歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

本能寺将星録紀行4―安土城、天下布武への道―

2010-12-26 01:06:27 | 本能寺将星録
何気に今回からタイトルを微妙に凝ってみました。
この「本能寺将星録紀行」も第4回目でいよいよ、安土城へ。



セミナリヨから5分程度。


今更、何かしらの説明が必要とも思えませんが、
織田信長が「天下布武」の拠点として築いた当時、日本最大級の城郭が安土城です。
天正4年(1576)に着工、本能寺の変直後に焼失、僅か6年で消えた「幻の名城」です。

で・・・セミナリヨの時も痛感したのですが、確かに「幻」だけあって知名度の割に資料がない(泣)
そんな訳で、『本能寺将星録』では安土の街など、かなり推測で書いています。
当初の予定に比べて安土城の出番が減ったので、あまり目立たないかも知れませんが。
さて、そんな訳で安土城へ。今回は写真を何時もより多めに。天主・総見寺編と2回に分けてお送り致します。


  

大階段。結構、段差はあります。作中にも登場。そして、側面から。


安土城大手路の大階段。
多くの創作でこの場所は、安土城の表玄関的に描かれています。本作も思いっきり同様。
しかし、この「大手」なる言葉、当時は使用されてはおらず後世のもののようです。
「追手」という字を当てたともされ、必ずしも正面の意とは限らず。
もっとも、発掘調査ではこの大手路は本丸からそのまま下街道に直結しており、これは後の城でも見られない特徴。

現在の大手路は平成元年からの発掘調査により、江戸時代の石積みなどを取り払って、
築城当時を再現したものであります。



伝羽柴秀吉邸。大手路を挟んで伝前田利家邸が。


大手路の左右は羽柴秀吉、前田利家、徳川家康の邸地と推定されています。
これらは後世に当てはめられたもので、必ずしも正確とはいえないもの。
確かに安土城築城当時の秀吉、利家が向かい同士に邸を構えるというのはちょっと考えられないか。



分かりやすくプレートが(笑)


安土城といえば有名なのは城の建造物に石仏を使用したこと。
これは当時としては特に珍しくいことでもなく、信長の仏教に対するスタンスとは多分無縁。
作中では細川忠興がこの石仏、かなりぞんざいに扱っておりますが。


  
ブログ開設で使った紫陽花は、このあたりだったかな。


現在では完全に山の中という感じですが、築城当時はこれらの木々は取り払われていたと思われます。
さて、次回は安土城の中枢部、大天主へ。







本能寺将星録紀行3―セミナリヨ―

2010-12-21 23:31:51 | 本能寺将星録
前回、別アングルと言いながら、何か同じような写真になった忠興、ガラシャ像を追加しました。
さて、何か久々ですが「第3回」は京都から少し離れて、織田政権の本拠地・安土へ。
最大の目的地はもちろん、あの覇王の城な訳ですが、今回はその前に寄り道(というか、道筋的には通り道?)を。
その前に、安土駅前には銅像が。



有名なのは清州でしたか?大分、イメージ違う感じですね。



さて、『本能寺将星録』では安土のセミナリヨが、結構重要な場所になっていたりします。
作中でも記述がありますが天正8年(1580)、織田信長により教会要地として下付。
イエズス会のオルガンティーノ司祭、高山右近によりキリシタンの子弟教育のために建設されたのがセミナリヨです。
建物は3階建てで教会と神学校が併設されていたとされています。
水色の屋根瓦は安土城とこのセミナリヨ以外では使用が禁じられていた禁色。
授業内容は日本文学、キリスト教理、ラテン語、修辞学、音楽など。
その後、本能寺の変で焼失し、2年余りの短い命脈を絶ったのがこのセミナリヨです。



ちょっと、住宅街が映りこんだかな。


もっとも、セミナリヨの正確な場所は分かっておらず、ここは推定地。
内装に関してなど細かい点は不明なので、作中では推測まじりで描いてます。
もう、完全に妄想状態というか(笑)

