SHAンパンでもいかが?

「最終楽章 気分はAdagio」
77歳の一人暮らし。

文豪と美少年

2023-12-16 09:12:00 | 日記

1809年、ドイツ
ハンブルクの
ユダヤ人家庭に生まれた
メンデルスゾーンは
間もなくベルリンに
移ります。

父アブラハムと
妻のレ―アは
熱心に子供達を教育
しましたが
基礎教育は父親が
文学や音楽など芸術は
母親が教えました。

10歳になるころ
ギリシャ語やラテン語など
を教える教師として
当時、最高の言語学者が
やってきました。
又、ピアノは
一流の演奏家が教え
絵画の訓練も
始まりました。



そんな10代の頃に
ドイツの文豪ゲーテを
訪れます。




巻毛で美少年の
メンデルスゾーンは
バッハやモ―ツァルトの
作品に加えて
自作のピアノ曲を
披露しましたが
72歳のゲーテは
感動で言葉が
出なかったようです。


それ以降
メンデルスゾーンは
ゲーテのもとに
足しげく通います。
ゲーテは
べ―ト―ヴェンの音楽に
無関心でしたが
メンデルスゾーンは
60歳以上年上のゲーテに
物怖じすることなく
べ―ト―ヴェンの魅力を
切々と訴えました。

同時代の音楽家たちと
交遊のあった
ゲーテですが
最も高く評価したのは
メンデルスゾーン
だったのです。



保守的な天才

2023-12-15 17:56:00 | 日記


1835年、
パリに生まれた
サン・サ―ンス。
生後すぐに父を失い
ピアニストの
大叔母に育てられ
2歳半からピアノの
手ほどきを受け
才能を発揮します。
3歳になると作曲も
始めました。
10歳の時に
デビュー・リサイタル。

パリの
聖マドレーヌ教会の
オルガニストになり
名声を轟かせました。

彼が作曲した
「交響曲第3番」
オルガン付きは
パイプオルガン
だけではなく
ピアノ奏者2人を
必要とする
大がかりな曲で
オルガンが壮麗に
鳴り響く素晴らしさに
聴衆は圧倒されました。
オルガンを用いて
これほどの迫力で
効果をあげたのは
サン・サンサ―スが
最初でした。
オルガンの名手だった
彼らしい着想です。

この交響曲は
初演直後に世を去った
リストに献呈しています。





サン・サンサ―ンスは
保守的で
後世に名を残す
ドビュッシーや
ストラヴィンスキ―を
宿敵とみなすくらい
近代的な音楽を嫌悪
していました。

ドビュッシーとは
目指す音楽が違うので
烈しく批判しあった
ようです。




師に恵まれ

2023-12-14 08:02:00 | 日記

ハンガリーの小さな村で
生まれたリスト。

父親は
ハンガリーの大貴族
エステルハージ侯爵家の
土地管理人と
宮廷楽団のチェロ奏者
でした。
リストが7歳になると
ピアノや作曲を
教えましたが
9歳の時には
コンサート
ピアニストとして
デビューしました。
貴族達からの
奨学金を得て
両親とともに
ウィーンに留学。

ピアノの師は
カール・チェルニー。
リストは毎日14時間
ピアノの練習をしました。

作曲の師はサリエリ。
ハプスブルク家の
宮廷楽長として
ウィーン楽壇のトップに
君臨していたサリエリ
経済的に
全く心配がなく
リストに無料で
レッスンした上に
ウィーンの街に
住居を提供して
毎日、レッスンに
来れるように計らった
懐の深い先生
だったようです。

映画「アマデウス」の
怖いイメージとは真逆で
リストにとって
大恩人でした。

   ✨✨✨✨✨

映画「アマデウス」より
サリエリとモーツァルト



  ✨✨✨✨✨✨
 

リストはサリエリへの
恩を忘れず
若い音楽家達の支援に
力を注ぎました。

 


