歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

惜別 谷繁元信①

2015-09-27 20:03:09 | 日記
「なんであんな下手な人使うんだろう?」
そう言われていた選手が、昨日で引退しました。


大洋・横浜―中日でプレーした谷繁元信捕手が、
昨日の横浜対中日戦で引退しました。
1988年ドラフト1位で横浜大洋ホエールズに入団、
翌89年のオープン戦で早くもホームランを打つなど、
早くから正捕手として期待されました。
高卒1年目から80試合に出場したことが、当時の期待を物語っています。
しかし、、、中々目が出ないだな、これがw
今年の巨人・小林を見ても明らかですが、
捕手というのは育てるのが、もっとも難しいポジションです。
それこそ、数シーズンを「捨てる」覚悟が必要なほどに。


谷繁の場合、須藤監督のもとで正捕手となるべく育成されましたが、
江尻代行、そして近藤監督の時代には、
西武から移籍の秋元宏作捕手と併用状態になります。
特に1995年はほぼ半々なイメージ・・・


畠山ハッチ(やくみつる)などからは「無理して正捕手に据えてやる器か?」
との声が飛びました。
正直・・・ええ、自分もそう思ってました。すまん、谷繁w
終始一貫して、「谷繁の成長こそがベイスターズの成長」と言っていたのは、
故玉置宏さんくらいではなかったでしょうか。


入団から谷繁にはエピソードが事欠かずw
前の打席に打たれたボールを忘れている、
数時間打ち合わせたサインを、試合でいきなりフラッシュ(短縮サイン)にする、
大洋で髭ブームの時に、童顔克服のために髭を生やす(明らかに似合ってなかった・・・)
中でもファンの間で有名なのは近藤監督時代、
大魔神・佐々木投手が登板すると、必ず秋元に交替させられていたものを、
谷繁は佐々木に「なんで秋元さんと交替なんですか!」と直談判したそうです。
その理由が、フォークの捕球に問題があると知り、
そこから猛練習して、球界でも屈指の捕球術を身につけるに至りました。


それでも、谷繁のキャッチャーとしての評価はまだ低く、、、
1996年にプロ入り初の打率3割を達成した頃は、
打撃のほうに注目が集まっていました。
解説者の別所毅彦さんだったかな・・・野手転向を勧めた人もいました。
それでも、谷繁の意志は一度もブレなかったようです。
捕手・谷繁元信に最初の転換点は1996年の大矢監督の就任。
この年、ベイスターズは開幕から首位を独走します。
5月末には失速しますがw
ですが、この年谷繁はプロ入り最多の127試合に出場。
1998年の歓喜に向かって、歯車が回りはじめます・・・・



月刊ベイスターズ(1996年6月号)



智本光隆