なお、このセミナリヨ出身者としては本作にも登場するパウロ三木がいます。
摂津(阿波との説も)に生まれセミナリヨ1期生となり、宣教師として活躍しました。
豊臣政権下のバテレン追放令後の慶長元年(1597)に捕縛され、長崎で十字架にかけられて殉職しています。
いわゆる「日本二十六聖人」として、バチカンによって列聖されてもいます。
もっとも、豊臣政権のよる一連のキリシタン弾圧の背景には、南蛮人による日本人奴隷売買が背景にはあるのですが。



奥のものがパウロ三木の碑。


ちなみに、このセミナリヨ跡は本当に安土山の直近。
本当にこの場所にあったとしたならば、信長からの優遇ぶりが窺えますね。



ちょっと左に振ると安土山が。


12月24日の発売日まであと3日。
さて、次回はいよいよ安土山へ。



『本能寺将星録』到着!

2010-12-18 05:02:07 | 本能寺将星録
先日のこのブログでお話しした通り、新作の見本が到着しております。


              
        『細川忠興戦記 本能寺将星録』 12月24日発売


池田宗隆先生、『関ヶ原群雄伝』に続いて素晴らしいイラストをありがとうございます。

さて、今回の表紙ですがメインはもちろん忠興なのですが、その甲冑は結構凝っています。
作中にも説明がありますが、眉庇の大きな兜に小型の面貌当、細川忠興が考案、完成させたという「越中具足」です。
・・・「作中の時期にあったのかよ」というツッコミは、全力でスルーする方向で。
ちなみに、陣羽織も「三斎羽織」と称された独自のもので、後に初期の明治陸軍でも採用されています。
いずれも実戦重視のデザインで、忠興の性格が良く出ているとのことです。

細川忠興といえば山鳥の尾の頭立が有名ですが、本作では同じく細川家に伝わる、
二つ靡の兜を着用しております。

本能寺炎上!!その時、忠興は・・・・・みたいな感じで。
皆様、よろしくお願い申し上げます。


智本光隆




本能寺将星録紀行2―勝龍寺城―

2010-12-15 00:24:30 | 本能寺将星録
さて、「本能寺将星録紀行」第2回は長岡京市の「勝龍寺城」です。
この城は織田政権で細川家の居城となり、今作では度々登場しております。

古来においてこの地は桓武天皇により、長岡京が造成されたのは有名なところ。
この一帯は久我畷と称され、京都―難波間の交通の要所でもあり、同時に軍事的対立の場所でもありました。
智本光隆は元々、専攻は南北朝時代ですが元弘、建武、そして観応の擾乱と幾度も戦いの舞台となっております。
特に有名なのは元弘3年4月、足利尊氏はこの地で鎌倉幕府に離反し、丹波篠村八幡宮で宮方の旗を掲げています。
この軍勢の中には細川家の祖先も、当然加わっていた訳で。

時代はやや下り、1338年(延元4 暦応2)、南朝は北畠顕家、新田義貞が立て続けに死んだその年、
足利方が洛南のこの地に築いたのが勝龍寺城です。
淀川南の男山は南朝の拠点のひとつであり、都奪還を目指す宮方に備える目的があったとされます。
そして、この城を築いたのが細川頼春。その子が藤孝、忠興の祖先となる細川頼有になります。

しかしながら、この伝承は後に勝龍寺城城主となった細川氏が、正統性を強調する為の創作との説もあります。
ただ、当時の南北朝の力関係から、この地の北朝方拠点を任せられるのは、京都守護を務める細川頼春というのが妥当な気も。
実際、頼春は正平の一統による宮方の京都乱入で、都を守って戦死していますし。