北欧のセンス

2023-12-13 09:28:00 | 日記


グリーグは1843年に
ノルウェーのベルゲンで
生まれました。
家は海産物商で
父親はイギリス領事も
兼ねていました。
母親は地元で知られた
プロのピアニストでした。

15歳でドイツの
ライプツィヒ音楽院に
留学します。
そこで出会った
ピアノの師は
シューマンの親友の
ヴェンツェルでした。
この師を通して
グリーグはシューマンに
傾倒していきます。
シューマンの
ピアノ協奏曲を
聴いたのはこの街で
独奏は作曲者の妻の
クララ・シューマンでした。

このシューマンの
協奏曲との
出会いは
グリーグの
ピアノ協奏曲に
大きな意味を
持たらしました。

2つの協奏曲は
共通点が
沢山あるのです。
いずれもイ短調で
冒頭はピアノの
下降音型で
始まります。
すぐにオーボエが
メロディを吹くところや
2楽章から終楽章まで
立て続けに演奏するのも
同じです。


グリーグが
ピアノ協奏曲を
書いたのは1868年
結婚の翌年で
新婚の甘い気分の中で
作曲され
北欧的な
叙情溢れる作品の初演は
大喝采を浴びました。

翌年、グリーグは
ローマに
リストを訪問して
巨匠の批評を
仰いだところ
59歳のリストは
初見で演奏して
絶賛したのです。

グリーク
ピアノ協奏曲の冒頭です。
キーシンとベルリン・フィル

(2‘25‘‘)




高校時代の作品

2023-12-12 10:36:00 | 日記



1810年、ロシア帝国の
支配下にある
ポーランドのワルシャワから
46キロに位置する
ジェラゾヴァ・ヴォラで
生まれたショパン。

父親は
フランス語、ドイツ語、
ポーランド語を話し
文学に造詣が深く
ヴァイオリンを弾きました。
母親は
ポーランド貴族の
末裔でした。

幼い頃、ショパンは
父親と家庭教師に
勉強を教えて貰いました。

高等学校から
学校に通い始めますが
この父親の教育方針は
時間に余裕があったので
思う存分ビアノの練習をし
作曲の勉強もできたようです。

ワルシャワの
高等音楽学校在学中の
ショパンは
ピアノと管弦楽のための
作品を書きます。

モーツァルトのオペラ
≪ドン・ジョバンニ≫からの
二重唱
「お手をどうぞ」と歌う
とても可愛い曲から
テーマをとった
変奏曲です。

当時ライプツィヒにいた
シューマンはこの楽譜を
取り寄せて
「諸君、天才だ、
帽子を脱ぎたまえ」という
言葉で有名なショパン評を
ライプツィヒ音楽時報に
書きました。

この曲は
ショパン・コンクールで
ブルース・リウが
演奏しています。

   ✨✨✨✨✨

モーツァルト
≪ドン・ジョバンニ≫の
「お手をどうぞ」の変奏曲
B−dur Op.2











小春日和

2023-12-11 05:21:00 | 日記


気持ちの良いお天気が
続く12月ですね。


今夜はクラシック
音楽館。

ニルセン(1865 ー1931)

「アラジン組曲」から抜粋

①祝祭行進曲
②ヒンドゥーの踊り
③イスファハンの市場
④黒人の踊り

カルル・ニルセンは
現代デンマークが生んだ
最初の音楽家です。

彼は
はじめは羊飼いでしたが
軍楽隊の
トランペット奏者になり
なり交響曲の作曲を
手掛けました。

その後は
ニルセンと同年生まれの
シベリウスの作品。
「交響曲第2番」


   ✨✨✨✨✨✨

後半は最も心に残った
コンサートより

パスカル・ロジェのピアノ
サン・サーンス
「ピアノ協奏曲第5番

ブロムシュテット
マーラー
「交響曲第9番」第4楽章

やっぱり凄かった!

