の主人・新田義顕(新田義貞の嫡男)は清和源氏嫡流筋、
そして『本能寺将星録』の細川忠興も足利一門です。一度は参拝したと思っていました。
まずは両手合わせましょう。そしてもろもろを・・・


 
赤の鉄橋は御幸橋。


再び、ケーブルの方へと戻る。
山頂から望む。淀川、木津川、桂川が合流する。対岸北には忠興の居城・勝龍寺城、そして・・・

次回に、続け!!



購入した白羽の矢。軍記物などでは白羽の矢は神の意思を示す。
忠興に示された神意とは?