颯爽と巨人打線を剛速球で切り裂く姿は美しかった。
好投するも援護なく、1発に沈む試合すら華があった。
大洋ホエールズ最終年に入団し、
右のエースとして先発で活躍し、
1998年は前年の故障から見事復活して13勝、
日本シリーズ第2戦では完封、
2006年に渡米してドジャースのクローザーとなり、
日本人投手初の胴上げ投手(厳密にはワイルドカード)
オールスターゲームにも登板。
2013年に故郷・仙台の楽天に入団してここでも優勝。
日米7球団で活躍した斎藤隆投手が引退を発表されました。
日米通算 740試合 112勝96敗 53H 139セーブ 防御率3.15
東北高校で5番ファーストで甲子園に出場しながら、
東北福祉大3年で
「お前、この打席で凡退したら投手になれ」で凡退。
で、投手に転向。それが大洋初の1億円ルーキーに。
ルーキー当時に先輩内野手から「おい、1億円のピッチングを見せてみろよ」
と言われたそうです(誰だ?)
入団2年目の1993年に頭角を現してこの年8勝。
同年は野村が17勝で最多勝に輝いており、
左右のエース誕生の期待が高まりました。
しかし、その後は9勝8勝10勝・・・
まあ、この時期は過渡期のチームが弱かったんですが。
(2000年代よりずっと強いが・・・)
10勝した翌年は遊離軟骨で1年を棒に振ります。
その97年、チームはヤクルトを猛追する優勝争い・・・
そして98年。
開幕当初はセットアッパーで完璧な投球を見せます。
ある意味、後年の輝きの片鱗を見せたことになりますが、
5月から先発に回り、後半戦は柱として活躍。
10月8日の優勝決定試合は、当日に先発変更になったと言います。
そして、日本シリーズ第2戦では完封劇。
最後のバッターが、今楽天のチームメイトの、
松井稼頭央というのも何か印象的です。
このシリーズは優秀選手賞を獲得します。
1998年10月20日 日刊スポーツ
翌年は14勝3敗という驚異の勝率。
しかし当時、変化球主体の投球を本人は「悲しい変身」と言っていた記憶があります。
9月まで、上原や同僚の川村と最多勝を争うも、股関節を痛めて離脱。
翌年、メジャー移籍した佐々木の後釜にと、権藤さんにクローザー転向を勧められますが、
この時は固辞したそうです。
しかし、翌年は森監督下でクローザーに。
1年目こそ27セーブをあげますが、翌年はチームが最下位を独走する状態に出番すらなし。
そして、オフに最初のメジャー挑戦を宣言しますが、
この時は交渉はまとまらず。
2003年から本人、山下監督の希望もあって先発に戻りますが、
ここから何か迷走に・・・
3年間で11勝に終わります。2005年はそんなに悪くなったですが・・・
「斎藤隆は終わったのか?」との声が聞こえる中、
決断は2005年オフでした。
みずから自由契約を申し出、そしてロサンゼルスドジャースへ。
斎藤隆本人、これを
「生まれてはじめてみずから下した決断」と評しています。
つづく。