椅子に座り
指揮棒無しの
小さな手の動きで
ドラマティックで
深く静謐に満ちた
音楽が
紡ぎ出されました。









演奏会終了

2023-12-10 09:26:00 | 日記

昨日の演奏会は
沢山のお客さまに
お越し頂き
無事に終了致しました。




ジョスカン・デュ・プレ
パレストリーナ
バッハ
ハルモス
髙田三郎など
ルネサンス期から
現代までの
ブログラムでしたが
沢山のアンケートには
嬉しいコメント、
そして「ガザ人道支援」の
多くの献金を
頂きました。




難しいバッハの
カンタータ2曲は
ソプラノのM先生と
沢山のやり取りの中で
新たな世界が
次々と見えてきた
本当に楽しい時間。

帰宅後は久しぶりに
ワインを空けて
演奏会の余韻を
味わうことが
できました。














   





多額の借金

2023-12-08 09:32:00 | 日記

ツヤツヤに光る
ミカンが
店頭にありました。
冬本番ですね。

   ✨✨✨✨✨

フランスを代表する
音楽出版社デュラン。




ドビュッシ―と
ジャック・デュランは
パリ音楽院の作曲科で
学んだ同級生です。

のちにふたりの女性の
自殺未遂事件を起こした
ドビュッシー。
友人達が離れて
いきましたが
デュランだけは
彼を
見捨てませんでした。

ドビュッシ―は
感受性が強く
異常なほど
神経質だった
ようです。
美しいもの
センスの良いものが
好きで
煙草を立て続けに吸い
キャビアが大好物で
どんなに
貧乏になっても
花を飾り
上等な版画や書物に
囲まれていたようです

いつも金銭面の問題を
抱えているので
デュランは
作曲料の前金や
印税の
前払いという形で
会社から気前よく
お金を
貸し続けました。
ドビュッシーの
借金は他にも多数あり
一億近くになっていた
ようです。

ジャック・デュランに
献呈された
交響詩≪海≫は
ドビュッシーを代表する
作品のひとつです。





ドビュッシーの借金は
彼の死後9年目に
ようやく完済しました。

これ以後
印税が妻エンマのもとに
入ることになりますが
大幅に上昇した
印税で
エンマのみならず
前妻のリリ―も
救うことに
なったのです。

フランスの
近代音楽の
頂点に立った
ドビュッシー。
デュランは
フランス音楽の発展に
大きな功績を残しました。

親子ほどの年齢差

2023-12-07 11:06:00 | 日記

長年、べ―ト―ヴェンの
楽譜で親しんでいた
ルドルフ大公の名。
威厳のある王さまかと
勝手な想像を
巡らせていましたが、、。

   ✨✨✨✨✨



ハプスブルク家の女帝
マリア・テレジアの孫で
マリ―・アントワネットの
甥のルドルフ大公。
20代後半で聖職に就いて
大司教、枢機卿の
重責を担いました。





べ―ト―ヴェンよりも
17歳も若かったのですが
べ―ト―ヴェンの
パトロンであり
作曲やピアノも
習っていました。

ピアノ協奏曲第5番
≪皇帝≫は
ルドルフ大公に
献呈されました。
ウィーンの
私的な演奏会で
初演を務めたのは
ルドルフ大公
だったのです。


ピアノソナタの
≪告別≫は
ナポレオンの
ウィーン侵攻により
ルドルフが
ウィーンから
退避する時に
書かれました。

≪ミサ・ソルムニス≫は
大公の大司教就任を
祝うために
書かれたものです。

≪大公≫と名がついた
ピアノ3重奏曲もあり
合計14曲以上が
ルドルフ大公に献呈
されました。

ルドルフ大公は
べ―ト―ヴェンが世を去る
1827年まで18年間
滞りなく年金を
贈っていましたが
ピアノや作曲の
レッスン代も
支払われたようです。

パトロンや
師弟関係を超えて
生涯の友となりましたが
べ―ト―ヴェンの没後
4年目の1831年
病弱のために
43歳の若さで
世を去りました。
彼はべ―ト―ヴェンの
初版楽譜を
所有していて
私信も含めて全て
ウィーン楽友協会に
寄贈されました。