さて、そんな感じで長岡京駅から、いざ勝龍寺城へ!・・・・・休園日でした!!
現在、城跡は「勝龍寺公園」になっているそうです。
仕方なく、これだけ撮って帰るさ。平成4年から「長岡京ガラシャ祭り」があるそうです。



かかり付けの眼科さんに聞いた話なのですが、熊本にも「ガラシャ通り」があるそうな。

・・・地元の皆さん、忠興にも少し触れてあげて下さい。

で、めげずに二日後。


   
ちなみにイベントの際には、城門に「九曜」と「二引両」の旗が立つようです。


作中でも触れていますが、永禄11年(1568)の織田信長の上洛時、勝龍寺城は三好三人衆のひとり岩成友通の支配下。
藤孝はこれを討ち果たし、信長より先祖由来の城と長岡の一帯を与えられました。
忠興と珠子はこの勝龍寺城において婚儀を上げております。公園内には平成3年鋳造の銅像が。


   
以前のものと別アングル。そして、城内の様子を。


ちなみに、勝龍寺城は小説(主にガラシャ主人公や明智物)ではただの小城に描かれることが多いですが、
発掘調査ではかなりの規模の城であったとのこと。作中では折衷的な描写になってますが。
他の作中描写としては大手道の松並木とかあります(現存はせず)
そちらは「山城国西岡御領地之図」(永青文庫)に拠っています。

勝龍寺城は本能寺の変当時、帰属が少々不明な面もあります。
基本、地元では細川家の城と位置付けているようです。
そんな訳で、今作でもそのように(笑)



別アングルと言いながら、前のと似てたので別の角度を。スイマセン。









本能寺将星録紀行1―高桐院―

2010-12-09 21:29:21 | 本能寺将星録
12月24日発売の『細川忠興戦記 本能寺将星録』に先駆けて、このブログでもちょこっと企画を。
今年6月末、本作執筆のために取材に行きましたので、その写真を随時公開したいと思います。
その第1回は京都紫野の「高桐院」(こうとういん)です。

同院は京都の大徳寺塔頭のひとつで細川忠興、珠子(ガラシャ)の墓があります。
初回から墓ってのも何ですが、まずはご本人に挨拶が大事(笑)
大谷家の場合、墓所が群馬県伊勢崎にあるので楽でした。吉勝も吉継も入ってないんですが・・・

高桐院は慶長6年(1601)建立、開祖は細川藤孝の弟・玉甫紹そう(王に宗)です。智本光隆は京都在住が長かったので、
大徳寺には行ったことがありましたが、高桐院はこれが初めて。

   
参道、そして緑の天蓋


書院南庭


本作は本能寺の変(天正10年)が舞台ですので、もちろん高桐院は登場しないのですが、
ここをモデルとした庭が度々登場しております。



そして、忠興と珠子の墓所へ。

「誠心誠意、書かせて頂きます」と挨拶を。そして、前作の描写を謝罪。


これは千利休秘蔵の石灯篭。天下一の灯篭との評があったもので、豊臣秀吉から求められたものの、
裏面に傷をつけてキズモノとしてこれを逃れ、切腹の際に忠興へと贈ったという逸話が。
後日、完全を忌む忠興自身が付けた傷もあるとの伝承あり。

ちなみに、後に細川家が転封された熊本の泰勝寺には藤孝、麝香夫妻、忠興、珠子夫妻の墓石が
一ヶ所にあるとのことですが、4つ同じ大きさのようです。
去年、大河ドラマ「天地人」で直江兼続夫妻が同じ大きさの墓で並んでいるとありましたが、
そう言えば僕の地元の酒井重忠夫妻も同様。(2代目からは藩主のみ)
これは、全国的に同様か?
珠子の墓は大坂の崇禅寺にもあるとのことです。

しかし、横には細川藤孝以下、歴代当主の墓も。
その中で、自分と珠子の墓だけ別に建立する忠興。

ちなみに、ちょうど今の時期は紅葉の名所として有名。
「緑の庭」から「赤の庭」へ?