歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

『本能寺将星録』下巻到着!!

2011-01-23 02:51:27 | 本能寺将星録
今週の金曜日、1月28日発売の『細川忠興戦記 本能寺将星録』下巻の見本が到着しました!!





帯で隠れていますが十文字槍を手に馬を駆る細川忠興。そして、羽柴秀吉が表紙に登場!!

東上する羽柴秀吉の大軍勢。
蒲生氏郷、津田信澄はどう動くのか?
自らの想いを忠興に告げる明智光秀。
高山右近の掲げる「正義」
そして、黒田孝高との最後の決着。
珠子に迫る危機。
その先に、忠興の見据える「天下布武」はあるのか!!

・・・てな感じですか!?
『本能寺将星録』はこれにて完結。上巻に引き続き、よろしくお願い致します。

さて、今週は将星録紀行を更新しないと。こちらもあと2、3回かな?




本能寺将星録紀行6―愛宕山 百韻は見ず―

2011-01-11 22:56:27 | 本能寺将星録
さて、安土より帰還。
次なる目的地は洛西深く分け入った地、その名は愛宕山。

愛宕山は山城・丹波の国境に位置する山。
大宝年間(701-704)に神廟が開かれ、古来より修験道の聖地とされた山です。
本能寺の変直前の天正10年5月28日、この山を訪れた明智光秀は連歌会において百韻の発句に
「時は今、雨が下知る皐月かな」と読み、織田信長への叛意を示したと。

ちなみに『本能寺将星録』を書くにあたり、真っ先に思い描いたのは、
愛宕山での細川忠興と明智光秀のシーンだったりします。

さて、そんな訳で三条京阪からバスで麓の清滝へ。



嵐山経由。修学旅行生が大勢いました。


しかし、この日は前夜から雨。まあ、「梅雨の時期であるから、一日中晴れた空を仰ぐということは難しい」
・・・何てシーン何処かにありましたが、まさにそんな時期で。
清滝に到着する頃には、何とか雨は上がりましたが。ちなみに、客は僕ひとり。



渡猿橋から清滝川を望む。


愛宕へと修業に訪れた文覚上人が、ここで猿が連なって魚を取っていたことに由来。
作中にも登場するのですが、橋そのもの写真を撮っていない間抜け。
しかし、また雨が。う~ん、どうしたもんか。15分程度、様子を見ましたが。



10時23分、入山します。


『本能寺将星録』の作中、愛宕山と細川家とは密接な関係があったとしています。
京兆家の細川政元は修験道にのめり込んだとされ、奇人変人に描かれることが多いのですが、
細川家(京兆家)の全盛を築いた男には、思惑があったに違いない・・・そこから得た描写になりました。

この愛宕山、戦前はロープウェイが設置され、山頂にはスキー場やホテルが建設されたとのこと。
戦時中の金属供出で廃止、戦後は信仰の山へと戻りました。
その参道に足を踏み入れたのですが・・・

一歩、登る度に足を取られる、泥の参道。
振ったり止んだりの雨。
で、あっちこっちに流れる小川?を飛び越える。

まず、30分歩いたのですが、この時点で靴はずるずると滑る。
装備はそれなりに背負っていたのですが、靴が少々甘かったかも知れません。
根本的に僕の登山スキルの問題という気がしますが。

更に10分歩いたところでかなり強めの雨。
愛宕山は普通に登っても2時間~2時間半はかかるそうなので、
この様子だと3時間は見なければならない。
下山は夕方。いや、この足元ではもっとか。

しかし、智本光隆は入山に際し、ひとつの誓いを立てました。
「如何な状況でも、山頂までいければ今度の作品も、書き上げることが出来る」と。
その決意を新たにした瞬間、頭の上から振ってきたような天の声。
担当・A田氏「いや、登らなくても書いて下さい」
そんな天の声にも変な声が。
・・・はい、そうっすね。

一応、その後も5分程度進んだのですが、濁流っぽいのが行く手を阻むに至って断念。
すいません、山を甘く見てました。
この翌日、母校を訪問して恩師の先生とそのゼミ生(後輩にあたるのか)にこの話をした所、
「そりゃ、この時期に無茶だ」
と斬って捨てられました。

しかし、梅雨の時期にこの山を登った光秀、そして忠興(作中では)はすごい!!
それを実感して、愛宕を去りました。
何だよ、この締め方は。

途中で写真どころではなくなったので、数枚ですが一応。


 
参道の傍らには地蔵菩薩。このあたりはまだ歩きやすい。


ちなみに、嵯峨周辺には足利尊氏が後醍醐天皇を弔った天龍寺、
他に新田義貞、楠木正行、足利義詮の墓なんかもあります。
南北朝ファンにはかなり嬉しい。
京都在住当時、もちろん行ったことはありますが、当時はフィルムカメラだったもので、
機会があれば写真を整理して紹介を。


さて・・・そんな訳で今日の所は帰りましょう。
ところで、智本光隆は大学在学中、左京区一乗寺に暮らしておりました。
今回も、そのあたりに泊まっております。
一乗寺と言えば宮本武蔵と吉岡一門の決闘「一乗寺下がり松」で有名ですね。
で、そんな我が下宿の街。どんな所かといいますと、



叡山電鉄一乗寺前。


はい、こんな所。分かる人、多いのか少ないのは見当もつかない。
いや、深夜に偶然見た時は驚いた。
あのアニメ作った奴、きっと天天有のラーメン食ってたな。
俺は鶴はしも好きだけど。



ちなみに隣、修学院駅。


何気に今日で6日連続更新。このブログ始まってから初。
・・・って、今回は一体、何の紀行やねん!!