   ✨✨✨✨✨

頂いたばかりの
コ―ヒ―豆が
ありましたので
今朝は
べ―ト―ヴェンを
想いながら
60粒を数えて
コ―ヒ―を淹れて
みました。(*^^*)










3度の結婚

2023-12-06 08:52:00 | 日記


✨✨✨✨

セルゲイ・ク―セヴィッキー
(1874―1951)

ユダヤ人音楽家の一家に
生まれたク―セヴィッキー。
ボリショイ劇場の
コントラバス奏者として
活躍していました。




1902年に
ボリショイ劇場で働く
バレリ―ナと結婚しますが
3年後には離婚。

すぐに彫刻家の女性と
再婚します。
彼女はロシア帝国最大の
お茶商で巨額の資産を
手にしていました。
この再婚によって
多額の資産を手にした
ク―セヴィッキーは
ベルリンに引っ越し
指揮者
アルトゥ―ル・ニキシュに
指揮を学びます。
同時に
学生オ―ケストラを雇い
自宅で指揮の勉強を
続けました。

1908年に
ベルリン・フィルハ―モニ―
管弦楽団を雇って
指揮者デビューを
果たします。(゚∀゚)

資金力を用いて
指揮者・楽譜出版者
新作の委嘱者として
モスクワやパリで大活躍。
パリ音楽界の
中心的存在
になりました。

1924年に
ボストン交響楽団の
指揮者となり
アメリカに移住します。
彼が監督を務めた
25年間に
ボストン交響楽団は
世界を代表する
オ―ケストラの一つに
なりました。
サマ―コンサ―トや
タングルウッド音楽祭の
発案をしましたが
彼の門下には
レナ―ド・バ―ンスタイン
います。



1947年に妻が亡くなると
ク―セヴィッキー財団を
設立します。
バルト―ク、
ブリデンのほか
コ―プランド
メシアンなど
多くの作曲家に
新作を依頼し
重要な作品が
生まれました。

1947年には
妻ナタリアの姪で
夫妻の秘書を努めていた
オルガと3度目の結婚を
します。

まるでスカ―レットの
男性版のようですね。



1951年に
彼が世を去ると
オルガは遺志を
引き継ぎ
その活動は今もなお
続いているのです。

のちに
ボストン交響楽団は
小澤征爾氏が
29年にわたり
音楽監督を
務められました。

タングルウッド音楽祭







 

200年経って大ヒット

2023-12-05 20:03:00 | 日記


アントニオ・ヴィヴァルディ
(1678―1741)


1703年
ヴェネツィアの
孤児達が暮らす
慈善院「ピエタ」で
少女オ―ケストラを
育て上げながら
500曲もの協奏曲を
作曲しました。

ヴィヴァルディの名声が
高まったのは
協奏曲曲集
≪調和の霊感≫が
出版されたことに
よります。



人気作曲家となって
ヨ―ロッパ各都市を
巡りました。

≪調和の霊感≫の
献呈を受けたのは
フィレンツェを
長年支配してきた
メディチ家の御曹司
フェルディナンド・デ・
メディチです。
音楽に情熱を捧げ
著名な音楽家達を
庇護しました。

≪調和の霊感≫の表紙には
「トスカ―ナ公フェルディナンド3世殿下に捧げる」
と書かれています。
 ↓



その後、
ヴィヴァルディの名は
ほとんど知られることなく
埋もれていましたが
日の目を見るように
なったのは
1960年に
なってからでした。
第2次大戦後
疲弊した世界経済。
大編成のオ―ケストラが
世界各地をツアーが
できなかった時代に
小編成の合奏団の
イ・ムジチが
演奏する
≪四季≫のレコードが
驚異的なベストセラ―を
記録しました。

世界中で大ヒットを
飛ばしたことで
バロック音楽ブ―ムが
巻き起こったのです。





ひょっとして雨男?

