1995年―――横浜ベイスターズには石井がいて斎藤隆がいて谷繁がいて佐々木がいて、
そして、盛田幸希がいた。
今日はドラフトの日ですね。
盛田がドラフト1位で指名されたのは1987年、
当時の球団名は横浜大洋ホエールズ。
同期は3位に野村、
実は長嶋一茂の「外れ1位」だったりする。
なお、盛田投手の本名は「盛田幸妃」ですが、
本ブログでは「盛田幸希」と基本的に書いています。
1994~1997年の登録名ですが、自分の中でこの名前で盛田は輝いていました。
とにかく、いろいろと「度胸」の凄まじい投手だった。
佐々木を描いた某有名マンガの影響で、ソフトなイメージを持つ人も、
当時は結構いたが本人が各方面で語るものも、
「一茂の外れ1位なんてふざけるなと思った」とか、
合宿所で同部屋の野村に「PLのお前には悪いけど俺はタバコ吸うからな」
(これに対して野村は「いや、俺も吸う」と言ったとかw)
「入団して3年は練習らしい練習しなかった。やってもダメな奴はダメだと思っていた」
などなど。
今のプロ野球に照らし合わせれば「規格外」な言動も多い。
それでも、同期同部屋の野村が先にブレイクしたことに触発され、
1992年には52試合14勝6敗2S 防御率2.05
ちなみにこれが大洋ホエールズ最後のタイトルホルダーとなってます。
そして1993年、球団名は「横浜ベイスターズ」に。
同時期にブレイクした佐々木との「ダブルストッパー」については説明不要。
横浜のほとんど唯一のウリであり、チームの象徴でもありました。
実は当初は佐々木―盛田で出てきた試合もけっこうあった記憶がありますが、
ヘルニア持ちで長いイニングが投げられない佐々木に対して、
平然と2、3イニング投げる盛田が先に自然となりました。
この時期・・・確実に盛田の方が実力は上だったと思います。
まあ、、、この2人は良く朝まで飲む仲だったのもまた有名か。
近藤監督時代に他球団の脅威となったダブルストッパーですが、
過渡期のチームは順位は5位、6位、4位・・・
しかし、その中で盛田は力投します。
今、ネット上で残っている映像を見てもそれは良く分かる。
キレのあるストレート、そして「えげつない」とだれもが形容するシュート。
そしてマウンド上で見せる気迫。
そのすべて、今の横浜には失われているものです。
このダブルストッパーが健在の内に優勝を!!
ファンの誰もがそう思いましたが、1996年に就任した大矢監督が実行したのは、
まさかの先発転向。
横浜の監督といえば某監督の、
「無死か一死ランナー三塁の時はスクイズしないと死んじゃう病」があまりに有名ですが、
大矢さんも大概にしろと・・・
ローズ―進藤―石井のコンバート以上に、
他球団に恐れられたダブルストッパーを自ら手放す愚策でした。
何よりそう思うのは、下で紹介する月刊ベイスターズの盛田のインタビューで、
彼も「言われたところをやるだけ」とは言いつつも、やりたくは無さそうであるし、
佐々木も反対しているという点。
後年、「短いイニングを抑える方が向いていた」と発言もしています。
そしてこの先発転向の年を境に、彼の輝きは少しずつ失われて行きます。
病気の件を部外者が軽々に語るべきではないと思いますが、
この年の盛田は巨人戦で危険球騒ぎとなりました。
盛田=デッドボールのように当時はイメージされていましたが、
この年の死球は盛田7。
イニング数が違うので単純に比較はできませんが、
セリーグ最多はチームメイトの斎藤隆と阪神・藪の11です。
シュートピッチャの宿命とはいえ、イメージのみ先行した感じです。
ただ、未だに納得いっていないのは巨人戦の後で、
大矢監督が盛田を2軍に降格させたことでしょうか。
この年、そして翌年も開幕当初は先発として起用されますが、
(斎藤隆が怪我のため、開幕投手も務める)
この2年間の心労が病に影響を与えたのではないか・・・そう思っています。
皮肉なことにこの1997年、中盤以降不振で2軍暮らしの盛田を抜きに、
横浜はヤクルトと優勝争いを展開します。
思えば盛田と斎藤隆抜きで戦ったわけです。
そして夢にあと一歩届かなかったこの年のオフに、盛田は中根とトレードされ横浜を去りました。
家を新築したばかりだったというのに・・・
翌年は近鉄で開幕から好調に投げ続けるものの、8月に腫瘍が見つかり戦線離脱。
盛田の去ったベイスターズはこの年、38年ぶりの歓喜に沸く事になります。
その胴上げの輪の中に、盛田の姿はありませんでした。
その後、盛田は闘病の末に2001年に復活して2勝を上げ、
カムバック賞も受賞します。
翌年に引退し解説者となりますが、36歳で再発。
以後は横浜の球団職員となり、入退院をくりかえしていたようです。
彼のブログにその様子は詳しいですが、
2014年の春を最後に更新されなくなったので、
正直、病状はかなり深刻なものであるとは思っていました。
その盛田幸希投手が亡くなられました。
引退してからもう13年、ネットなどでも現役時代を知らないという声は多いです。
ただ、あの度胸満点のピッチングに、
落合をビビらせるシュート。
秋山登、斎藤明雄が背負った横浜のエースナンバー17を背負い、
猛然と相手打者に立ち向かうその姿。
ベイスターズファンは決して忘れません。
多くの感動をありがとう、盛田。
そして、長い闘病生活。今はゆっくりと休んで下さい。
物書きのくせにまったく言葉がまとまっていませんが、
斎藤隆がまさにファンの心境を代弁してくれたような、
そんな言葉を言ってくれました。
引用させていただきます(スポーツニッポン 2015.10.17)
「彼がブルペンを支えてくれて、たくさんのものを残してくれたからこそ
98年の横浜日本一があったと思います。あまりにも若すぎます」
私も思うことがあります。
当時の彼は闘病中ですので、あまりにも身勝手な思いではありますが。
10月8日甲子園球場。歓喜に沸く胴上げの輪。
盛田幸希の魂はそこに確かに存在したのだと。
月刊ベイスターズ盛田表紙号。
実は初めてこの雑誌を買ったのが、この1995年4月号でした。
智本光隆
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