『細川忠興戦記 本能寺将星録』下巻

2011-01-08 22:45:00 | 本能寺将星録
下巻の内容、学研出版サイトのものを転載しても良いようなので、
ブログの方でもご紹介を。


主君・信長暗殺の首謀者である羽柴秀吉を討つため、細川忠興・蒲生氏郷・津田信澄の三人は明智光秀に協力。
一方、兵力で勝る羽柴軍は、直接雌雄を決すべく東進。ついに山崎の地で血戦の火蓋が切られた! 
忠興は亡き主君の天下布武を継げるのか!?



作者的に付け足すとしたら・・・
明智光秀が「謀反」の先に目指した、この国の姿とは?
高山右近の真意は何処にあるのか。信仰の果てにあるものは?
秀吉、そして黒田孝高との決着は?

「天下布武」への想いを胸に秘めたまま、合戦に及ぶ細川忠興。そして蒲生氏郷と津田信澄。
悲壮な決意を抱く明智光秀、光慶親子。
火蓋が切られる山崎の合戦。その果てに忠興と、そして珠子の選択した未来は?
そこにあった覚悟と別離。


2011年1月28日(金)発売となります。
繰り返しますが、よろしくお願い致します。


智本光隆

本能寺将星録紀行5―安土城、天主の残光―

2010-12-31 01:17:21 | 本能寺将星録
「本能寺将星録紀行」第5回、旅は安土山の上へと。
さて、大階段から登山して安土城の中心部へと入ります。



虎口を抜けていざ、天主へ。


 
・・・思ったより狭いな、というのが正直な感想。


この安土城は他の城と違って、信長が日々の暮らしの場所にしていたとのこと。
安土全体にいえることですが、知名度の割に史料がない。
現在、流布している天主のイメージも『信長公記』に拠るところが大きいかと。
ちなみに、所謂「吹き抜け」は『本能寺将星録』では存在したということにしています。

安土城は本能寺の変後、放火によって焼失しています。
犯人?は織田信雄、明智秀満、乱入した掠奪者と諸説あります。
本作では、さて・・・



次に伝二の丸跡の信長公廟へ。




織田信長という存在は、今作の主人公である細川忠興のカリスマとして設定しています。
前作、『関ヶ原群雄伝』は「豊臣の子」がテーマのひとつでしたが、
差し詰め忠興や蒲生氏郷は「信長チルドレン」とも言うべき存在。
氏郷は早死にしましたが、忠興は生涯、その想いはあったのかな・・・と。
仮に氏郷が死なず、関ヶ原で忠興と共同戦線を取っていたら・・・とか考えますね。

さて、次は総見寺へと下山。途中の写真を。


 

何か、向こうから誰か現れそうな錯覚を覚えます。



西の湖が見えますね。安土城の時代には琵琶湖と直結していたとのこと。
天気が悪かったのが少し残念(梅雨時だから、仕方ないか)

そして、総見寺へと到着。


 

安土城築城に伴って開山。廃城後も存続して江戸時代を通じて活動したものの、
嘉永7年(1874)に伽藍の大半が焼失、現在残っているのは三重塔と二王門のみとなっております。



そして、下山。ちなみに、この先は大階段のところへつながっていました。

とにかく、「山の中」という印象。神秘性すら感じますが、逆に往時の想像がし難い面も。

「安土編」はこれにて終了。
本年の「本能寺将星録紀行」の更新もこれで終了です(当たり前か)
さあ~京都帰ろう。


参考文献
『安土城1999』安土城考古博物館 1999年
『安土 信長の城と城下町』滋賀県教育委員会 2009年






細川ガラシャ

2010-12-28 21:38:07 | 本能寺将星録
今回、帯にも表紙にも触れられていませんが、『本能寺将星録』には細川ガラシャ(明智珠子)が登場しております。
細川忠興の正室、明智光秀の娘、キリシタン・・・
作中の時期はまだ洗礼を受ける前と思われ、ガラシャの洗礼名は直接的には登場しません。
え~正直、世間的には忠興より知名度高いです。
以前にちょっと触れましたが、長岡京市にも熊本にも「ガラシャ通り」があります。

智本「今回の作品には細川忠興とガラシャが出ます」
親戚「主人公はどっち?」

智本「細川忠興戦記 本能寺将星録よろしくお願いします」
知人「細川忠興っていうと・・・」
智本「妻はガラシャで」
知人「あ~あ~知ってる、知ってる。キリシタンの」

・・・なんて反応もありました。

さて、そんなわけで珠子が登場している『本能寺将星録』(下巻の方が出番多いか?)
正直、忠興と珠子の夫婦仲には諸説あります。
性格などはある程度オリジナルですが。

ひとつ、描こうと思ったのは「信長を敬愛する忠興」に対して「細川の側に立つガラシャ」です。
珠子といえば創作では、本能寺の変の際に父・光秀に味方してくれと懇願し(願っていて)、
それが切っ掛けで忠興と不仲になった・・・というのを多く見ます。
『本能寺将星録』では果たして?

イエズス会、そして高山右近は?
そして、「庭師」のエピソードは私なりの解釈を加えてみました。
その先に忠興と珠子の未来はあるのか?



勝龍寺城の前にも「明智光秀三女玉お輿入れの城」の石碑が。