歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

前橋から花燃ゆ㉚厩橋か前橋か?

2016-03-06 20:41:08 | 日記
北島寿典選手、リオ五輪(ほとんど)内定おめでとうございます。
中央高校・・・中学どこだろうw
飯塚淳司さんと箱根駅伝で同じ区間(8区)走ってるな・・・



さて、前橋城のことを前に少し書いたのでその呼称について。
「前橋」は古名では「厩橋」といいます。
古来、上野国府(現在の前橋市・旧群馬町の境付近)近くの宿駅・・・
つまり「厩」の近くに川が流れており、そこに橋が架けられていて、
そこから「厩橋」(うまやばし)と名が付き、
時代が下って「まやばし」と呼ばれるようになった・・・というのが定説です。


ただし、この「国府厩説」は伝承であって、資料的な裏付けはありません。
私は言語学はまったく門外漢ですが、
その観点から「うまやばし」が「まやばし」に変化することはない・・・
とも言い当初から読みは「まやばし」でなかったのか・・・今日ではこちらが主流です。


文献上の前橋の初見は新田郡長楽寺所蔵「永禄日記」で、
戦国時代のことになります。
ただし、前にふれましたが厩橋城は天文年間の築城なので、
永禄年間(1558~1570)より以前に厩橋(城)と呼ばれていたと思われます。


では、漢字で「前橋」(まえばし)が登場したのは何時かといえば、
城が正式に「前橋城」となったのは第5代前橋藩主・酒井忠挙(1648~1720)の代です。
ただし、その父で「下馬将軍」と謳われた大老・酒井忠清(1648~1720)は、
在任中の書簡では漢字で「前橋」、平仮名では「まやはし」(まやばし)と記述しており、
江戸時代初期は「厩橋」と「前橋」が混合していたと思われます。
忠挙以降は「前橋」となり、読みも時代が下るにつれて「まえばし」となります。
しかし、以後も古名がある種の「正式名称」として使われ「厩橋」も使用され続けます。


前に一度ふれたかも知れませんが、
明治3年に明治政府に提出された「鉄道建設建議書」に、
「上ノ厩橋」(※上州前橋)と記述されており、
明治初年でも「厩橋」の呼称が生きていたことが伺えます。



前橋城車橋門。
前橋城の数少ない遺構です。




智本光隆