8、「本物はどれだ!?」南北朝時代の神器争奪戦争!!
そんなわけで(…と普通に始めたが、前回から間があいてすいませんです)
「三種の神器」は天皇家、そしてそれに与する公家、武家の間で、
何度も熾烈な争奪戦が繰り返されています。
それは南北朝時代以前も同様で、「平家の都落ち」で安徳天皇と共に
「三種の神器」も持ち去られてしまったため、
それを取り戻すために後白河法皇、源頼朝は四苦八苦するはめになるわけですし。
・・・結局、頼朝の弟・義経はそんなことまったく考えてなかったのか、
草薙剣は壇ノ浦に沈んでしまいましたが。まあ、それじゃあ、頼朝も怒るか。
その草薙剣、南北朝時代になると突然伊勢の浜に打ち上がり・・・これは前回書いたかw
さて、それで問題の南北朝時代です。
私はもともと、大学のころから南北朝時代が専攻でしたが、
南北朝時代はこの「争奪」が、それこそ半端ないといいますか。
原因は明白で「大覚寺統」「持明院統」という、
2つの皇統があるわけなんですが。
ざっと書いてみても、、、
・1331年(元弘元)の元弘の変で、
後醍醐天皇は神器を鎌倉幕府に取り上げられ、持明院統の光厳天皇へ。
・1333年(元弘3)、足利高氏が六波羅探題を攻撃。
探題・北条仲時は光厳天皇と三種の神器を伴って関東へ逃げようとするも、
近江番場峠で自害。持明院統の皇族らは捕らわれる。
・同年、鎌倉幕府滅亡。神器は光厳(上皇)から、後醍醐天皇へ還る。
・1336年(建武3 延元1)の比叡山の南朝軍の敗北(一応、名目上は和睦)
後醍醐天皇は京へ戻るが、皇太子・恒良親王は新田義貞に守られて北陸へ。
一時的に、新田義貞主導による「北陸朝廷」が起こる?
(神器については記録はなし)
・後醍醐天皇は北朝に三種の神器を引き渡すが、吉野に逃れた後に「あれは偽物」と宣言。
・1352年(観応3 正平7)に南朝軍が京都を一時奪還(正平の一統)。
「偽神器」のはずの三種の神器を、しっかり回収して行く。
この際、光厳上皇ら北朝の皇族を吉野に連行。
・天皇、上皇、そして三種の神器をすべて失った室町幕府(北朝)は、
「神器なし」の異例の状態で、後光厳天皇を即位させる。
・・・・さて今、「三種の神器」の本体はどこに?
なんか・・・バスの乗客はいま、何人でしょう?・・・みたいな話になってしまったww
通常、三種の神器は箱に収められていて、
歴代天皇でも「現物」をみていない方が多いといいます。
でも、後醍醐天皇って性格的に見てそうだけどさw
すくなくとも、新田義貞や足利尊氏、北畠親房であっても、
本物を見極めることが出来たかどうか・・・
というか、義貞は偽神器渡された可能性高そうだが。
いろいろ、気の毒なんです、新田義貞は。ここ、群馬県人目線入りますが!
ちなみに後醍醐天皇は一度、
鎌倉幕府に捕縛されて神器を取り上げられている経緯があるので、
「偽物」を事前に用意していても不思議はないですが・・・
それ以前に、これだけ激しい戦いの中、
消失や紛失がなかったとしたら奇跡的です。
一応、正平の一統が破たんしたあとは南朝が保持。
当時、尊氏は関東にいましたが、
息子・義詮は北朝の天皇、三種の神器の双方をほっぽり出して、京都を放棄します。
そもそも、室町幕府・・・というか足利家は持明院統を軽視する傾向にあります。
これは下野足利荘が尊氏の代、実は大覚寺統の公領だった・・・
ことが原因のひとつかと。
実は新田荘も大覚寺統の公領・・・
つまり、新田、足利ともに「主君」は後醍醐天皇になるから、
状況がよりややこしい・・・
そして、神器は南北朝合一(1392)で南朝・後亀山天皇から引き渡され、
以後は北朝が保持していたのは間違いないと思われます。
北朝こそが唯一の、正統なる皇位の継承者に!
そんな中で起こったのが嘉吉3年(1443)9月、
本作『神剣の守護者』のオープニングに当たる「禁闕の変」です。
さて、神器は?
もう、「本物はどこだ?」って方が適当でしょうねw
『神剣の守護者』の表紙に草薙剣は描かれてますが、
これがなぜかwタイトルロゴで見えない。
と・・・思ったら、このポップは見えるな。
あと、、、手元に今市子先生がお描きになった原画、、、
それのコピー?にもありますが。
・・・出そうかなw