歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

名胡桃城!!

2014-09-23 20:37:20 | 日記
先日、まちなかキャンパス関係で月夜野に行ったわけですが、
関越自動車道の月夜野インターをおりまして、
すぐのところにあるのがこの、、、



名胡桃城跡 遠く見えるのは・・・六文銭。


名胡桃城は室町時代、沼田氏によって三国街道、清水街道の要衝に築かれ、
越後の上杉、小田原の北条との合戦の舞台に度々なり、
その謙信が天正6年(1578)に急逝した後、
武田勝頼の命によって真田昌幸が沼田城を攻略し、
対上杉への前線基地として、守りを固めたといいます。
(昌幸築城説もあり)




本丸中央部に建設された石碑は、
大正13年3月に「名胡桃城址保存会」によって建立。
碑文は、徳富蘇峰なんですね・・・





この城が歴史的に有名となったのは、
武田氏が滅び、真田が豊臣家の臣従した後の天正17年、
利根川の東を北条、西を真田とした秀吉の裁定を無視して、
北条が名胡桃城を強引に奪いとったことが、
豊臣による「小田原征伐」の
端緒となります。
拙著『天下人の血』(学研歴史群像新書)では、
豊臣秀勝が「叔父御(秀吉)め、さぞや猿踊りでも踊って喜んだだろう。趣向が悪ぃや」
とか言っていましたが、秀吉の陰謀か?はさておき。
結果的に名胡桃城をめぐる争いが、
120年の戦国乱世と終結させる大戦へとつながったわけです。


その後は名胡桃城は破却され、現在は遺構が残るのみ。
真田氏は関ヶ原の合戦後に松代に転封、沼田は分家が継ぎますが、
延宝8年(1680)に江戸の両国橋架け替えで水増し検知が露見し、
取り潰しとなります・・・




さて、道沿いには「名胡桃城案内所」があり、
ちょっとお邪魔させていただいたのですが、
なんとこちら、『神剣の守護者』の帯文をいただきました、
早川知佐さんが3月においでになったそうです。
(講演の翌日だそうです)

案内所の方曰く、
「着物でおいでになりましたよ。その後、上毛高原駅まで歩いていかれて」
着物はわかりますが・・・3キロくらいあるような(汗
しかも、確かあの時期は雪が!
いや、でもアグレッシブなご活躍、何よりです。
水上の講演、非常に参考にさせていただいております。
足元にも及んでおりませんが・・・そこはこれからも精進します!



智本光隆

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