2023-12-04 08:57:00 | 日記

昨日の朝は
待降節のミサを
弾かせて頂きました。


午後は
バッハ・カンタ―タの
合わせ。
指揮者のM先生に
聴いて頂きましたが
聖堂内は
響きが良すぎて
音が散るので
合わせるのは
大変です。


  ✨✨✨✨✨

夜はゆったりと
クラシック音楽館で
反田恭平氏の
奈良の大仏殿での
演奏会を聴きました。

① ショパン
アンダンテ・スピアナ―ト
ピアノ・ソロと指揮の
弾き振りです。

吃驚したのは
滝のような大雨が
映ったこと。
そんな状況なのに
ppの音がきれいで
流石の演奏でした。






② ブラ―ムス
交響曲第1番

ブラ―ムスの演奏の間も
滝のような雨は
最後までやまず。
そんな中、熱演が
繰り広げられました。

反田恭平氏は雨男?
私もブラ―ムスを
聴きに伺った時は
台風?の大雨の日
だったように思います。
(*^^*)




最後のインタビューで
「僕の雨男のせいで、、、」と
おっしゃいました。(*^^*)




改革に着手した二人

2023-12-03 08:53:00 | 日記

今日から待降節。
クリスマスへの準備が
始まります。






   ✨✨✨✨✨

マリ―・アントワネットの母
マリア・テレジアの時代。

先帝達の散在によって
国庫がほぼ空になっていた
オ―ストリアの立て直しに
乗り出しました。






マリア・テレジアは
さまざまな改革を断行し
女傑として世に
その名を知らしめました。

オペラ作曲家の
クリストフ・ヴィリバルト・
グルックが
活躍した時代でしたが
グルックも当時の
あまりにも歌い手中心で
技巧的になりすぎた
イタリアオペラを
痛烈に批判していました。

人気歌手達は
劇の進行など
お構いなしで
自慢の美声を
延々と披露し
時には全く違う
オペラのアリアまで
歌ってしまうことも
あったようです。

グルックは
劇の進行を妨げる
余計な装飾を廃止して
オペラの原点に
立ち返り
シンプルで
見通しの良いオペラを
作ることに
成功しました。

マリア・テレジアは
その際だった才能を
高く評価しました。
グルックの最高傑作
≪オルフェオと
エウリディーチェ≫の
初演には
マリア・テレジアも
臨席し絶賛しました。

子供時代に
音楽を教えてもらった
マリ―アントワネットの
引き立てで
グルックは
パリ・オペラ座と
契約を結びます。





彼はウィ―ンとパリを
行き来する生活で
ヴェルサイユ宮殿の中の
プチ・トリアノン宮殿にも
招かれました。






鉄道王夫人

2023-12-02 10:24:00 | 日記


朝、窓を開けると
椋の木が
黄色に染まっています。



寒暖差アレルギーが
酷くて
歯科検診はパス
しました。


  
  ✨✨✨✨✨


鉄道王夫人
「ナジェンダ・
フォン・メック」

16歳の時に彼女は
カ―ル・オット―・ゲオルグ・フォン・メックと
結婚しました。
28歳の夫は
運輸省に務める
国家公務員でしたが
子供が増えて
家計が苦しくなり
妻の希望で
実業家に転身します。

当時ロシアは
鉄道の黎明期で
モスクワ・リャザン鉄道の
大きな契約を獲得し
カ―ルの手元に
莫大なお金が
転がり込んで
きました。

彼は54歳で
世を去りましたが
家族には
広大な土地と
数十億円の資産が
遺されました。

妻は会社を継ぎ
事業を続けながら
音楽家たちを支援
するようになります。

チャイコフスキ―は
年に2100万円の
資金援助を受け
モスクワ音楽院の
教職をやめて
作曲に
専念するようになり
「眠れる森の美女」や
「弦楽セレナード」などの
名作を生み出しました。

支援に深く感謝した
チャイコフスキ―は
≪交響曲第4番≫を
献呈しましたが
匿名を願う
フォン・メック夫人の
願いを聞き入れて
『最良の友人に』と
書き込まれました。

交響曲第4番4楽章