歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

10年

2021-03-11 12:50:00 | 日記

3.11

あれから10年が経過しました。

2011年3月11日。朝にカワヅザクラを見に行きました。

そして、『豊臣蒼天録』の1巻部分を執筆中に2階の仕事場で揺れを感じました。

(当時はまだタイトルはついていませんが)

その当時、家族のひとりが仙台に暮らしておりまして、

まずテレビを見て、名取の津波映像をみて絶句したのを覚えています。

場所が名取と4、5キロしか離れていない。

これ、どうなっているんだと。

 

 

夕方近く、生存確認だけは取れましたが、そこからまた連絡が取れない状態に陥り・・・

新潟、山形経由で被災地に向かったのが3月15日。

どちらかというと中越地震のイメージから「道は土砂崩れで埋まっていないか?」と、

直前まで福島ルートにするか、父親と紛糾していました。

・・・この時点で福島を通り抜けられるわけはないんですが。

山形駅で合流して、そこから引き返してきました。

仙台入りしたのは3月末の東北道開通翌日でした。

当時、「東北道の現状」「東北道 現状」で探索すると、

このブログが2番目になっており、それでお越しになられた方もいるかと思います。

東北の地震 - 歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」 (goo.ne.jp)

(ここから連載?のように続きます。今読むと事実誤認や色々ありますが)

ちょうど卒業年だったので仙台のアパートを引き払ったのが4月10日のこと。

 

思い出せばキリはないです。

当日、「津波警報は解除された」という誤報が仙台の町に回ったらしく、

それなら「アパート戻れ」と繋がった電話で指示し、

その後に「若林区役所に津波が到達」とニュースが流れ真っ青になりました。

結果をいえばそれも誤報でした。

山形までひたすら走る。山形駅は微妙に雨でした。

写真を撮ったら白い光の粒のように映っていました。

 

 

家に帰ったら、カワヅザクラが満開になっていたとか。

父、伯父、伯母が「あの向こう(仙台東部道路)から水に浸かって人が死んでいる。

その「におい」がする。前橋空襲のときの利根川と同じだ。お前は分からないか?」と、

3人まったく同じことを言った、とか。

その3人のうちで、伯父と伯母はこの10年で故人になりました。

命には限りがあり、明日は必ず訪れるわけではない。

10年前に分かっていたことではありますが。

 

あの頃、「10年後」を想像はしなかったと思いますが、

自分自身のことをいえば、思い描いていた10年後とは少し違うでしょう。

あの後、福島にいく機会はありましたが、仙台には一度も行っていません。

「自分にできる復興の手助け」と考えつつ、何も出来ずに10年が流れた・・・

それが自分自身で現実かも知れません。申し訳なく、悔しいですが。

 

 

今年は震災関連のニュースをよく目にしますね。

それが10年の節目だからなのか、他に理由があるのか分かりませんが、

10年後の東北は元の東北にどこまで「復興」したのか?

そして今の日本は元の日本であるのか?

それともどこかで道を違えているのか?

最後に、いつもこのブログのトップにある10年前に被災地から頂いて言葉を、

もう一度ご紹介したいと思います。

 

 

「桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。

1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております」

 

 

 

2011年3月15日 山形駅前

 

 

花は咲く

 

 

祈りを。

 

 

 

智本光隆



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